外に出た蘭瑛は、脇にある睡蓮の池に沿って歩いていく。
活気のない顔━︎━︎。
今日も本当なら、一緒に参加していたはずなのに、面影一つ残らない。
蘭瑛はまた虚しい溜め息を吐く。
そうして水面を眺めていると、背後から聞き馴染みのある、あの低く透き通った声が聞こえてきた。蘭瑛は目尻に溜まった涙の玉を指で拭い、後ろを振り向く。するとそこには、久しぶりに会う神々しい
「ここで何をしている」
「あ、いえ、その…、睡蓮を眺めに」
永憐は目を細めて続ける。
「目の届く範囲に居ろと言ったはずだ」
「…少しぐらいいいじゃないですか、外に出たって」
蘭瑛はまた池の方に顔を向き直し、ムスっとしながら口を尖らせて続ける。
「永憐様こそ、ここで何してるんですか?早く戻らないと、
永憐は蘭瑛の隣に立ち、伸びている睡蓮の葉に触れながら「どうでもいい」と嘆いた。
「永憐様のことを待ってる方が沢山います。皆さん心配されるので、早く戻ってください」
「…そんなに
蘭瑛は一瞬戸惑い、耳を疑った。
永憐は普段から自分のことを「俺」とは絶対に言わない。
それに、女との距離感を気にする男が言う言葉でもない。
今日は普段よりも何故か距離も近く、まるで別人のようだ。
蘭瑛は思わずいつもの癖で、病人を見るかのように永憐の額に手を伸ばしてみる。
「具合でも悪いですか?」
そう尋ねたと同時に、「永憐様〜」と後方から
宇辰は恐らく永憐を探しに来たのだろう。
「永憐様、ここはやはり戻られた方が…」
永憐の超人のような身体能力と、突然身体が浮いたことに驚きを隠せず、蘭瑛は永憐にしがみ付きながら「わぁ!」と声を上げた。
「ちょ…ちょっと、永憐様!脅かさないでくださいよ!」
「すまない」
「それに、いいんですか?こんな所に来て。宇辰様、探してましたよ」
「宇辰は賢い。上手くやるだろう…」
永憐は何事も無かったかのように腰を下ろし、蘭瑛は一息ついて永憐の横に座った。
ここは風通りが良く、色んな備品を貯蓄しておく場所らしい。涼しい風が、二人の頬を掠めていく。
すると突然、蘭瑛の肩に永憐の頭が乗った。
「すまない。少し休ませてくれ…。しばらく寝てないんだ」
体調が悪いと思った蘭瑛は足を横座りに変え、「どうぞ」と言って永憐の頭をそっと自分の太腿に乗せてやった。
蘭瑛はすぐに、永憐の頬や首あたりに触れ、熱がないか確かめる。
すると突然、目を瞑っていた永憐にその手を掴まれ、永憐の胸元で重なり合うように手を握られた。
小さな気泡が波打つようにして、胸の奥が粟立つ…。
これまでも、永憐の手に触れた事は何度かあったが、このような気持ちになったのは初めてだ。一度も感じたことのない激しい鼓動が、蘭瑛の全身に響いていく。
蘭瑛はしばらくその美しい玉のような綺麗な顔を眺め、乱れた心音を調えつつ、じっと同じ姿勢のまま堪えた。
永憐はそんな蘭瑛をよそに、目を瞑ったまま尋ねる。
「まだ怒っているのか?」
「お…怒っていませんよ、永憐様には。あの時は酷いことを言ってしまって、すみませんでした…。ただ…、二人の妃にはまだ納得していません」
「…だろうな。しばらく傷は癒えないだろう」
永憐はそう言って、胸元で重なり合っていた蘭瑛の手をそっと離した。
ぐったりと永憐は起き上がり、少しだらしなく座り直す。
礼儀正しき麗人とは思えない永憐の姿に少し驚くが、もしかしたらこれが素なのかもしれないと蘭瑛は思った。
永憐は乱れた髪を整える様子もなく、俯いたまま続ける。
「お前の気持ちは痛いほど分かる…。私も友人ではないが、若い頃に祝言を挙げる予定だった者を亡くした…」
「……」
蘭瑛は言葉を失った。
そんな蘭瑛を横目に、永憐は重い口を開く。
「それまでは、色んな痛みに鈍感で…闇雲に剣を振り翳し、沢山の間違いを犯した。その因果だと受け入れ、今まで生きてきたが、受け入れるのには時間がかかった」
「……」
「奪った者は奪われる…。そのうち、お前の友人を奪った者たちも、何かしらの制裁を受けるだろう」
永憐は顔を上げ、蘭瑛の顔を見る。
「今は辛いだろうが、残された者は
永憐の言葉は力強かった。
自然と目が潤い、蘭瑛はまた泣き出しそうになる。
永憐は蘭瑛に近づき、「泣き顔は俺の前だけにしろ」と、蘭瑛の頭を一撫でした。
蘭瑛は永憐の碧色の目を見ながら、小さく尋ねる。
「永憐様は、もう辛くないのですか…」
「辛いと思う時期はとうに過ぎた。今はもう、前を向きたい」
二人の間に、心地の良い朗らかな風が通った。
永憐は乱れた髪を整え、また一つに結い直す。
「そろそろ戻るぞ」と言われ、蘭瑛はまた永憐に抱えられて、さっきの睡蓮の池の前に降り立った。
永憐は先に行くと言って、金雅殿の入り口の方へ向かって踵を返す。透き通った川の水が流れるかのように、永憐の髪が美しく靡いているのを見て、蘭瑛は見惚れるように永憐の後ろ姿を眺めた。
すると、ふと言いそびれていた事を思い出し、蘭瑛は思わず「永憐様!」と叫んだ。
「何だ?」
永憐は立ち止まり、顔を少し横に向けた。
蘭瑛は誰もいないことを確かめて、永憐の元に駆け寄る。
「この衣、ありがとうございました。それと…、藍殿でうさぎを飼いたいのですが…ダメですか?」
永憐は「そんなことか?」とでも言いたげに、蘭瑛を怪訝な顔で見つめた。そして、小さく溜め息を吐きながら「好きにしろ」と言って、また髪と衣の袍をはためかせて足早に去っていった。
蘭瑛の顔からは安堵と喜びが溢れる。
まるで、幼少期に戻ったかのように。
しばらく間を空けて、蘭瑛も恐る恐る金雅殿に戻る。
すると、永憐と婚姻を希望している女子たちが、永憐の元に群がっていた。
そこにはもちろん、あの顔の怖い女剣士もいる。
蘭瑛はその異様な様子を眺めながら、しれっと江医官と金医官の元に戻った。
「あら阿蘭、おかえり。どこ行ってたの?」
「ん〜、ちょっと散歩してた」
「そう。ねぇ、あの永憐様の人気っぷりは凄いわね。さすが艶福家〜」
江医官が口元を緩ませながら、その様子を伺う。
永憐は誰を婚約者にするのか、誰もが気になって仕方がないようだ。
しかし、蘭瑛は分かっていた。永憐は誰も選びはしないと。
だが、誰がこんな答えを求めていただろうか。
永憐は思いもよらぬ全く理由にもならない理由を、女子たちの前で冷然と口にした。
「手のかかる繊細なうさぎを飼い始めた為、誰とも婚姻できない」と。
金雅殿全体が…。
いや、この宋長安全体が凍りついたのは言うまでもない。