目次
ブックマーク
応援する
5
コメント
シェア
通報

第六話 禁足


 あれから三日が経った。

 医局にも行かず、もぬけの殻になった蘭瑛ランインは自室の窓を開け、寝台の上で仰向けになりながら、流れてくる雲を追いかけた。ただひたすらに移り行く空模様が、一方的に刻まれる時の流れを無常に映し出す。四日前まで秀綾シュウリンは確かに存在していた。それなのに、その存在は蝋燭の火が突然吹き消されたかのように、一瞬で跡形もなく消え失せた。


 (秀綾シュウリンに会いたい…)


 そんな思いが巡り、蘭瑛はまた静かに枕を濡らす…。

 秀綾シュウリンの死は、医局や患者たちの間でも衝撃的な悲報だった。深い悲しみが広がり、皆、黒い玉佩ぎょくはいを腰からぶら下げて喪に服した。ジャン医官やジン医官が時々部屋を訪ねてきてくれたが、蘭瑛は「一人にして…」と周りの優しさに上手く応えられないでいた。


 しかし、昼下がり。

 そうも言ってられない一通の簡素な手紙が、蘭瑛の元に届く。そこには達筆な字で「至急、紫王殿しおうでんに来るように」とだけ書かれてあった。これは恐らく永憐の字だろう…。

 蘭瑛は色んな意味で、深い溜め息を吐いた。


 それもそのはず。美朱妃ミンシュウヒという貴妃に深傷を負わせた罪はどんな罪人よりも重い。いかなる理由があろうと何かしらの処罰は受けなければならないだろう。それに、国師という立場にいる永憐にも悪態をついた。打首は免れたとしても、医官の剥奪と禁足、もしくは追放のどれかが妥当であると蘭瑛は考えた。


 蘭瑛は重い腰をあげ、乱れた衣だけ簡単に整える。

 泣き腫らした顔に何を塗っても意味がないと、白粉おしろいは付けず、髪も下ろしたままの姿で、紫王殿へ向かった。


 何回かこの紫王殿に足を運んだことはあるが、今日ほど憂鬱な気分だったことはない。蘭瑛は重い足取りの中、急な階段を登り、紫王殿の前まで辿り着いた。

 呼吸を整え、護衛の一人に声を掛ける。


 「医局の蘭瑛です。こちらに来るようにと言われました」


 蘭瑛は受け取った紙を広げ、護衛に見せる。

 護衛はすぐに蘭瑛を中へ案内し、宋武帝のいる客室に連れて行く。


 「蘭瑛医官をお連れいたしました」


 「入れ」


 宋武帝の声は、普段よりも低く感じた。

 蘭瑛は恐る恐る中へ入る。するとそこには、賢耀シェンヤオ永憐ヨンリェン宇辰ウーチェン美朱妃ミンシュウヒと美朱妃の侍女たち、そして光華妃コウファヒと光華妃の侍女頭が向かい合うように座っていた。

 牙を向く恐ろしい視線が蘭瑛を突き刺す。

 しかし、蘭瑛はその視線を躱すように、全員に向けて拱手する。


 「遅くなり、申し訳ありません」


 「構わん。おもてを上げよ」


 宋武帝の低い声に従い、蘭瑛はゆっくり頭を上げた。

 永憐は蘭瑛の顔を見ることもなく、何かを考えているかのように遠くを見つめている。すると、突然光華妃が立ち上がり蘭瑛の元へ歩いていく。そして持っていた扇子の親骨おやぼね部分を差し出し、蘭瑛の頬を勢いよく叩いた。

 バチンという音が大きく響き、蘭瑛の頬からは血が流れる。蘭瑛は手で頬を覆い、奥歯を噛み締めた。全身に電流が流れるかのように、悔しさと殺意が体中を駆け巡る。

 光華妃がその派手な扇子を開き、蘭瑛を一瞥しながら口火を切った。


 「ほんと、目障りなのよね〜あなた。やっぱり因縁なのね、六華鳳宗と宋長安は」


 「やめないか、光娘コウミェン!」


 宋武帝が光華妃に向かって怒りを露わにした。

 だが、今日の光華妃は血が騒いでいるのか、珍しく反抗する。


 「なによ!六華鳳宗をよく思ってないくせに。この女が悪いんじゃない!あなたの貴妃に手を出したのはこの女なのよ!何か言ったらどうなの?!」


 「ならば聞く。この連日の不祥事に、何故お前たちの名前が出てくるんだ?」


 宋武帝が二人の妃に問い質した。美朱妃は何も言わず俯き、光華妃は「知らないわよ!」と白を切る。

 堪忍の緒が切れたのか、賢耀は光華妃の態度に黙っていられず、永憐の横に立って怒鳴った。


 「いい加減にしろよ!この人殺しが!俺を殺そうとし、蘭瑛先生を強姦に陥れ、蘭瑛先生の友人の医官を焼身させておいて、何が知らねーだよ!父上の前だからって、しらばくれてんじゃねーよ!」


 光華妃の額に青筋が浮かぶ。癖のように扇子を勢いよく閉じ、憎しみを込めた目で賢耀を睨む。


 「何を偉そうに。じゃ、私たちがやったっていう証拠を見せなさいよ。今すぐそれを持ってきなさい。何もないのにそうやってすぐに人のせいにするのは、あの紫の母親と一緒ね。あ〜、気持ちが悪い」


 「何だと?!気持ち悪いのはあんたの方だろ!あ〜、そういえば、あんたの息子も気持ち悪いことしてんだったな〜。言ってやろうか、あんたの息子は男を…」


 「二人ともいい加減にしろ!!」


 賢耀の言葉を遮るように、宋武帝が怒声を響かせた。

 その怒りは、雷獣の如く樹木を裂くような勢いだった。

 二人は黙り、どちらも元の位置に戻る。


 「永憐!お前はこの者をどうしたい?お前が決めろ」


 宋武帝は蘭瑛を見ながら、声だけ永憐に向かって尋ねた。

 永憐はというと、凍てつくような冷たさで床を見つめている。紫王殿の中は沈黙で静まり返り、異様な空気に包まれた。永憐はしばらく間を置いて、ようやくその口を開く。


 「こたびの不祥事、この者に罪はないと認識しています。しかし、貴妃への行き過ぎた行為があったのは事実です。従って、この者を十日間の禁足処分とします。又、今後は私の敷地内で私の監視のもと生活させますゆえ、どうかお妃御二方には、この者への復讐心や恨みは腹に収めていただきたく存じます」


 その言葉に蘭瑛はまた奥歯を噛み締めた。

 何故、妃の二人は何も咎められないのか。

 それに、監視って…。

 蘭瑛は永憐の顔をチラッと見遣るが、今日の永憐はどうやら、目を合わせてくれないようだ。

 宋武帝は茶を啜り、口の中を潤した後、また蘭瑛の方を向く。


 「蘭瑛。こちらに顔を向けよ」


 「はい…」


 「こたびの件では、六華鳳宗ならではの正義感が強く働いたのだろう。私もそんなお前を咎めたりはしないが、少し永憐の元で身体を休めよ。いいな」


 「はい…」


 「ならば、これで終わりだ。下がれ」


 蘭瑛は皆の前で拱手し、紫王殿を後にした。

 緊張が抜けたせいか、光華妃に叩かれた頬がヒリヒリと痛み出す。蘭瑛は消毒ついでに医局に寄り、久々に顔を出した。


 「阿蘭アーラン〜!ちょっと、あんたまたどうしたの?」


 江医官が心配そうに蘭瑛に駆け寄る。

 蘭瑛は先ほどの出来事を話しながら、自分の顔を消毒し始めた。


 「まったく…。あの気性の荒い妃、本当にどうにかなんないかしら。昔、ここにいた何人もの老女たちや侍女たちが、あの妃と関わって命を落としてる」


 「そう。どれだけのことやれば気が済むのか。はい阿蘭、貼ってあげる」


 金医官も話に加わり、薄布を何枚か重ねたものを蘭瑛の頬に貼り付けた。蘭瑛はすぐにその上から寛解の術を施し、江医官が淹れてくれた白茶を啜った。

 しばらく三人で光華妃の怪奇話をしたあと、十日間の禁足になる旨を伝え、蘭瑛は医局を出た。


 この先どうなるのだろうかと、蘭瑛は胸を詰まらせながら夕陽を眺める。しばらくこの傷は癒えそうにないと、また目に涙が滲む…。蘭瑛は涙を拭いながら歩き、使用している客室の前に到着すると、客室の扉をガサガサと引っ掻いている動物が目に入った。

 よく見ると、幼少期に飼っていたのと同じ赤色の目をした、小さな白うさぎがいるではないか。

 蘭瑛は思わず顔が緩み、脅かさないようにそっと近づく。


 「どうしたの?迷子になっちゃったの?」


 独り言のように尋ね、そっと小さな背中を撫でてやる。

 すると白うさぎは怯える様子もなく、気持ち良さそうに目を細め、プウプウと鳴き始めた。


 「おうちはどこなの?ここにいたら母上が心配しちゃうよ。一緒に林のところまで行こうか?」


 蘭瑛はそっと抱き抱え、向かい側の林の雑木林のところまで白うさぎを持っていく。「ここでいい?」と言って放すが、白うさぎは嫌だと言わんばかりに、蘭瑛の後をぴょんぴょんと追いかける。何度か違う方向に歩いてみたり、走って距離を置いてみたりもしたが、白うさぎは蘭瑛から全く離れようとしなかった。

 蘭瑛は仕方なく、白うさぎを部屋の中に入れ、出たくなるまで一緒にいてあげることにした。

 体が小さく、呼吸も浅いことから、あまり食事にありつけていない様子が見て取れる。蘭瑛は小さな皿に水と、夜食用にとって置いた人参を少しだけ分け与えてやった。すると、白うさぎはお腹が空いていたのか喜ぶように飛びつき、すぐに平らげた。


 「少しずつあげるね。急に食べるとお腹壊しちゃうから」


 蘭瑛は語りかけるように独り言を言い、また小さな背中を撫でた。

 昔飼っていた子にそっくりだ…。

 名前を付けてあげようかと思ったが、蘭瑛は自分が置かれている現状を思い出し、思い止まった。


 「一緒にいてあげたいんだけど、ちょっと悪いことしちゃったから、しばらく怖い人の所に行かなきゃならないの。明日にはお別れだから、ごめんね」


 蘭瑛は濡らした布で足を拭いてやり、寝台の上に置いてやる。結局、この白うさぎは出て行く素振りも見せず、蘭瑛と一緒に一晩を過ごしたのだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?