あれから三日が経った。
医局にも行かず、もぬけの殻になった
(
そんな思いが巡り、蘭瑛はまた静かに枕を濡らす…。
しかし、昼下がり。
そうも言ってられない一通の簡素な手紙が、蘭瑛の元に届く。そこには達筆な字で「至急、
蘭瑛は色んな意味で、深い溜め息を吐いた。
それもそのはず。
蘭瑛は重い腰をあげ、乱れた衣だけ簡単に整える。
泣き腫らした顔に何を塗っても意味がないと、
何回かこの紫王殿に足を運んだことはあるが、今日ほど憂鬱な気分だったことはない。蘭瑛は重い足取りの中、急な階段を登り、紫王殿の前まで辿り着いた。
呼吸を整え、護衛の一人に声を掛ける。
「医局の蘭瑛です。こちらに来るようにと言われました」
蘭瑛は受け取った紙を広げ、護衛に見せる。
護衛はすぐに蘭瑛を中へ案内し、宋武帝のいる客室に連れて行く。
「蘭瑛医官をお連れいたしました」
「入れ」
宋武帝の声は、普段よりも低く感じた。
蘭瑛は恐る恐る中へ入る。するとそこには、
牙を向く恐ろしい視線が蘭瑛を突き刺す。
しかし、蘭瑛はその視線を躱すように、全員に向けて拱手する。
「遅くなり、申し訳ありません」
「構わん。
宋武帝の低い声に従い、蘭瑛はゆっくり頭を上げた。
永憐は蘭瑛の顔を見ることもなく、何かを考えているかのように遠くを見つめている。すると、突然光華妃が立ち上がり蘭瑛の元へ歩いていく。そして持っていた扇子の
バチンという音が大きく響き、蘭瑛の頬からは血が流れる。蘭瑛は手で頬を覆い、奥歯を噛み締めた。全身に電流が流れるかのように、悔しさと殺意が体中を駆け巡る。
光華妃がその派手な扇子を開き、蘭瑛を一瞥しながら口火を切った。
「ほんと、目障りなのよね〜あなた。やっぱり因縁なのね、六華鳳宗と宋長安は」
「やめないか、
宋武帝が光華妃に向かって怒りを露わにした。
だが、今日の光華妃は血が騒いでいるのか、珍しく反抗する。
「なによ!六華鳳宗をよく思ってないくせに。この女が悪いんじゃない!あなたの貴妃に手を出したのはこの女なのよ!何か言ったらどうなの?!」
「ならば聞く。この連日の不祥事に、何故お前たちの名前が出てくるんだ?」
宋武帝が二人の妃に問い質した。美朱妃は何も言わず俯き、光華妃は「知らないわよ!」と白を切る。
堪忍の緒が切れたのか、賢耀は光華妃の態度に黙っていられず、永憐の横に立って怒鳴った。
「いい加減にしろよ!この人殺しが!俺を殺そうとし、蘭瑛先生を強姦に陥れ、蘭瑛先生の友人の医官を焼身させておいて、何が知らねーだよ!父上の前だからって、しらばくれてんじゃねーよ!」
光華妃の額に青筋が浮かぶ。癖のように扇子を勢いよく閉じ、憎しみを込めた目で賢耀を睨む。
「何を偉そうに。じゃ、私たちがやったっていう証拠を見せなさいよ。今すぐそれを持ってきなさい。何もないのにそうやってすぐに人のせいにするのは、あの紫の母親と一緒ね。あ〜、気持ちが悪い」
「何だと?!気持ち悪いのはあんたの方だろ!あ〜、そういえば、あんたの息子も気持ち悪いことしてんだったな〜。言ってやろうか、あんたの息子は男を…」
「二人ともいい加減にしろ!!」
賢耀の言葉を遮るように、宋武帝が怒声を響かせた。
その怒りは、雷獣の如く樹木を裂くような勢いだった。
二人は黙り、どちらも元の位置に戻る。
「永憐!お前はこの者をどうしたい?お前が決めろ」
宋武帝は蘭瑛を見ながら、声だけ永憐に向かって尋ねた。
永憐はというと、凍てつくような冷たさで床を見つめている。紫王殿の中は沈黙で静まり返り、異様な空気に包まれた。永憐はしばらく間を置いて、ようやくその口を開く。
「こたびの不祥事、この者に罪はないと認識しています。しかし、貴妃への行き過ぎた行為があったのは事実です。従って、この者を十日間の禁足処分とします。又、今後は私の敷地内で私の監視のもと生活させますゆえ、どうかお妃御二方には、この者への復讐心や恨みは腹に収めていただきたく存じます」
その言葉に蘭瑛はまた奥歯を噛み締めた。
何故、妃の二人は何も咎められないのか。
それに、監視って…。
蘭瑛は永憐の顔をチラッと見遣るが、今日の永憐はどうやら、目を合わせてくれないようだ。
宋武帝は茶を啜り、口の中を潤した後、また蘭瑛の方を向く。
「蘭瑛。こちらに顔を向けよ」
「はい…」
「こたびの件では、六華鳳宗ならではの正義感が強く働いたのだろう。私もそんなお前を咎めたりはしないが、少し永憐の元で身体を休めよ。いいな」
「はい…」
「ならば、これで終わりだ。下がれ」
蘭瑛は皆の前で拱手し、紫王殿を後にした。
緊張が抜けたせいか、光華妃に叩かれた頬がヒリヒリと痛み出す。蘭瑛は消毒ついでに医局に寄り、久々に顔を出した。
「
江医官が心配そうに蘭瑛に駆け寄る。
蘭瑛は先ほどの出来事を話しながら、自分の顔を消毒し始めた。
「まったく…。あの気性の荒い妃、本当にどうにかなんないかしら。昔、ここにいた何人もの老女たちや侍女たちが、あの妃と関わって命を落としてる」
「そう。どれだけのことやれば気が済むのか。はい阿蘭、貼ってあげる」
金医官も話に加わり、薄布を何枚か重ねたものを蘭瑛の頬に貼り付けた。蘭瑛はすぐにその上から寛解の術を施し、江医官が淹れてくれた白茶を啜った。
しばらく三人で光華妃の怪奇話をしたあと、十日間の禁足になる旨を伝え、蘭瑛は医局を出た。
この先どうなるのだろうかと、蘭瑛は胸を詰まらせながら夕陽を眺める。しばらくこの傷は癒えそうにないと、また目に涙が滲む…。蘭瑛は涙を拭いながら歩き、使用している客室の前に到着すると、客室の扉をガサガサと引っ掻いている動物が目に入った。
よく見ると、幼少期に飼っていたのと同じ赤色の目をした、小さな白うさぎがいるではないか。
蘭瑛は思わず顔が緩み、脅かさないようにそっと近づく。
「どうしたの?迷子になっちゃったの?」
独り言のように尋ね、そっと小さな背中を撫でてやる。
すると白うさぎは怯える様子もなく、気持ち良さそうに目を細め、プウプウと鳴き始めた。
「おうちはどこなの?ここにいたら母上が心配しちゃうよ。一緒に林のところまで行こうか?」
蘭瑛はそっと抱き抱え、向かい側の林の雑木林のところまで白うさぎを持っていく。「ここでいい?」と言って放すが、白うさぎは嫌だと言わんばかりに、蘭瑛の後をぴょんぴょんと追いかける。何度か違う方向に歩いてみたり、走って距離を置いてみたりもしたが、白うさぎは蘭瑛から全く離れようとしなかった。
蘭瑛は仕方なく、白うさぎを部屋の中に入れ、出たくなるまで一緒にいてあげることにした。
体が小さく、呼吸も浅いことから、あまり食事にありつけていない様子が見て取れる。蘭瑛は小さな皿に水と、夜食用にとって置いた人参を少しだけ分け与えてやった。すると、白うさぎはお腹が空いていたのか喜ぶように飛びつき、すぐに平らげた。
「少しずつあげるね。急に食べるとお腹壊しちゃうから」
蘭瑛は語りかけるように独り言を言い、また小さな背中を撫でた。
昔飼っていた子にそっくりだ…。
名前を付けてあげようかと思ったが、蘭瑛は自分が置かれている現状を思い出し、思い止まった。
「一緒にいてあげたいんだけど、ちょっと悪いことしちゃったから、しばらく怖い人の所に行かなきゃならないの。明日にはお別れだから、ごめんね」
蘭瑛は濡らした布で足を拭いてやり、寝台の上に置いてやる。結局、この白うさぎは出て行く素振りも見せず、蘭瑛と一緒に一晩を過ごしたのだった。