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17:あるいは塩大福

「そういや鈴緒さ。最近、例の職員さんとの同居生活はどうなの?」

 友人の牧音に加え、倫子りんこというもう一人を加えた三人で食堂にいる時、出し抜けに倫子から尋ねられた。

 昼食の親子丼を頬張っていた鈴緒が、ギクリと細い肩を跳ねさせる。それでもしっかり咀嚼・飲み込みが終わってから口を開いた。


「……別に普通、だけど」

 嘘である。灰青色の瞳が、落ち着きなくキョロキョロと動いていた。

 なにせここ数日、鈴緒は精神的に負け越しているのだ。


 鈴緒はカスのかぐや姫と化して銀之介に嫌われるどころか、彼と対峙して冷静さを維持することすら覚束なくなっていた。

 串間にフラッシュモブじみた告白をされたあの騒動以来、どうにも銀之介を不必要に意識してしまうのだ。


 緑郎も交えた三人で、リビングでテレビを観ている時もつい、彼の方へ視線が向いてしまう。そして銀之介もチラチラとせわしない視線に気付いては

「どうした、鈴緒ちゃん。何かあったのか?」

と、その度に彼女へ気遣いを向けて来るのだ。非常に気まずい。

「な、なんでもないから! 気にしないで!」

 その度に鈴緒も、アタフタと首と両手を振ってごまかすも、これまた恐ろしく挙動不審である。


 遂には鈍感力にかけては右に出るものなしと言われている緑郎ですら、

「ひょっとして鈴緒……大学でイジメに遭ってたりする? それとか、誰かに脅されてたり? お兄ちゃんも、闇討ちぐらいなら手伝うよ」

と、左斜め後方に思考をぶっ飛ばして鈴緒を案じる始末だった。


 挙句に今朝も、鈴緒の情緒はハチャメチャだった。

 寝ぼけ眼で廊下を歩いていた彼女は、朝帰りの緑郎がそこで寝ていることに気付かず足を取られ、危うく転倒しかけた。


 たまたま後ろにいた――緑郎に水を持って来てくれていたのだ――銀之介に体を抱きとめてもらえたのだが、

「鈴緒ちゃん。足元はちゃんと見た方がいい。君の兄は道端でも寝る男だ」

などと小言を食らっても一切言い返せなかったのだ。

 鈴緒はただただ赤い顔で、ぎこちなく頷くことしか出来なかった。


 だって彼女は小言の裏側に、自分を案じてくれている純粋な優しさがあると知ってしまったのだ。

 文句なんて、言えるはずもなかった。


 がっしりした腕の頼もしさも思い出すと、また頬が熱くなる。

 自分は痴女だろうか、と鈴緒は親子丼をにらみながら悩んだ。

 目を泳がせたと思ったら、赤い顔で黙り込む友人の姿に、牧音と倫子はニヤニヤと笑った。

「なんだ、順調なんだ」

「ってかさ、同居生活も楽しんでるよね?」

「たっ、楽しんでないから!」


 鈴緒が目を吊り上げて反論しても、二人の悪そうな笑顔は変わらない。

 牧音がカレースプーンの先を、鈴緒に向けた。

「ちょっと前まで、職員さんのこともむちゃくちゃ愚痴ってたじゃん」

「そうそう。口うるさい小姑みたーいって」

 倫子も頬杖をついて、サンドイッチをかじりつつ同意する。


「なのに今は、なーんも愚痴らず『普通』だけだし」

「ってことはさ、満更でもないっしょ? お?」

「うぐぅぅ……っ」

 悲しいかな、名推理である。

 実際に少しずつではあるが、銀之介との会話の頻度も増えていた。

 しかしそれを認めると、あの未来に一歩近付いてしまう気がする。それはそれで、酷く悔しいのだ。


 鈴緒は歯ぎしりして、無駄な抵抗を続けた。

「満更でも楽しくもない! 本当にただの普通! 銀之介さんの小言に、ちょっと耐性が出来ただけ!」

「あーはいはい」

「それは何よりで」

 全く情感のこもっていない友人二人の相槌に、鈴緒はまた低くうなった。


「なんか今の鈴緒、動物病院に連れてかれた時のウチの猫っぽい」

 牧音がそう言って、今度はからりと笑った。


 友人二人から散々おちょくられた鈴緒は、午後の講義をほんのり拗ねながら受けた。

 彼女たちの指摘がてんで的外れなら、笑い飛ばせるのに。そうでない上、

「彼氏より家政婦さんかママが欲しいとのたまってた鈴緒に、まさかこんなに早く春が来るとはね……」

などと泣き真似までされるのだから、余計に腹立たしいのだ。


 そして大学からのプンスカとした帰り道、鈴緒は珍しいメッセージを受け取った。

〈スズたま プリン買ってきてください〉

 という緑郎からのものだ。

 鈴緒は、はてと小首を傾げる。

 誰もが羨む在宅勤務でフリーランスなマンガ家の彼は、料理はメシマズヒロイン級で、掃除や洗濯も尻を蹴飛ばさないとやらない私生活落伍者だ。


 が、買い物だけはこまめに行くのだ。散歩が好きで、そのついでに行くらしい。おかげでうっかり洗剤やサランラップを切らすという、よくあるご家庭のトラブルとも無縁だったりする。

 おまけに主婦層と仲良しのため、各販売店の安売り情報にも詳しい。鈴緒も銀之介も、食材の買い出しは彼に任せていた。


 なので彼が買い物を頼み込んで来るのは、非常に稀だった。

「締め切り前でピンチとか?」

 ふと思いついた仮説を、鈴緒は口にした。

 無計画フリーランスな彼の場合、締め切り破りも常習である。大いにあり得る。


 それなら買い物ぐらいは代わりましょう、と鈴緒は帰り道にあるコンビニでプリンとエクレア、それからアップルタルトを買った。カスタード縛りである。


(……銀之介さん、洋菓子とか食べるのかな? 黒飴とか酢昆布の方がよかったかも?)

 彼の食生活老化指数をかなり高く見積もっている鈴緒は、カスタードを受け入れられるだろうか、と一瞬危惧するも

(その時は、わたしが両方食べてあげようっと)

と、すぐさま現金に考え直した。この辺りは緑郎の血縁者らしい思考である。


 そして三人分のデザートと共に、鈴緒は自宅へと戻った。

「ただいまー。お兄ちゃん、プリン買ってきたよー」

 玄関を開けつつ、鈴緒は声を張った。


 誰かがお菓子を買って帰ると、普段の緑郎なら仕事部屋から猛ダッシュで駆け下りてくる。だが、今は玄関も廊下もしん、と静寂に包まれていた。

 銀之介もまだ勤務中であるが、それにしたって無音である。おまけに灯りも消されたままだ。


「お兄ちゃん、まだお仕事中?」

 鈴緒はデザートの入った買い物袋をどうしようか、と視線をさ迷わせたが、冷蔵庫より先に緑郎へ報告することを選んだ。スリッパを履いて廊下を進み、二階へ続く階段をリズミカルに上る。


 緑郎の寝室兼作業部屋も、扉が閉め切られていた。だらしない彼は、ドアというドアを半開きにしがちである。これもまた、地味に珍しい。

 だがその理由は、ノックしようとしたドアの向こう側からの物音で判明した。


 ゲホゴホと、痰の絡んだ痛々しい咳が繰り返されていたのだ。

 鈴緒は右手を中途半端に上げたまま目を丸くして、次いで控えめにそっとノックする。

「お兄ちゃん……ひょっとして、風邪引いたの?」

 そうだよ、と答える代わりにまた、なんとも苦しげな咳が聞こえて来た。

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