片手に郵便物を抱えたまま、易々と男子学生を宙吊りにする謎のデカ眼鏡の乱入に、全員がゴクリと息を呑む。銀之介が不愉快マックス顔だから、余計に怖い。
それは吊られている串間も同様だった。視線を動かして銀之介と目が合うや否や、背中を反らしてビクついた。
まるで
俯き笑いを堪える鈴緒の耳に、銀之介の酷薄な声が聞こえた。
「一度、事務局まで来なさい」
「あ、ちょっ、そこまでは大丈夫だから!」
鈴緒は連行されそうになるマグロ改め串間を、慌てて引き止める。
ギロリ、と銀之介の視線が鈴緒に向けられた。見慣れていないと泣きそうな眼力である。
「先程彼は、君に乱暴を働こうとしていたが」
「腕掴まれただけだし、もういいよ! 仲裁ありがとうございます!」
ワタワタと両手を動かし、串間をリリースするよう訴える。低次元な色恋沙汰で大学まで巻き込み、串間に逆恨みされるなんて御免だ。
銀之介は眉間に深いしわを刻んでしばし鈴緒を睨みつけ――もとい見つめたが、最終的には串間の放流に同意した。雑に手を放し、地面で尻もちを付いた彼へ
「二度とこの子に近付かないように。次にまた見かけたら、停学も有り得るぞ」
淡々とぶっとい釘を打ち込んだ。
「はっ、はいぃ……!」
涙目の串間も、カクカク頷きながら頼りない足取りで逃げ去る。
鈴緒はほうっと息を吐き、不本意ではあるものの銀之介に頭を下げる。
「……助けてくれて、ありがとう」
「それより、君もホケカンに行って来なさい」
突然、保健管理センターこと通称ホケカン行きを指示され、鈴緒は首をひねる。
「別に殴る蹴るの暴行とか、受けてないけど?」
「手首に、痕が残っている」
この言葉に、鈴緒は串間に掴まれていた手首を見る。赤を通り越し、若干紫がかった手形が残っていた。
ひえぇ、と鈴緒は間抜けな悲鳴をこぼす。
「心霊現象みたい……やだ、グロい」
「言ってる場合じゃないだろ。震えだって酷い」
銀之介の指摘通り、両手は小刻みに震えて膝から下もガクガクと不格好に揺れている。
どれだけ先見で陰惨な場面に見慣れていても、自分が渦中にいればやはり、怖かったのだ。
鈴緒は空元気を振り絞り、笑顔でごまかそうとするが、それも上手くいかなかった。恐怖を自覚した途端、泣きそうになったのだ。
その場にしゃがみ込みそうになるも、銀之介が背中を支えてくれた。
「ホケカンまで付き添おう」
「うん、ありがと……」
「別に構わない」
口調は相変わらず素っ気ないままだが、鈴緒の歩調に合わせてゆっくりと歩いてくれる。
顔に似合わず気遣い屋である。背中に添えられた手も温かい――気がする。コート越しなので、あくまでも感覚だが。
周囲の好奇の目から遠ざかりつつあることで、鈴緒の心にほんのわずかだが余裕が生まれた。
「職員さんも、ホケカンって呼んでるんだ?」
なので薄っすら気になっていたことを訊いてみる。
「保健管理センターなんて長い名称、呼ぶ訳がないだろ。かったるい」
「ふぅん」
澄ました顔と声で「かったるい」と言い切るのが、なんだか愉快だった。鈴緒は頬を緩める。
銀之介はじっと無言で、彼女の微笑を凝視する。
ややあって視線を反らし、彼はポツリと呟いた。
「……久しぶりのような気がする」
「うん?」
「君が笑ってくれるのが」
鈴緒は咄嗟に何も言えなかった。口をつぐんだまま、目だけを見開く。
驚愕の表情で銀之介を見上げ、歯噛みし、視線をうろつかせるという二転三転の末に、鈴緒はツンと顎を突き出す。
「わたしは、いつだって朗らかだけど? あなたが小言ばかり言うのが悪いんでしょ」
そう高飛車ぶったが、今更である。
「小言を言っているつもりはないのだが……」
銀之介は前を向いたまま、眉を寄せて再度怖い顔になった。偶然通りがかった教員が、その顔を見て悲鳴を上げている。これは悪いことをした。
「ただ、君のことが心配なんだ。辛いことはないか、悩みはないか……とつい気になるんだ」
いつになく深刻な声音に、自分への恋慕を吐露していたあの声が重なる。鈴緒はたちまち、耳まで真っ赤になった。
「しっ、心配しなくていいから!」
「だが――」
「困ったら……ちゃんと相談、するし」
だからつい、譲歩するようなことを言ってしまった。たちまち銀之介の強面が緩む。
「ああ、是非頼ってくれ」
「うん……分かった……」
鈴緒は気恥ずかしさやむず痒さに見舞われ、唇を尖らせつつ一つ頷いた。すると銀之介にぽん、と軽く背中を押される。
そこでハッとなり顔を上げると、いつの間にか保健管理センターの前まで来ていた。
「では、くれぐれも無理をしないように」
「あ……」
鈴緒がへどもどと次の言葉を探している内に、銀之介は片手で持っていた郵便物を再度抱え直すと足早に去って行った。
きっと業務中だったろうに、鈴緒がトラブルに巻き込まれていたから駆けつけてくれたのだろう。
その献身へのありがたさや、きちんと礼を言えなかったことへの申し訳なさや、彼に助けられないとどうにもならなかった己への不甲斐なさで、鈴緒はつい地面にしゃがみ込む。
頭を抱えて低くうなったところで
「あああああ! 牧音ちゃん!」
図書館で待ちぼうけを食らっているであろう、親友の存在を思い出して一気に血の気が引いた。
慌ててメッセージを送るも、鈴緒が事故に巻き込まれたのではと半泣きで周囲を探していた牧音から、抱き締められつつ本気で怒られる羽目となるのであった。