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第81話


 舜永が晧月の部屋を訪れるより、ほんの少し前のことである。


(兄上ばっか、ずるいよな)


 どうやら晧月は人知れず、冷宮にいる重華の元を訪れているらしい。

 さすがは皇帝というべきか、その証拠は全くもって掴めなかったものの、それを伝え聞いた舜永はそれが事実であると確信した。

 それならば、自分も、と皇帝と違い本来許可なく冷宮を訪れることすら許されていないはずなのに、舜永は晧月同様誰にも知られないよう冷宮を訪れる手筈を整え、冷宮に忍び込むことを決心したのである。


(珠妃だって、そろそろ冷宮暮らしも辛くなって出たいはず。俺の妃になるなら出してやるって言えば、靡くかもな)


 そんなことを考えながら、重華のいる小部屋の扉を開けた舜永は目の前の光景に驚愕した。

 扉を開けて、最初に舜永の目に飛び込んできたのは、冷たい床に横たわる重華の姿だったから。


「え?珠妃!?」


 舜永はあわてて傍に膝をつき、その身体を揺すってみた。

 しかし、ぐったりとした様子で目を閉じた重華からは、何の反応もなかった。

 ただ、非常に弱々しい呼吸音が、かすかに聞こえるだけである。


「おい、珠妃、しっかりしろよっ」


 さらに強く揺すり、声をかけてみても、結果は同じだった。


「あっつ!」


 額に触れると、明らかに体温が高いことだけはよくわかった。


(これ、かなりまずいやつなんじゃ……?)


 一刻も早く医者に診せないと危険だと舜永は思った。

 だが、無断で忍び込んだ舜永が、この場に医師を連れてくることができるはずもない。


(どうすれば……)


 弱々しい呼吸を繰り返す重華の様子を見ていると、一刻の猶予もないように思えた。

 そんな時、舜永の頭に浮かんだのが、晧月だった。

 皇帝である晧月なら、きっと重華を助けられるはず。

 そう考えた舜永は、すぐさま部屋を飛び出し、晧月がいるだろう月長宮へと急いだのだ。






「重華、しっかりしろ、重華っ!」


 重華の元を訪れた晧月は、床に横たわる重華を抱き起こして声をかけた。

 だが、舜永の時と同様に、重華からは何の反応もない。

 重華はただ、晧月の腕の中でぐったりとしているだけだった。


「熱が高いな」


 舜永もしたように、晧月もまた額に触れて熱を確かめた。

 それから、持ってきた外套で、重華をその姿が見えないようきれいにくるむ。

 その様子を、舜永は訝しげに見つめた。


「どうすんの?」

「月長宮に連れて行く」

「琥珀宮じゃなくて?」

「まだ、珠妃を冷宮から出す宣旨は下していない。先に琥珀宮に戻っていたことが、後々問題になっても面倒だからな」


 そう言うと、すっかり姿がわからないように晧月の外套にくるまれた重華を抱き上げ、晧月は立ち上がった。


「月長宮なら、皇帝の寝所だ。どこかの生意気な弟以外、無断で押し入ってくることもないから、人目にもつきにくい」

「すっごい嫌味……」

「嫌味を言われたくないなら、今後は行動を改めるんだな」


 とはいえ、今回ばかりは、晧月は舜永が無理矢理にでも訪れてくれてよかった、と思っている。

 もし正当な手順で謁見を申し出ていた場合、かわいがっている第五皇子や第六皇子ならまだしも、そうでもなければいくら弟といえど遅い時間を理由に追い返していたはずだ。

 そうなれば、こうして重華の不調を知ることすらできなかっただろうから。


「柳太医の寝所、わかるな?」

「ああ」

「行って、叩き起こしてでも、太医をすぐに月長宮に連れてこい」

「わ、わかった」


 先に駆けだした舜永を見送った晧月は、重華を抱える腕にぐっと力を込めた。


(もう少し、もう少しだけ、耐えてくれ)


 祈るような気持ちで、晧月は月長宮までの道のりを急いだ。






 月長宮に着くや否や、晧月の寝台へと寝かせられた重華は、舜永によって連れてこられた柳太医の診察を受けている。

 その様子を、晧月も舜永も、少し離れたところから、黙って見ていることしかできなかった。


「珠妃様……」


 困ったように重華を呼ぶ柳太医の声が響き、晧月も舜永もはじかれるように重華に近づいた。


「どうした?何かあったのか?」


 同じ疑問を舜永も抱えていたけれど、先にそう太医に問いかけたのは晧月だった。


「あ、その、薬を飲んでいただこうと思ったのですが……」


 意識のない重華は、どうやら薬を口へと運んでも飲めなかったらしいというのは、現状から晧月にも舜永にもわかった。


「ほ、他に、何か、飲ませる方法は……」

「貸せ」


 舜永が太医に問いかけ終わる前に、晧月は太医から薬を受け取った。


「え?兄上、どうすんの?」


 薬を飲ませる人間が柳太医から晧月に変わったところで、重華が薬を飲めるようになるだなんて舜永には思えなかった。

 それより太医に何か別の方法を考えてもらう方がずっといいはずだ、舜永がそう思っていると、驚くことに晧月は重華に飲ませるはずの薬をあおった。


「な、にして、んのっ!?兄上が飲んだって、珠妃が飲んだことには……って、え!?」


 まさか代わりに飲んだとでも言うつもりか、と舜永が声を荒げたところで、晧月は舜永には目もくれなかった。

 ただ、薬を含んだまま、そうすることが当然であるかのように重華へと口づけたのだった。


(う、そ、だろ……)


 舜永は目の前の光景を、驚愕の表情で見つめた。

 舜永にだってわかっている、これは単なる口づけの行為ではなく、重華に薬を飲ませるための行為なのだと。

 現にそうして薬を飲まされた重華は、こくりと喉を鳴らして薬を飲み込んだ。

 しかし、全ての薬を重華が飲み終えるまで、何度となくその行為を繰り返す晧月は、舜永にとって自身が知る晧月とは別人のように思えた。

 今までまるで女性になんて興味のなさそうだった晧月が、たった一人の妃のためにそこまでするなんて、とても想像できないことだったのだ。


「これで、いいのか?」


 全て飲ませたと主張するかのように、晧月は空になった器を柳太医に見せた。

 柳太医もまた驚きながらも、頷いてみせる。


「はい。ただ、その……、お身体がかなり弱っていらっしゃるので、ご回復なさるまでには、かなり時間がかかるかと……」

「わかった。それまで、珠妃のことは全てそなたに一任する」

「かしこまりました。誠心誠意、務めさせていただきます」


 柳太医はそう言って、晧月に対し深々と頭を下げた。




 柳太医は一通り診察と処置を終えると、また明日改めて来る旨を晧月に告げ、早々とその場を立ち去った。

 それによって、室内に晧月と二人きりで取り残されたような気分になった舜永は、いたたまれなさを抱えていたが、ただ心配そう重華を見つめ続けている晧月にはそんな感情はなさそうだった。


「朝までまだ時間もある。部屋を用意してやるから、おまえも少し眠れ」

「兄上は、どうすんの?」

「珠妃が目覚めるかもしれないからな、とりあえず、朝まではここにいるつもりだ」


 朝になれば、やらなければいけないことが山積みである。

 なので、朝になれば春燕と雪梅を呼び寄せ、重華の傍に居させようとは考えている。

 ただ、それまで、少しでも長く重華の傍に居たいと晧月は思っていた。


「だったら、俺も、ここに居ちゃ駄目?兄上の邪魔は、しないっ!おとなしく、してるからっ」


 舜永もまた、重華のことが心配で、重華から離れたくはなかった。

 正直なところ、舜永にはまだ、重華が大丈夫なのだという実感がない。

 朝までに重華が目覚めるかはわからないが、できることなら重華が目覚めるまで傍に居て、重華がもう大丈夫なのだと実感したかったのだ。


「好きにしろ。椅子はその辺りのを、適当に使え」


 晧月は小さくため息をつくと、重華から離れていく。

 その様子を目で追っていた舜永は、またも驚愕の表情を浮かべることになった。


「な、に、してんの?」

「見て、わからないか?茶を淹れるんだ」


 晧月の手には、しっかりと茶器が握られている。

 それが茶を淹れる行為なのだということは、舜永にだってわかる。

 舜永が問うているのは、そういうことではない。


「なんで、わざわざ兄上が!?侍女がいるだろ!?」

「皇帝だって、茶くらい自分で淹れるだろ」


 そんな晧月の言葉に、舜永は目を見開いた。


(俺は皇子だけど、茶なんて自分で淹れたことないけど!?)


 そんな舜永の心の叫びが、晧月に届くことはもちろんなかった。


「ほら」


 そんな一言とともに、湯飲みが差し出され、舜永は今日何度目になるかわからない驚きを覚える。

 晧月が自ら茶を淹れるとしても、それは自身のためであり、まさか舜永にまで淹れてくれるとは思っていなかったのだ。


(これ、飲めんの……?)


 お茶なんて侍女が淹れてくれるものだった舜永は、晧月が淹れたそれをまじまじと眺めてしまう。


「なんだ、いらないのか?」

「い、いるっ、いるよっ!!」


 焦れたような晧月の言葉に、舜永は慌てて湯飲みを受け取るとぐいっと中身をあおった。


(なんだ、このお茶……)


 教養の一つとして、有名な高級茶葉の味は全て熟知させられている。

 だが、今飲んでいる茶は、そのどれにも当てはまらず、舜永は困惑した。


「こんなの、皇帝が飲むような茶じゃ……」

「皇帝だから、高級な茶葉を使わなければならないわけじゃないだろ。俺はそれが気に入ってるんだ」

「けど、こんな……」

「気に入らないなら、飲まなくていい。ちなみに、珠妃は、それが気に入ったようだがな」

「べ、別に、これが嫌だって言ってるわけじゃないっ」


 重華の好みなのだとわかると、舜永の態度が途端に変わった。

 その様子にくすりと笑みを漏らしながら、晧月もまた茶を飲んだ。

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