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第十一話 雪上加霜

 朱源陽しゅうげんようが離反してから、異常なほど妖魔や邪祟が出るようになった。それに加え、各国の町にも赤潰疫せっかいえきが蔓延し始めるという苦難が襲い、永憐ヨンリェンたちは鎮圧を強いられていた。

 幸いにも、橙仙南とうせんなん青鸞州せいらんしゅうは継続して桃園の義を結んでおり、三国はそれぞれに情報を共有し、結束を高めていった。


 普段から疲れを一切見せない永憐だが、この日の夜は藍殿らんでんで酷く疲れを見せていた。

 蘭瑛ランインはそんな永憐の隣に座り、消毒の準備をする。


 「永憐様、大丈夫ですか?はい、手出してください」


 「うん…」


 討伐の過酷さを物語るように、負傷した永憐の手のひらは血豆だらけで、指の付け根部分が酷く爛れていた。蘭瑛はその手に、癒合ゆごうの術と寛解かんかいの術を施し、包帯を巻き付ける。


 「あんまり、無理しないでくださいよ…」


 「平気だ。大したことない。お前こそ、新安しんあんで赤潰疫の治療に追われてるんだろ…。河南こうなん函谷かんこくでも、やはり赤潰疫は酷いのか…?うっ…」


 永憐は痛みに堪えながら尋ねる。

 蘭瑛は雲散うんさんの術を施しながら続けた。


 「はい…。なので、医家三宗が揃って各地に出向いているそうです。橙仙南とうせんなん玉針経宗ぎょくしんけいしゅうは針脈や漢方に強く、青鸞州せいらんしゅう清命長宗せいめいちょうしゅうは霊脈や予防医学に特化していますので、三家が揃えばそのうち終息するかと…。あ、そういえば、頼まれていた天京テンキョウと名乗る流医のことなんですけど、情報屋に聞いても、天京と名乗る流医はいないとの事でした…」


 「天京は流医ではないということか?ならば、そいつは一体、何者なんだ…」


 永憐は片方の腕で目を覆い、溜め息を吐きながら、カウチにだらしなく凭れた。

 そんな永憐を見るのに慣れてしまった蘭瑛は、何も触れずただ言葉を繋げる。


 「私が思うにですけど、秀綾シュウリンを殺したのは恐らくその天京という謎の人物かと。宋長安の人物はあのようなやり方はしないはず…。顔半分の陥没がかなり酷かったので、何か物凄い衝撃を受けたんだと思います。とても、人間の力とは思えない…」


 「人間ではない可能性もあるということか…。分かった。それも併せて調べる。少し時間をくれ」


 永憐はそう言って、また永冠ヨングァンを手に取った。

 蘭瑛は慌てて永憐の袖を引っ張る。


 「どこ行くんですか?まだ完全に治癒してませんよ!」


 「助太刀すけだちを待ってる奴らがいる。行かないと」


 蘭瑛は永憐の袖をゆっくり離しながら、下唇を前に出す。

 すると、永憐は蘭瑛の頭に優しく手を乗せた。


 「大丈夫だ。すぐに帰る。お前はもう休め」


 「……」


 こんなにも、胸が締め付けられるのは何故だろう…。

 自分に止める権利などないことは分かっている。

 でも、「行かないで…」という言葉が、どうしてか蘭瑛の喉の奥に留まった。

 永憐は蘭瑛の頭からゆっくり手を離し、永冠を握りしめて藍殿を出て行く。

 すぐに永憐を追うかのように窓を開けると、永憐は月の光に神々しく照らされながら、ひらひらと袍と髪を靡かせて、屋根の上へと消えてしまった。

 一人残された蘭瑛は、月明かりに永憐の無事を願うよう、人差し指に嵌めている翡翠の指輪にそっと唇を重ねた。


 ・

 ・

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 "泥を打てば面へはねる"

 悪しき者への制裁は、天災の如く突然訪れた。

 宋長安そんちょうあんでは、年長者たちが夜の討伐で不在の為、妖魔退治に参戦できない光明コウミンが百戦錬磨の如く男根を貪り尽くし、そこら中から男の咽び泣く呻き声が毎晩響き渡っていた。

 ある日の晩、永憐ヨンリェン賢耀シェンヤオが普段よりも早く討伐から戻ると、貧弱な男に光明が背後から強要しているところを目撃する。

 貧弱な男は強引に口を塞がれ、息も絶え絶えで泥水のように涙と鼻水で顔を濡らしていた。


 「何をなされているのですか!」


 永憐は思わず、訝しげにその場に近づき光明を咎める。

 光明は苛立ちを含めた素振りで、貧弱な男の蕾からブツを離し、その男を解放した。


 「お前…、討伐に行けねぇからって何やってんだよ!」


 賢耀から嫌悪感を含めた怒声が飛ぶ。

 永憐は賢耀を宥め、光明の袖を掴んで、一緒に宋武帝の所へ行くよう促した。


 「触るな!放せ!このクソ国師!いつも、そうやってお高くとまりやがって!男同士で情交を交えていて何が悪いんだ!この俺が、こんな馬糞とも変わらない分際の者を抱いてやってんだぞ!多少の痛みぐらい耐えられるだろ!」


 光明は悪態をつきながら、傷だらけで身動きの取れない貧弱な男を蹴った。


 「やめろ!このゴミ野郎!次、この男に手ェ出したら、この剣でてめェの男根削ぎ落としてやるからな!」


 苛立ちの隠せない賢耀は、すぐに自分の衣を一枚脱いで、その貧弱な男に被せる。

 永憐は激しい兄弟喧嘩が始まりそうな雰囲気を止め、口を開いた。


 「情交を誰と交わそうが個人の自由です。しかし、この男を見る限り、同意があったようには見えません。少々やり過ぎなのではありませんか?例え光明様であっても、私はこれを見過ごす訳にはいきません」


 永憐は光明を掴んでいた手に更に力を加え、抵抗できなくした。


 「耀、この男を背負えるか?」


 「もちろんだよ!任せて!」


 賢耀は身動きの取れない貧弱な男を背負い、全員でオカマ医官のいる医局まで歩いた。

 たまたま起きていた江医官に事情を説明し、貧弱な男を引き渡した後、永憐と賢耀と光明は宋武帝のいる紫王殿へ向かった。


 紫王殿の中に入ると、寝衣姿の宋武帝が仁王立ちで待っていた。光明の姿を見るや否や、宋武帝は光明の元へズカズカと歩き、光明の頬を引っ叩いた。


 「お前は恥というものを知らんのか!!この不届き者!!」


 光明の目から悔しさを滲ませた涙が浮かぶ。

 兄の前で叱られることは、光明にとって侮辱に値する。

 血の繋がりのない賢耀は昔から弟を庇う事は一切無い。

 幼い頃から兄と比べられ、父からはこうして一方的に叱責され、母からは歪んだ愛情を常に受け、それが、光明にとってどれだけ辛いことだったかは誰も知る由もない。

 本当は賢耀を「兄さん」と呼びたかったことも…。


 賢耀はそんな光明の気持ちなど露程も知らず、宋武帝に続き、光明にこれでもかというぐらい罵詈雑言を吐き散らした。

 凡人、姦人の子、無力な鳥。邪魔者、獣物、ならず者。

 数々の暴言を浴びせられた光明は、俯いたまま肩を震わせて泣き始めた。


 「耀。それ以上はやめなさい」


 永憐は静かに、賢耀の口を塞いだ。

 宋武帝が長い溜め息を吐き、眉間を揉みながら気だるそうに言う。


 「今日はもう遅い…。それぞれ部屋に戻って休め」


 咎める余裕も無いほど、宋武帝は疲れていた。

 今日はすぐに解放され、永憐は光明を送ってから藍殿へ戻ると賢耀に伝える。

 賢耀を見送ったあと、まだ泣き止まないでいる少年の背中を、永憐は何も言わずそっと撫でた…。


 「…触るな」


 光明から腕を振られ、避けようとされるが永憐は構わず背中に触れる。

 普段から身体を鍛えている賢耀とは違い、光明の背中は華奢で幼い少年のようだった。その未熟な背中には、愛情不足から来る寂しさと虚しさが押し込められているようで、永憐は憐れむように光明の背中を撫で続けた。


 「光明様、一新して稽古に来ませんか?」


 永憐が独り言のように語った言葉に、しばらくして光明が反応した。


 「…俺には何の才もない」


 「そんなことありません。人は必ず、何かしら才を持っています」


 「……」


 「皆が帰った後に、永徳館で私と少し話すだけでも…」


 光明は泣き腫らしたぐしゃぐしゃな顔を永憐に向けた。


 「…じゃ、明日行くよ…」


 永憐は仰天した。

 稽古はおろか、自分の事すら避けていたあの光明が、こんなにもあっさりこのような発言をするとは思ってもみなかったからだ。

 何か天災でも起こる前触れだろうか?

 永憐は戸惑いを見せながらも、段々と顔を綻ばせる。

 光明も又、永憐が見たこともない子犬のような愛らしい笑みを見せ、少年の顔は夜に咲く向日葵のようだった。


 「では、明日待っていますね」


 「うん。じゃ、また」


 光明はそう言い残し、自分の宮殿へと帰っていった。

 永憐は帰り道、ふと澄んだ夜空を見上げる。

 そこには、今にも掴めそうなほど光芒を放った星たちが夜空一面を覆っていた。まるで、念願だった思いが伝わった喜びを、沢山の星々が祝ってくれているかのように…。


 しかし、あの輝き放っていた星々は、どこの漆黒の闇に飲み込まれてしまったのか…。

 翌朝、藍殿に信じがたい訃報が入ってきた。


 「王国師殿!こ、光明様が…自害なさいました…」


 永憐は宇辰と蘭瑛を引き連れ、光明の宮殿へ急いだ。

 すると、そこには縄で自分の首を絞めたであろう変わり果てた姿があった。いくら蘭瑛であっても、ここまで硬直した遺体を蘇らせることはできない。

 遺体の側では光華妃が取り乱して泣き叫んでいる。

 賢耀も駆けつけ、「迷惑かけやがって!この野郎!」と怒り狂っていた。

 その横では、宋武帝が壁に凭れるようにして永憐に支えられている。

 すると、そこに第一発見者でもある護衛の半宿バンシュウが、折り畳まれた一枚の紙を持ってきた。


 「永憐様、光明様のご遺体の側にこちらが置かれておりました。恐らく遺書かと…」


 それを受け取った永憐は、恐る恐る賢耀たちの前で紙を開き、紙に記された文字を目で追った。

 その紙には、誰もが驚くほどの達筆な字で、こう残されていた。


 『父上、母上。この様な選択をどうかお許しください。来世では修仙者として賢耀兄さんと共に、永憐兄様の元で稽古ができますように。賢耀兄さん、母のせいで色々と申し訳なかったよ。ごめんね』


 永憐は紙に書かれてあった美しい文字を指でなぞる。

 そして、眠っている光明に向かって口を開いた。


 「ほら、あなた様にも立派な才があるじゃないですか…。この達筆という才が…」


 永憐から渡された遺書を受け取った賢耀は、その遺書を見るや否や、何かを堪えるかのように両手を力強く握りしめて部屋を出ていった。

 宋武帝は自分を責めるように目元を隠し、もう二度と戻らない日々を悔いていた。


 今の宋長安はまさに雪上加霜せつじょうかそうだ━︎━︎━︎。

 光明の死からひと月も経たぬうちに、光華妃が突然大病を患い、一度も目と口を開くことなく静かに崩御した。

 愛する息子のいないこの世に、何の未練も残すまいと言わんばかりに。

 霊前には、以前から光華妃が愛用していた羽付きの扇子が置かれていた。誰も触れてはいないはずのその羽が、何故かひらひらと儚く床に抜け落ちていく。

 それはまるで、欲に蝕まれた鷹の尾羽が、落ちぶれてみすぼらしい姿になっていくかのように、英華の没落を表しているようだった。


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