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36.黒の献身


 リズベットの言葉が脳裏に蘇り、グレイは一瞬にして意識を現実に引き戻された。


(あっぶね。意識飛ぶとこだった)


 目を閉じるのを止め、天井を見上げる。


 ナイトレイ子爵家に転がり込んでからしばらくは、刺客が送り込まれてくる気配はなかった。しかし、一年ほど経った頃、どこからバレたのか、再び刺客がリズベットを狙ってくるようになった。


 そのたびに、全員殺してきた。


 刺客を片付けている時は、エインズリー夫妻を守れなかった償いが出来ている気がして、少し気が紛れた。


 リズベットには刺客が来ていることすら教えなかった。あんな虫けら共のせいで、彼女の笑顔が陰るなんて我慢ならなかったからだ。事情を知るのは、ナイトレイ子爵だけだった。


 敵は圧倒的権力を誇るアールリオン公爵家だ。ナイトレイ子爵には「子爵家は絶対に俺が守るから、何も手出しせずただ見守ってくれ」と言っておいた。ただの子爵家がどうこうできる相手ではないだろう。


 公爵暗殺も考えはしたが、そこでリズベットが大聖女であると名乗り出ても、かえって彼女に疑いの目が向けられるかもしれない。公爵暗殺の首謀者として彼女が捕えられては元も子もなかった。


 結局、アールリオンの罪を裁かない限り、彼女が本来の地位に返り咲くのは難しいと判断した。


 そして、しばらく刺客を追い払い続けていると、ある日突然ぱったりと来なくなった。


 リズベットの魔力量を見て無害認定されたのか、大聖女に名乗り出る気配がないから様子見することにしたのか、理由は良くわからない。


 すでに素性がバレているなら身を隠す必要もないかと思ったが、目立ってまた命を狙われる危険性もある。だから、リズベットのことは引き続き隠し続けた。


 それからは平穏な日々が続いた。リズベットはすくすくと育ち、ナイトレイ子爵家の優しさもあって真っ直ぐな子に育った。とても聡明で、慈愛に満ち溢れた、美しい女性になった。


 いつから惚れていたかは正直覚えていない。気づいたときには愛していた。


 それは恋などという薄っぺらい一過性の感情ではない。女性として、家族として、仕える主人として、ひとりの人間として、彼女を心から愛していた。


 しかし、彼女とどうこうなりたいわけではなかった。


 血に染まった自分が、穢れなき彼女を汚すことなど許されない。愛しているだなんて、言えるわけがなかった。


 自分はただ、彼女の護衛として、守り続けるだけ。それで十分だった。十分、幸せだった。


 そんな折、転機が訪れた。リズベットが第一王子レオナルドの専属医になったのだ。


 彼女を本来の地位に戻す、良い機会だと思った。


 どうやらレオナルドは今の大聖女に疑念を持っているようだ。地位も権力もあるこの男なら、アールリオンを裁けるかもしれない。そして、リズベットを守るだけの圧倒的な武力も持ち合わせている。


 自分一人でいつまで彼女を守りきれるかわからない現状を考えると、レオナルドはリズベットを託すのに最適な相手だった。


 二人の距離が縮まったのは僥倖ぎょうこうだった。


 しかしそれに伴い、再びリズベットの命を狙う者たちが現れだした。アールリオン公爵は、何かの拍子で王太子に自分の所業がバレるのを恐れたのだろう。


 王家の別邸には強固な結界が張ってあるので、リズベットが屋敷内にいる時は安全だった。グレイはその間に、アールリオンに雇われた刺客の情報を集め、片っ端から潰していった。


 ちなみに、リズベットがマイアの策略で専属医をクビになった時に襲ってきたチンピラは、マイアによるただの嫌がらせだった。だから奴らは殺さずに捨て置いた。


 その後、謝罪と称してアールリオン公爵が直接リズベットに接触してきた時は、流石に肝が冷えた。嫌な質問を繰り返していたのは、リズベットのことを探っていたのだろう。


 どこまで真相を知っているのか。

 なぜ瞳が茶色になっているのか。

 王子との関係はどうなっているのか。


 すぐさまその首をはねたかったが、アールリオンを裁く証拠が何も無い中で殺すのは得策ではない。自分の関係者であるリズベットとナイトレイ子爵家が責められるだけだ。


 だから、ただひたすらにその時を待った。レオナルドが、アールリオンを裁いてくれるその日を、ただひたすらに。


 しかし、リズベットが毒に倒れたあの日、己の甘さを激しく悔いた。


 あの夜は外でアールリオンの刺客を片付けていたせいで、彼女のそばを離れていたのだ。これまで毒を盛られたことなど一度もなかったので、完全に油断していた。


 顔を白くして眠るリズベットを見て、心臓が止まるかと思った。このまま目覚めなかったらと思うと、腹の底から恐怖が湧いてきて仕方なかった。


 これ以上リズベットをレオナルドの元に置いてはおけない。


 すぐさま連れ帰りたかったが、彼女の仕事も残りわずかだった。結局グレイはリズベットの「最後まで仕事をやり遂げたい」というお願いを聞き入れ、最終日まで彼女を見守った。


 残りの数日間は、一時もリズベットのそばから離れなかった。


 そして、リズベットが子爵家に戻ってからは、壮絶な日々だった。


 レオナルドと離れて多少はマシになるかと思ったが、アールリオンの魔の手は止まることなく、毎日のように刺客が送られて来た。ナイトレイ子爵家に王家の別邸のような結界が張られているはずもなく、少しも休まる時はなかった。


 リズベットには絶対に言わなかった。彼女には、ただ笑っていて欲しかった。


 しかし数日前、リズベットの帰りが遅くなったあの日、とうとう彼女に刺客の手が届いてしまった。他の刺客の片付けに時間を取られ、助けに行くのが遅れてしまったのだ。


 もう自分ひとりで彼女を守り切るのは限界だった。体も悲鳴を上げている。いつ倒れてもおかしくはなかった。


 だがこれ以上、大切な人を奪われるのはゴメンだ。恩人に託された彼女を守ることが、心から愛する彼女を守ることが、己の人生の全てだった。


 せめて自分の命と引換えに、彼女を守れれば――。


 そう考えたグレイは、強硬手段を取ることにした。


 アールリオン家を襲撃し、全ての元凶である当主を殺す。


 そうすればリズベットへ刺客が送られることも無くなるはずだ。そう遠くないうちにレオナルドがアールリオンの罪を暴いてくれるだろうから、リズベットやナイトレイ子爵家が責められる心配もない。


 彼女はきっと悲しむだろう。しかし、もうこれくらいしか手段は残されていなかった。


 そうしてレオナルドにリズベットを託し、グレイは彼女の元を離れる決意をした。


 昨日、リズベットと別れる間際、グレイは彼女の瞳を覗き込み、それを記憶に刻み込んだ。


 あと一センチ。このまま唇を奪ってしまおうかと邪な考えが一瞬頭によぎったが、そうはしなかった。自分の勝手な欲望でそんなことをしても、生き残った彼女に余計なトラウマを与えるだけだ。


 リズベットが幸せになれば、それでいい。


(ごめんな、リズ。俺はお前を守れても、救えはしなかった)


 王家の別邸での最後の日、レオナルドに救いを求めたリズベットを見て、胸が抉られた。


 彼女は今まで、救って欲しいなんて一度も言わなかった。だから、不自由ながらも静かな生活にそれなりに満足しているのだと思っていた。でも、そんなことあるはずがなかった。


 いつ殺されるかわからない恐怖。目立たず生きなければならない息苦しい日々。


 彼女はずっと、心の奥底で救いを求めていた。


 しかし結局、自分一人の力で彼女を救うことは出来なかった。ただ守るだけで、救えはしなかった。


 だがレオナルドなら、英雄と呼ばれたあの男なら、きっと、リズベットを救ってくれる。


(あー、最期にあいつの瞳、見たかったな……)


 宝石のように輝く紫の瞳。贅沢を言うのなら、もう一度、あの鮮烈な輝きを見たかった。


(俺が死んだら、泣くかな。いや、怒るだろうな)


 死なないでと何度も言われた。そのたびに、嘘をついた。


 でも、きっと大丈夫だ。リズベットの隣には、レオナルドがいる。きっとあの男が、慰めてくれる。


(……先に死神の迎えが来たのは、どうやら俺の方らしい)


 目の前が霞む。炎が近づいてきているが、何も感じない。


「あんた……思ったより、しぶといな。俺、そろそろ限界っぽいから……あんたの腹のナイフ、抜くことにするわ」


 公爵は苦しそうにうずくまっているが、まだしっかりと意識があった。とてつもない胆力だ。


 グレイは最期の力を振り絞り、体を持ち上げる。そして、公爵の元に向かおうとした瞬間――。


 上から大量の水が降ってきた。


 今夜は晴天。雨ではないはず。というかそもそも、雨なんてレベルじゃない。


「うおわっ! ゲホッ、ゴホッ、何だこれ!! 溺れるわ!!」


 盛大に水を飲み込んでしまったグレイは、むせながら思わず叫んでいた。


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