完全なるノーマークであった。
銀之介は鈴緒の心身を案じ、心を砕き続けて早二年。
そして鈴緒も鈴緒で、彼との同居生活を始めてからは日々、彼の揚げ足を取ってやろうと虎視眈々と窺っていることが多かった。
結果的に、お互いに相手をよく見ていたわけだが、その循環から外れていたのが緑郎だ。
そして緑郎は、放置してはいけない問題児である。
「なんか最近、ダチと妹が仲良さげだなー。嬉しいけどちょっと寂しいかも」
などと考えていた呑気な彼は、放置=二人からの苦言が減ったのを幸いと遊び歩いていた。
担当編集者とガールズバーではしゃぎ、中学時代からの友人たちと徹夜でゲームをしたりと、大人と子どもの駄目な部分の煮凝りのような生活を送っていたのだ。
おまけに食生活も乱れに乱れ、主食はスナック菓子、主飲料は酒またはコーラという末期ぶりであり――行きついた先は当然、体調不良だった。
朝帰りをした末に今朝、暖房も付いていない廊下で爆睡したのもトドメになったのだろう。
鈴緒や銀之介が出払ってから目を覚ました時には、熱は三十八度を超えていた。おまけに腹も壊している。
ヨロヨロとかかりつけの病院へ向かうと、これでもかと風邪をこじらせているとの診断を下されたのだ。
「風邪で済んで良かったな。往来で寝ていれば、イノシシに殺されてもおかしくない」
ぐったりと事情説明をする親友に、銀之介は無表情でこれだけ言った。一切の情緒が見えない虚無の声だ。
だが彼のこんな態度にも慣れっこらしく、額に冷却シートを貼った緑郎は頭を左右に力なく揺らす。マスクの向こうから、くぐもった声もした。
「あの迷子イノシシ、まだ捕まってないんだ?」
「ああ。目撃情報はあるが、捕獲には至っていない。勿論、山に帰った可能性もあるが」
「へー。見つけたら謝礼、貰えないかなー」
「誰が払うんだ、それ」
「えーっと……役所?」
「そういう要求は、納税をしてから言え」
「してるよー。個人事業主、ナメんなよー」
緑郎は一応怒っているようだが、熱のせいか普段以上に覇気がない。
程度の低い会話の応酬に、鈴緒は呆れた目を注ぐ。
「お兄ちゃん、いいからもう寝てなよ。明日の会食も、わたし一人で行くから」
明日は地元企業の社長や地主との、かしこまった食事会があるのだ。
先見で、企業の不正や不利益を視てしまうこともあるため、そうなった時に出来るだけお互いに
だがいい年した男性が過半数を占める実業家どもは、若くて可愛い巫女との交流が色々と楽しいらしい。基本的には気のいい豪胆な面々であるものの、酒が入るとどうしてもタガが外れてしまうこともあり――
「えー!? エロ親父どもの巣に、スズたまを単騎で行かせるワケないじゃん!」
以前の会食でお胸にお触り未遂事案があったことを知っている緑郎は、盛大にむせつつ焦った。熱い手がギュッと、鈴緒の小さな手を繋ぎ止める。
「エロって……まあ、うん、その通りだけど」
「でしょ? だからさ、おれも絶対ついてくー!」
珍しくも兄らしい責任感を見せているが、そう宣言する間も体は前後左右にふらついている。目の焦点も危うい。
鈴緒は冷却シート越しに、緑郎の額を軽く突いた。
「歩くのもやっとなのに、無理だよ。いいからちゃんと休んでて。何かされそうになったら殴るし」
「いやいや、でも――」
「代わりに、俺が同行する」
麗しき兄妹愛を眺めていた銀之介が、出し抜けに言った。
鈴緒が目を見開き、驚愕の顔で彼を見上げる。
「えっ? 別に、そんないいよ! 銀之介さんだってお仕事あるのに!」
「元々、定時退社の多い部署だ。問題ない」
「会食の他の参加者がビックリするよ! お兄ちゃんが来ると思ったら、代わりになんか知らない大きい人がいるんだよ! 怖いじゃない!」
「しかも人相も悪いもんねー。ショバ代むしりに来た、インテリヤクザにしか見えないし」
焦る鈴緒に、緑郎の腑抜けた声が乗っかる。
怖いだのインテリヤクザだのと、散々な言いようをされた銀之介は無表情のまま片方の眉だけ持ち上げた。借金返済が滞った客を、マグロ漁船に乗せる時の顔に見えなくもない。
「緑郎に言われるのは癪だが。俺の顔で、周囲への牽制になるなら丁度良い。是非有効活用してくれ」
「有効活用って言われても……そんな、印籠じゃないんだから」
困った鈴緒は、今もフラフラと揺れている兄を見る。止めてくれないだろうか、という期待を込めて。
しかし緑郎は目を細め、両手を持ち上げてサムズアップをした。案外元気である。
「いいんじゃない? 銀之介はおれより真面目で頼りになるしさ。たしかに丁度いいじゃん」
「だいたいの大人は、お兄ちゃんより頼りになるよ」
「それもそうだけど。でも銀之介がいなかったらおれ、たぶん高校中退してたと思うよ。ってか一年の夏で辞めさせられてたと思うなー」
「そうなんだ……え? どういうこと? お兄ちゃん、何したの……?」
ふんわり流しかけたところで、鈴緒は慌てて身を乗り出す。次いで緑郎と銀之介を交互に見た。
疑惑の目を受け、銀之介が一つ頷く。
「鈴緒ちゃん。君が兄から学ぶべき事は一つもない。むしろ反面教師とするべきだろう」
「そういうこと。だから明日は、銀之介に任せて頑張ろうねー」
「明日より高一! 高一の夏に、何があったのよ! ねえ!」
一番もやもやするところで打ち切られ、おまけに押し通され、鈴緒は無意味に腕を上下させて二人に怒るものの、結局高校一年の頃に何があったのかは教えてもらえなかった。
男二人はわざとらしく視線を反らし、そそくさとリビングを出て行ったのだ。
一人残された鈴緒は、白い頬を膨らませて拗ねる。
「何なの……しかも銀之介さんが同伴するのも、なんか確定してるし……」
面白くない、と目も細めた。
いや、前言撤回だ。
銀之介が付いて来てくれることが――実のところ、ほんの少しだけ頼もしかったりもするのだ。
それがまた、悔しいのだが。鈴緒はほんのりと赤らみ始めた頬を両手で隠し、視線を落とした。