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第十話 朱華離反


 蘭瑛ランインは今日も雹華妃ヒョウカヒのいる清雲殿せいうんでんに足を運んでいた。

 あれから永憐ヨンリェン宋武帝そんぶていに事の経緯を話し、雹華妃と東宮の周りは厳重体制となった。蘭瑛も一人で歩く事を禁じられ、宇辰ウーチェンの後輩・風里フォンリーが蘭瑛の護衛を務める事になった。

 さすが、宇辰の後輩だけあって礼儀を重んじ、温厚な人物だ。風里は丁寧に、雹華妃の女官たち一人一人に挨拶をして回っている。


 今日は一段と暑さが厳しく、清雲殿の中は沢山の氷で埋め尽くされていた。東宮の小李シャオリーはというと、手足をバタバタと元気よく動かせるほど回復し、今は赤潰疫せっかいえきの痕の治療に励んでいる。


 「蘭瑛先生、小小シャオシャオのこの傷は、成長と共に薄くなっていきますか?」


 小李の小さな頭を撫でながら雹華妃が尋ねた。

 蘭瑛は雲散うんさんの術を施しながら、優しく宥める。


 「はい。恐らく、この雲散うんさんの術を続けていれば、次第に消えていくと思います。六華鳳宗ろっかほうしゅうの先人たちの記録にも、そう書いてありましたから。ゆっくり様子を見ていきましょう」


 小李を心配していた雹華妃の目から安堵が漂う。

 蘭瑛はその雹華妃の表情に思わず目が止まった…。

 歳は自分と変わらないのに、未来の宋長安の統治を担う小さな命を産み育て、母として東宮を様々な目から守ろうとする雹華妃の強さは計り知れない。容姿は華奢に見えるが、さすが妃だけあって、自分にはない器があると蘭瑛は思った。


 (自分もいつか、雹華妃のように温かくて優しい眼差しを向けられる家族を作れるだろうか…)


 蘭瑛は、氷の表面に映る歪んだ自分を眺めた。


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 一方、紫王殿しおうでんでは重苦しい空気が流れ、宋武帝そんぶていは額に青筋を浮かべながら、眉間を揉んでいた。

 どうやら連日の事件で、宋武帝の堪忍の尾が切れたようだ。

 光華妃コウファヒ美朱妃ミンシュウヒはそれぞれ侍女を従えて、カウチに腰を下ろしている。

 もちろん、その横には永憐と宇辰の姿もあった。

 宋武帝は怒りを含めた低い声で、話を切り出す。


 「どうしてお前たちを呼んだか分かるか?いつまで、そうやって白を切るつもりだ?」


 「だから何のことよ?私たちは何も知らないわ!」


 光華妃はいつもの派手な扇子を仰ぎながら、これまでと変わらない様子で、宋武帝を一瞥した。美朱妃はというと、普段の穏やかさは消え、虚ろな表情を浮かべている。

 何かがおかしいと思った宋武帝は、美朱妃のその違和感を見過ごさなかった。


 「美朱妃、何かあるのなら答えよ」


 「いえ…何も」


 冷ました顔で答える美朱妃に、永憐も冷たい視線を向けた。宋武帝は前屈みになり、左右の指を合わせながら訝しげに続ける。


 「死んでいった者たちは皆、お前たちの名を残して死んでいった。お前たちは一体、何がしたいのだ?」


 「だから、何度も言わせないでちょうだい!私は何も…」


 光華妃が捲し立てようとした刹那、ドンッ!と机の上に何かが落ちてきたかのような大きな音がした。

 それは殺気を帯びた宋武帝が、一枚の紙を机に叩きつけた音だった。


 「お前たちが今まで、こそこそと鼠のように這い回っていた時系列が全てここに書かれてある。私がお前たちを野放しにしているとでも思ったか!!

 美朱妃に聞く。ここに書かれてある、天京テンキョウという男は何者だ?!」


 美朱妃は目を虚ろにし、反抗的な視線を向ける。

 あの穏やかな雰囲気は一切感じられない。

 隣にいた光華妃も怪訝な顔を隠すように扇子を仰ぎ、紫王殿には異様な空気が漂い始めた。

 そして、美朱妃は更にその空気を色濃くする。


 「普段は指一つ触れようとされないくせに、こういう時だけ私の行動を見張り、咎めるのですね。散々、私たちを野放しにしておいて、第一皇太子と東宮には特別扱い。華宴なんぞお開きになって、ご気分も嘸よろしゅうございましょう」


 「何が言いたいのだ?」


 宋武帝の返事を聞いた途端、美朱妃の目が据わった。


 「私を蔑ろに扱った代償に、あなたの大切なものを全部奪ってやろうと思いました。光華妃姐様が、第一皇太子の命を取る為に躍起になられていると聞いて、これは丁度いいと」


 「美朱妃!ちょっと、あなた!お黙りなさい!」


 光華妃が慌てた様子で扇子を閉じる。

 美朱妃は容赦なく続けた。


 「国を担う父もあなたも、そして横にいるこの醜悪な妃も消えて無くなればいいと思っています。国の為に妃を娶り、自分の為なら残虐も厭わない。そんな好き勝手なあなた達にこの先の未来など存在しない。知っていますか?私があなたの妃になったのは、父が宋長安の内情を探る為なのですよ。

この妃に手を貸したのも、同じ理由です。朱源陽しゅうげんようは今、あなた方の知らないところでとてつもない勢力を伸ばし、天京と手を組んで世をべようと併呑へいどんを目論んでいます。私なんかを咎めてる時間ヒマなどないのですよ、あははは〜」


 美朱妃は不気味な笑みを見せて嘲笑った。

 まさに、獅子身中しししんちゅうの虫である。

 宋武帝は口を一文字に結び、顔色を酷く曇らせた。

 笑い終えた美朱妃は、泰然自若で宋武帝の元まで歩き、宋武帝の目の前で立ち止まる。


 「幻滅しましたか?いつでも、殺してもらって構いません。もう、私にはあなたから愛される資格も、あなたの子を授かることもないのですから…。愛人に溺れている父は、私が死んだところで何も思わないでしょう。生きていても、私は何もないのです。何の幸せも…」


 美朱妃の表情から哀愁が漂う。

 永憐が宋武帝に近づこうとするが、宋武帝に手で止められる。宋武帝は分かっていたのだろう。この後美朱妃が何をするのかを…。

 すると、美朱妃は宋武帝の剣・荣誉ロンユーを宋武帝の腰から引き抜き、自分の腹に思いっきり突き刺した!

 朱色の衣が更に朱く染まり、口元の紅色も更に血で塗られる。まるで赤色の椿が落ちたようだ。

 宋武帝は胸元に倒れてくる美朱妃を抱きしめ、「すまなかった…」と美朱妃の耳元で囁いた。

 そして最後、宋武帝自ら荣誉ロンユーの柄を持ち、更に美朱妃の腹の奥へと突き刺した。

 美朱妃の口元から溢れる鮮血で、宋武帝の右肩が血に染まる。そんな宋武帝は、最後に愛に飢えて自ら死を選んだ美朱妃を力強く抱きしめた。


 惨憺たる光景は永憐も宇辰も見慣れているとはいえ、まさか美朱妃が自害するとは露ほども思っておらず、二人は顔を見合わせた。


 すると「全く見てられないわ」と言いながら、光華妃が立ち去ろうとする。

 宋武帝は「待て!」と声を荒げ、血塗れになった美朱妃を抱き抱えたまま続けた。


 「次、何かよからぬ事を冒したら、お前もこうなる事を覚えておけ!いいな!」


 光華妃はフンッと鼻を鳴らし、引き連れていた侍女と紫王殿を出て行った。取り残された美朱妃の侍女はというと、大粒の涙を流しながら、美朱妃の遺体に寄り添い、遺体の処理に尽力を注ぎ始めた。


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 美朱妃の死は瞬く間に世間に広がり、宋長安だけでなく、四国会にも衝撃を与えた。

 すぐに、美朱妃の父・朱陽帝しゅうびていの耳にも入り、宋武帝へ一通の鶴紙が届いた。

 そこには、宣戦布告とも取れる言葉が綴られていた。


 『朱源陽はこれにて四国会を離反する。今後一切の関わりを断絶し、宋長安及び、宋長安の配下にいるものは全て敵対視する』と。


 いよいよ、世の統治が乱れ始める。

 宋武帝は事の経緯を綴った鶴紙を、各国へ送るよう永憐に命じた。そして、宋長安の武術の底上げを図るため、強化稽古も命じた。

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