初夏の陽気から汗ばむ陽気へと移り変わり、
青々とした大木から蝉時雨が降り注ぎ、先日の凍りついた華宴の話は瞬く間に掻き消されていった。
今朝もまた、梅林特製の
「そういえば蘭瑛、この子の名前はあるのかしら?」
「いや、飼うと思ってなかったので、考えていなかったんですけど…何がいいですかね?白いので
「ふふふ、それ食べ物じゃない。でも、
「あはははっ。確かに!じゃ、今日から君はパオで!パ〜オ〜」
のんびりと大人しく床に座っているうさぎを撫でながら、蘭瑛はこのうさぎをパオと命名した。新しく名を貰ったパオは、嬉しそうにまたプウプウと鳴き始める。
「では、梅林様。パオをお願いします」
蘭瑛はそう言って、パオを梅林に預け、普段通り医局へ向かった。
医局に到着すると、見知らぬ侍女が蘭瑛を待っていた。
名は
淑妃の侍女頭が直接ここに来るということは、何か内密にしておきたい事情でもあるのだろうか。
どこか挙動不審にも見える雪美だが、蘭瑛はどうしたのかと先ず要件を尋ねた。
「実は昨日から、雹華妃様の二歳になる東宮様が、酷い高熱で伏せておられます。至急、御医の蘭瑛先生に診ていただけないかと、雹華妃様から御言付けを預かりました…。ここだけの内密にお願いしたく…、一緒に来ていただけませんか?」
そう言って、雪美は自分の指を絡めながら俯いた。
蘭瑛はすぐに「そういうことなら、すぐに参りましょう」と言って、葯箱を持って雹華妃のいる
蘭瑛は誰もいないことを確認しながら、どうしてこのように内密で動いているのか雪美に尋ねてみる。
「何か言えないご事情でもあるのですか?」
「は、はい…。他のお妃たちには内密にしていただきたいのです…。詳しい事は雹華妃様からお話しがあると思いますので…」
侍女頭であっても、雪美からは何も言えないようだ。
蘭瑛はそれ以上深く尋ねることはやめ、雪美の後に続く。
しばらく足早で歩くと、清雲殿の門が見えてきた。
「こちらです」
雪美は清雲殿の
随分と厳重体制だなぁと思いながら、蘭瑛は手入れの届いた敷地内の奥へと進み、豪華な清雲殿の扉の前まで行く。
雪美が扉を開けると、壁一面に広がる花柄模様の大きな広間が蘭瑛を迎えた。
「履き物をこちらで履き替えていただけますか?東宮様のこともあって…、皆さんにそうしていただいております」
「分かりました」
蘭瑛は履き物を履き替えて、また雪美の後に続く。
広間の角にある階段を登り始め、雪美と蘭瑛は二階へと進む。いくつかの部屋があるようで、雪美は一番奥の部屋の前で立ち止まった。
「雹華妃様、蘭瑛先生をお連れいたしました」
「どうぞ、お入りになって」
扉の向こうからは、今にも消えてしまいそうな優しくか弱い声が聞こえてきた。
中に入った蘭瑛は、その声の主と初めて顔を合わす。
雪のような色白の肌を輝かせ、落ち着いた雰囲気を纏った雹華妃がこちらを向いていた。
「あなた様が蘭瑛先生ですね。お忙しい中、こちらまで御足労をおかけしてしまい申し訳ありません。至急来ていただきたく、雪美を遣わせました」
あまりの気品の良さに、蘭瑛はたじろぐ。
「い、いえ、お気になさらないでください。さっそくですが、東宮様の容態を診せていただけたらと思います」
「はい、どうぞこちらへ」
蘭瑛は雹華妃の後に続き、奥の寝台へ向かう。
すると、赤いブツブツの湿疹が顔中に広がり、苦しそうに眠っている
深刻な面持ちで、雹華妃が口を開く。
「昨日の晩から
蘭瑛は小李の様子を診て、すぐに赤潰疫だと分かった。
持ってきた葯箱から赤潰疫の治療薬・
「恐らく、東宮様は赤潰疫に罹患しています…。すぐにこの薬を塗って術を施せば大事には至りません。ですが、赤潰疫は痕が残ってしまう可能性が高いので、継続的な治療が必要です。すぐに治療を始めてもよろしいですか?」
「も、もちろんです。礼はいくらでも尽くしますから、どうか…、どうか…、小小を助けてください…。お願いします…」
我が子の容態を知った途端、雹華妃の目から大粒の涙が溢れ落ちる。蘭瑛は、
子供たちが赤潰疫で苦しんでいる様子を見て、母親たちがこうして我が子を思いながら涙を流していたことを。
しばらく雹華妃が落ち着くまで、蘭瑛は寝ている小李の肌に赤沈薬を塗り、
しばらくして雹華妃の侍女たちが、蘭瑛に茶と茶菓子を持って部屋にやってくる。取り乱していた雹華妃も落ち着き、蘭瑛はここ数ヶ月の間に小李に何か変化はなかったか、秘密裏にしたい理由も何なのか、慎重に尋ねた。
雹華妃は雪美と侍女たちと顔を見合わせ、その重い口を開く…。
「お世話になっていた
(慎むべきは、皇后の方だろう。あの
光華妃の相変わらずな面の厚さに蘭瑛は目を細めた。
少し間を置いて、雹華妃は続ける。
「その後、夜泣きに効くと
それを聞いた蘭瑛は血相を変え、雹華妃に向かって前のめりになった。
「それはどういうやつでしたか?!もしあるなら、今見せてください!」
「あ、はい…。最後の一包ですが…。雪美こちらに」
雪美は頷き、美朱妃の侍女から貰ったという粉薬を二人の前に差し出した。蘭瑛は、
すると、少量の絵の具を溶かしたかのような、やや青みがかった色が浮き出てきた。
(やっぱり…)
幼児用に薄められて作られているのだろう。
賢耀の時と同じ類の毒薬に違いない。
神経系を弱くさせ、あたかも夜泣きを無くさせたと見せかけて、次は東宮の命を狙う作戦か。
「雹華妃様!この件、永憐様にはお伝えしてもよろしいでしょうか?これは、恐らく神経系を麻痺させる毒薬です。これを飲ませてから、東宮様は日中もよく眠られていたのではないでしょうか?」
「…は、はい。以前より眠っている時間が増え、不思議に思っていました。あの…小小は大丈夫なのですか?赤潰疫と関係がある毒なのですか?」
「それは…」
分からない。賢耀の時と同じ毒薬であったとしても、どうして赤潰疫になっているのか、全く見当がつかない。赤潰疫に感染している者に触れられたか、若しくはここに玄天遊鬼が入り込んだか…。後者は考えにくいが、どちらかしか考えられない。
「東宮様はどなたかと接触した記憶はありますか?」
蘭瑛は紙を取り出しながら、雹華妃に尋ねた。
しかし、手掛かりになりそうな答えは返って来ず、また振り出しに戻る。
今日は一旦、赤潰疫に塗る薬をそれぞれ小分けにして渡し、「明日もう一度来ます」と言って、蘭瑛は清雲殿を後にした。
藍殿に戻った蘭瑛は、珍しく部屋で本を読んでいた永憐に声をかける。衣が普段よりも薄い為か、今日もまた一段と爽やかな色気が漂う。いや、そんな事を考えている場合ではない…。
「永憐様、お寛ぎのところ申し訳ないのですが、少し話せますか?また例の毒薬です。しかも、今回は雹華妃の東宮様を狙った犯行で…」
永憐は読んでいた本から目線を上げ、訝しめに蘭瑛を見た。蘭瑛は今日の経緯を全て話し、永憐に報告した。
「永憐様…。どうしても分からないことがあります。賢耀様と同じ毒薬であっても、赤潰疫とはまた別なはずです。赤潰疫に感染している者が宋長安にいるという報告は受けていませんし、夜に玄天遊鬼が忍び込んでいる…なんて事はありませんよね?」
「それは考えにくい。宋長安には、結界が張られている。その結界が何者かに破られれば、すぐに俺のところに知らせが来るはずだ…。たが、姿形を変えていれば話は別だ。人間の姿になれば、どこからでも入れる。美朱妃が毒薬を誰から受け取っているかが分かれば、自ずと黒幕が見えてくるだろう」
永憐は神妙な面持ちで続ける。
「これで分かったな。美朱妃は朱源陽の出身者だ。この件は、朱源陽が深く関わっているかもしれない。場合によっては、国全体が動くかもしれん」
まさに、"天下の難事は必ず
永憐はカウチにだらしなく立膝をつくように座り、大きな溜め息を漏らした。人がやはり世を乱し、争いごとを招く。
蘭瑛もまた永憐の後に続いて、下唇を噛みながら溜め息を吐いた。
するとそこに、空気を変えるかのように、穏やかな笑みを湛えた
「失礼いたします。あ、蘭瑛先生もご一緒でしたか。永憐様、頼まれていたものを
「あぁ。わざわざ、すまない」
永憐は宇辰から預かった木箱の蓋をゆっくりと開ける。
するとそこには、美しい翡翠をくり抜いた指輪が二つ入っていた。蘭瑛は思わず、綺麗な輝きに吸い込まれるかのように、箱の中を横から覗き込んだ。
「綺麗ですね〜、ご自身のですか?」
永憐は何も言わず、小さい方の指輪を手に取った。
すると突然、「手」と言われ、蘭瑛は驚いて目を丸くする。
「手?」
「左の手を出せ」
「は、はい…」
蘭瑛は何度も瞬きを繰り返しながら、左手を永憐の前に差し出す。
すると、永憐は蘭瑛の手を取り、蘭瑛の左手の人差し指に翡翠の指輪を嵌めた。
寸法の乱れは一切なく、華奢な手に輝きだけが残る。
「俺の守護術が入った指輪だ。何かあった時、お前の助けになるだろう。嵌めておけ」
「い、いいんですか〜?」
蘭瑛の顔から、蜂蜜のような甘い笑みが溢れる。
それは、永憐からというよりもこの翡翠の輝きに惚れ惚れとしている笑みだった。
蘭瑛はこの輝きをしばらく一人で眺めたいと思い、永憐に礼を言って、尋常な速さで部屋を出ていった。
取り残された永憐と宇辰はというと、目を点にしてしばらく茫然としている。
「ま、まるでうさぎのようですね…」
「まぁ、類は友を呼ぶ…」
宇辰はその言葉の意味が分からず、首を傾げた。
蘭瑛の残影は、永憐の目に力強く残ったようだ。
微動だにしない永憐を見て、宇辰は言葉を繋げる。
「永憐様、蘭瑛先生に随分とお心を開いてらっしゃるんですね」
「…別にそんなんじゃない。ただ、私がこんな所に連れてきてしまったからな…。その責任を果たしているだけだ」
宇辰は永憐の全てを分かっている。
不器用さも優しさも全て。
宇辰は更に、得意な微笑みを引っ提げて続ける。
「永憐様はお付けにならないのですか?」
「…私は後でつける」
「ご一緒にお付けになられては?」
「……」
永憐は、黙ったまま気恥ずかしそうな顔をして、木箱からもう一つの指輪を取り、自分の左手の人差し指に嵌めた。
「似合ってらっしゃいますよ、とっても」
宇辰はそう言って、今度は目を三日月にして微笑んだ。