リズベットたちがアールリオンの屋敷に到着する、少し前のこと。
グレイはアールリオン公爵の私室にて、彼と二人きりで話をしていた。
公爵は額に脂汗を滲ませながら、苦しそうに床にうずくまっている。グレイもグレイで、壁にもたれかかって座り、荒い息を吐いていた。
「それ抜いたら、早く楽になれるぜ」
グレイはそう言って、公爵の腹に刺したナイフを指さす。両足の腱を切断してあるので、公爵がこの場から逃げることは出来ない。屋敷には火も付けたので、私兵の増援が来てもすぐには入って来れないだろう。
「我慢比べといこう、公爵。俺もこの体じゃ、そう長くは保たない」
夜は刺客との戦闘。昼は、次にいつどこでどんな刺客が攻めてくるかの情報収集。
そんな日々が何ヶ月も続き、ろくに眠れていない。疲労は限界を越え、体はとっくに悲鳴を上げていた。
だが、この体は今日まで保ってくれた。それで十分だ。
「先に死神が迎えに来るのはどっちだろうな。ま、俺が先に死にそうになったら、最期にそのナイフを抜いてお前を殺すんだけどな」
グレイがカラリと笑うと、公爵が憎しみのこもった瞳で鋭く睨みつけてくる。
「忌々しい、エインズリーの黒犬が……! 直に、騒ぎを聞きつけた他の私兵たちが駆けつける。死ぬのはお前だけだ! う、ぐ……」
叫んだのが腹に響いたのか、公爵は顔を歪ませた。
この屋敷は大量の私兵に守られていた。いつかこうなる日が来るのではと恐れて、守りを固めていたようだ。私兵はなかなかに鍛えられていたので、全て倒すのはかなり骨が折れた。
それに加えてまだ私兵を抱えているとは、大聖女の恩恵とはそれほど大きいものなのだろう。
大聖女――。
先ほど会った金色の瞳の少女を思い出し、グレイはわずかに顔を顰めた。
エインズリー侯爵家殺害に関わっているのはアールリオン公爵のみで、他の人間は何も知らない。
だから、公爵以外のアールリオン家の人間や使用人は殺さなかった。
しかし、たった一人、マイア・アールリオンを見つけた時だけは、煮えたぎるほどの憎悪が湧き上がり、殺したい強い衝動に駆られた。
この日、公爵はわざとマイアを王城から屋敷に連れ戻していたのだろう。毒魔法で襲撃を仕掛けるなら、治療できる者が王城にいないほうが標的の致死率が上がる。今回の標的は、レオナルドとリズベットの両方だった。
そんな公爵の策略のせいで、グレイはマイアに会ってしまった。
気づけばナイフを首元に突きつけていた。
手入れの行き届いたストロベリーブロンドの髪。何の苦労も知らないような傷一つない手。
金色の目で大聖女になったが故に、彼女なりにつらいこともあったのかもしれないが、そんな事はどうでもいい。本来大聖女の座は、彼女のものではないのだから。そのつらさも所詮、幻だ。
エインズリー家が殺される原因となった女。
リズベットが享受するはずだったものを全て奪った女。
それなのに図々しくも、リズベットの友人になった女。
何も知らず、自分が大聖女であることを疑いもせず、ただその地位にしがみ続けた女。
ああ、無知とは、それだけで罪深い。
憎い。
憎い、憎い、憎い、憎い、憎い――。
だがこの女は、もうリズベットの友人だ。マイアが死んだら、きっとあいつは泣くだろう。
だから、殺意を心の奥底に押し込んで、押し込んで、押し込んで。見逃した。
この選択に、悔いはない。リズベットには、ただ笑っていて欲しかった。
グレイは再び湧いた殺意とともにフッと息を吐くと、天井を見上げた。
「どうせ死ぬまで暇だ。少し話そうや、公爵」
「お前のような薄汚い犬と話すことなど何も無い」
「まあ、そう言うなよ。どうせ俺たち、もうすぐ死ぬんだ」
「…………」
公爵の瞳には、わずかに怯えの色が滲んでいた。逃げられないこの状況。腹にはナイフ。流石の公爵も、自分に死が近づいていると理解したのかもしれない。
「なあ。なんでエインズリー家を襲った?」
「我が一族から大聖女を輩出するためだ。そんな事、お前はとうにわかっていたのではないのか?」
「じゃあ、なんでそんなに大聖女の輩出にこだわってたんだ? やっぱり地位と金か?」
グレイの問いに、公爵はどこか遠くに視線を向けた。人生の最期に、己の過去を振り返っているようだ。
「……初めはそうだったのかもな。しかし今は、名声だ。大聖女を世に送り出し、この国にアールリオンありと知らしめること。それが、アールリオン家の当主に代々与えられた役割だった」
そんなことのために。
そんなことのために、エインズリー侯爵家の人々は殺され、リズベットは身を隠し怯えて生きなければならなかったのか。
バカバカしすぎて、かえって笑いが込み上げてくる。
「クッ、ハハッ! なんだよそれ。想像以上のくだらなさだ。怒り通り越して呆れたわ。それで大聖女候補の子どもを殺すかね、普通」
「お前にはわからんだろうよ。家名の重さというやつは」
「ハッ。わかりたくもねえよ」
グレイは鼻で笑うと、公爵に思いっきり嘲笑を浴びせてやった。
「リズベッドを殺しきれなくて残念だったな。お前が送ってきた刺客が雑魚ばっかりで助かったよ」
「お前さえいなければと、何度思ったことか。本当に……忌々しい」
公爵はそう吐き捨てると、静かにこちらを睨みつけていた。
グレイは変わらず嘲笑を浮かべたまま、勝ち誇ったように言う。
「今日でお前が大事に大事に守ってきたアールリオンも終わりだ。近い内に真実が明るみに出る。そしたら今まで築き上げてきた名声も地に落ちるな。いい気味だ」
「……もう黙れ」
公爵の声は怒りに満ちていた。
ああ、気分がいい。今日は最高に良い日だ。
やっと、仇を討てる。
やっと、リズベットを不安な日々から解放してやれる。
「そうするわ。ま、せいぜい、長く苦しんで死ね」
目を閉じると、今までのことが走馬灯のように蘇ってくる。
グレイは最期までの時、自らの過去を思い出していた。