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第十七話 真夜中の訪問者

 その夜。

 ディランは、うつむいた姿勢でスープの皿に向かうサージャの、白い首筋を見るともなしにながめていた。


(……あんなところにも、蔦模様があったのか)


 襟足からのぞく黒い蔦模様は、瘴気の痕跡とは裏腹に、まるで白い大理石にきざまれた繊細な彫刻のように見えた。

 禍々しい瘴気も、サージャの体内に入ると別のものに生まれ変わるようで、なにか神聖なものを目のあたりにした気持ちになる。


 はじめてサージャのアザにふれたとき、その熱さに驚いたものの、嫌な気はしなかった。

 神秘的な模様を描くそれは、サージャの形代としての『代償』というよりも『慈愛』の象徴のように思えた。


 昔から人々に忌み嫌われてきた瘴気が、彼の浄化力によって、美しい姿に昇華される。蔦と変化して彼の体にからみつく様子は、まるで彼から離れたくないようだ。

 それは同時に彼を苦しめていることに、蔦と化した瘴気は気づかないのか。


「どうしたんだよ? 料理、冷めちゃうぞ?」


 サージャはいつの間にか食べ終えて、ディランを不思議そうに見つめていた。野菜と肉をたっぷり煮こんだスープに、かために焼いたバケット、さらにぶ厚いステーキと、サージャは残すことなくペロリとたいらげる。しかし彼はどちらかというと、細身の部類だ。


「いったい君のどこに、この料理が入るのだろう」

「? 胃だろ?」


 サージャは出されたデザートにも手をのばした。木の実とドライフルーツがたっぷり入ったケーキは、食後に食べるにはかなり重たい。甘いものが苦手ではないディランだが、サージャのように楽しんで食べるのは難しそうだ。


 食事については幼いころから、決められた量を決められた時間に食べていた。

 やがて成人すると、公務や軍部の仕事の都合上、食べられるときにもっとも効率の良い食べ物を口にするようになった。ときには晩餐会や会食に呼ばれて、形式的な料理を決められた通りに食べる。

 食事は生きていく上で必要な行為で、社交にも役立つ。だがそれだけだ。


「このケーキうまいよ。食べないの?」

「いや、私は結構だ」


 サージャはふうん、と首をかしげたが、再びフォークを手に食べ進める。実においしそうに食べる姿は、ディランの気持ちにも変化をもたらした。


「やはり、少しもらおう」

「じゃあこの、最後のひと切れを半分ずつにするか」


 なんとサージャは、皿に乗せられていたケーキをほとんど食べつくしていた。


「君は甘いものが好きなのか?」

「いや特には? 出されたものは、ぜんぶ食べるのが礼儀かと思っただけ」


 サージャはふう、と息をついて胃のあたりをさすった。

 ディランはその姿に目を細める。いつもより――とは言ってもまだ彼と出会ってから、数日しか経ってないが――少しおしゃべりで、明るい気がする。


(やはり、私に話すつもりはないのか)


 人の信頼を得るのは難しい。

 失うときはあっという間なのに、だ。


「君は、あの神官から何か受け取ったのではないか」

「えっ……」


 サージャの驚愕した様子に、ディランは確信を持つ。半分引っかけで言ったのだが、どうやらあたったらしい。


「なんて書いてあったか、私に話す気にはならないか」

「……大神官様からの伝言だよ。いつもの体調を気づかう言葉と、なにかあればいつもの薬を届けるって、それだけ」

「そうか……」


 本当にそれだけだろうか。

 疑わしく思うが、そんな自分の態度こそ、彼を信じてない証拠だ。


(おたがいさま、だな)


 ディランは心の中で皮肉に思った。




 夕食後、王子はあわただしく執務室へ戻っていった。

 なんでも明日はアンクランの神官につきそって、城下町や神殿を案内するらしい。


 サージャは寝室のベッドに座って、靴の中に隠しておいた小さな紙きれを取り出した。


(お前を『終焉の家』へ連れていく、か……)


 大神官からの伝言に書かれた『終焉の家』は、この数ヶ月のあいだ、たびたびサージャの頭によぎった言葉だ。そしてサージャはいつしか、その場所へ連れていかれる日を待ちこがれるようになっていた。


 サージャの『形代』としての浄化力は、そろそろ枯渇しそうだと、周囲の関係者だけではなく、サージャ本人もうすうす気づいていた。


 神殿にやってきて、もう八年経った。

 はじめての浄化はサージャにとって、もっともつらい記憶として脳裏に刻まれている。そのときに浄化力の、実に半分以上を費やしてしまったが、それから数年ほどは比較的おだやかな日々が続いた。

 ときおりアザが浮き出てきては、数日部屋にこもることもあったが、たいていは一過性の発作のようなもので、過ぎ去ると再びおだやかな日常を送ることができた。


 しかしこの六ヶ月の間、突然大量の瘴気が体のいたるところに流れこみ、サージャの浄化力を使わない日がなくなった。ひとつのアザが消えると、もうひとつ別のアザが浮かび上がるといった具合で、一時は全身くまなく黒い蔦に広がったこともあった。

 それでもなんとか持ちこたえていたが、最後に左目がひどい瘴気に侵されて、まるで初めて浄化したころのような、猛烈な苦しみを味わった。


(たぶんあれで、浄化力を使いきったんだ)


 苦しみの中で眠りにつき、明け方に目を覚ますなり鏡をのぞくのだが、黒いアザはいっこうに消えようとしなかった。


 ――そろそろお前の浄化力は尽きるかもしれんが、覚悟はできているか。


 これは体全体が瘴気に侵されたとき、ベッドでもがき苦しむサージャに向けて、大神官が告げた言葉だ。


(覚悟なんて、もうとっくにできてたよ。役目さえ終えれば『終焉の家』へ行けるんだから)


 術者から聞いた話では、もはや『形代』として浄化ができなくなったときのために『終焉の家』と呼ばれる場所が用意されている、ということだ。

 その家は何年も前から、サージャただひとりのために準備されてきたらしい。

 特殊な魔法のおかげで、外部から瘴気の侵入を遮断する家は、サージャの理想としていた太陽の下で、普通の暮らしが送れるという魅力的な話だった。


(でも昔はそんな暮らしが、あたりまえだったんだけどな)


 実家の営む雑貨屋で、買い物を言いつけられて市場へ行ったことや、兄弟たちと近くの川まで魚釣りに出かけたこと、休みの日に家族の洗濯物を、竿いっぱいに干したことなど、思い出しはじめたらキリがない。


(……って、思い出してもしょうがないだろ)


 サージャは我に返ると、浴室にかけこんで冷たいシャワーを浴びた。冷たい水は頭を正気にさせ、現実に引き戻してくれた。


 もうあの、あたりまえの日常はない。

 これから得られるとすれば、『形代』としての役目を終えたあと、例の『終焉の家』で暮らす日常だ。


 ――最後くらい、もう一度だけ『あたりまえ』の暮らしをしてみたい。


 そのときカタンと、窓の外から音がした。それに続いて、誰かの声が聞こえてくる。


「そこにいるのでしょう……『形代』の君」


 サージャはギクリとして、しばらく息をつめていたが、再び同じ言葉をかけられ、これは生身の人間だと確信を持った。


 窓辺に近づくと、バルコニーに人影があった。

 闇夜にまぎれて、その人物のシルエットしか見えないが、どうやら神官の着るローブ姿みたいだ。


「迎えにきましたよ。例の場所までは私が案内すると、大神官からの伝言に書いてあったでしょう?」


 そうだ、例の紙きれには『アンクランの神官を迎えによこす』と書かれていた。


「あなたが疑うのも、無理もありません。しかしあなたにとって、王宮を抜け出して例の場所へ向かう、最後のチャンスだと思いませんか?」

「それは……」


 たしかに彼の言う通りだ。だからと言って見ず知らずの人間に、自分の今後の運命をゆだねるのは、あまりにも警戒心が薄く、無謀な行動だと思う。


「……まだ時間が必要のようですね。それではまた三日後にきます」


 その言葉とともに、人影は暗闇に溶けるようにして、姿をくらませた。

 それに一歩遅れて、今度は寝室の扉がカタンと音を立てた。

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