帰りのタクシーの後部座席に、鈴緒と銀之介は二人並んで座っていた。会食にお酒は付きもののため、元からタクシー頼みなのだ。
ちなみに会食代は主催者持ちだが、交通費は自腹である。世知辛い。
ウェーイ店長から妙に気に入られてしまった銀之介は結局、日本酒やワインやウィスキーをチャンポンさせられる羽目となった。
が、妙に気に入られた甲斐もあり、店長は終始上機嫌であった。
酒が進むと他の会食参加者とも打ち解け、最終的には和やかな雰囲気で終わった。
そしてその功労者は今、タクシーの窓に頭を預けてぐったりしている。明らかに目から生気が失われていた。
鈴緒は死相の出た真顔が恐ろしく、つい彼の手首に指を当てた。
「よかった……脈ある」
「ああ、うん。ごめん、ちゃんと生きてるから」
背中を丸めて息を吐く鈴緒の姿に、銀之介もガバリと身を起こした。
しかし急に動いて吐き気を催したのか、口元を押さえて眉をひそめる。
鈴緒はその、悲壮感しかない横顔をじっと見つめた。
「ねえ……どうしてそこまで、無茶したの? お酒、本当はあんまり得意じゃないよね?」
顔色の悪い無表情が、ひたと鈴緒を見つめ返す。
「気付いていたのか」
「だってウチで、全然飲んでないから」
「よく見ているんだな」
揚げ足取り狙いで観察していたとは言えず、鈴緒はそっと視線をそらす。
「……たまたま、気付いただけだから。本当にたまたま」
「そうか」
銀之介はそこで言葉を区切り、細身の眼鏡を外す。そして目頭を一度つまみ、眼鏡をかけ直しながらぽつりと呟いた。
「俺も暴飲するつもりはなかったんだが。少しでも、君の役に立ちたかったんだ」
淡々としているが、どこか真摯さもある声音だった。
だからこそ、鈴緒は分からなかった。彼女がキュッと唇を引き結ぶ。
「それじゃあ、どうして……?」
「うん?」
「そこまで優しくしてくれるのに、どうしてわたしが佐久芽大受けるって聞いて、あんなに馬鹿にしたの?」
きょとん、と銀之介の目が呆けた様子で瞬いた。
「俺は君を馬鹿にした事など、ないつもりだが」
「嘘。だってすっごい見下した目で、『本気か?』って言って……だからわたし、銀之介さんにずっと嫌われてるって思ってて……」
「そんな訳ない!」
初めて聞く彼の大声に、今度は鈴緒がギョッとする番だった。
座席の上で尻込みした彼女に気付き、銀之介は額に手を当ててうなだれる。
「すまない……急に怒鳴って」
「あ、ううん……」
「君を嫌った事も、馬鹿にした事も、当然見下した事も誓ってない。ずっと尊敬しているし、むしろ心配なんだ」
「あのさ……わたしのこと、心配し過ぎじゃない?」
それはそれで鈴緒を、あんよも不慣れな赤ん坊扱いで軽んじているのではなかろうか。
鈴緒がじっとり半眼で見据えると、銀之介の肩がますます丸まって落ち込む。
「本当にすまない。要らぬお節介だと、重々承知している。だが、妖精のように可憐な君が巫女と受験勉強のストレスで倒れやしないかと、あの時は本当に不安だったんだ」
「はいッ?」
その発想はなかった。なにせ自分の外見への評価など、よくて「可愛い」であり、概ね「乳がエロい」一択である。たまに「ケツもエロい」「足もエロい」とも言われるが。
間違っても「妖精」や「可憐」だなんて言われないし、言われるようなビジュアルでも精神性でもない。
初めて向けられる賛辞に、鈴緒の顔はみるみるうちに赤くなった。耳まで真っ赤だ。
「ぎっ、銀之介さん、眼鏡の度合ってないでしょっ? それか脳の病気だって! 病院行きなよ!」
「そんな事はない。運転に支障がない視力は維持しているし、健康診断で引っ掛かった事もない。君が天使のように愛らしいのも事実だ」
「てぁっ!?」
「ああ。だから今でも、君と目が合うだけで緊張してしまう。お陰で普段以上に不愛想になるんだ。本当にすまない」
しこたま飲んだためか、銀之介の理性もお口もガバガバである。そして引きずられるようにして、鈴緒の冷静さも瓦解した。
鈴緒は赤い顔のままブルブルと全身を震わせて、叫んだ。
「そっ、そんなっ、ほ、褒めても……わたし、銀之介さんと結婚とか、考えられないから!」
「……何故、突然結婚が出て来るんだ?」
あまりの突拍子のなさに、うなだれて鈴緒を褒め殺していた銀之介が訝しげに顔を上げる。酔いも吹っ飛んだかのような冷徹な視線に、うぐぅと鈴緒はうなった。つい顔もそらす。
「別に、ちょっと、思いついただけ……」
「その様子では、思い付きを口にしただけではなさそうだが」
正気を取り戻した彼は目ざとい。鈴緒の下手な嘘も、すぐに看破する。
そして彼は、勘もよかった。
数秒ほど目を細めて鈴緒を見据えたかと思うと、何かを発見したかのように片方の眉を持ち上げる。
「ひょっとして、なのだが。君がこの前倒れた時に、俺との結婚生活を視たのか?」
「ぐっ」
「あの日以来、家の中で挙動不審だったのも、それならば納得が行く」
「ぐぅぅっ」
そうじゃない、と言いたかったが――言えないのだ。
巫女が先見の内容を偽ることは、ご法度なのだ。曰く、土地神の制裁によって穴という穴から血が出て来るらしい。制裁が過激すぎる。
タクシー内を血まみれにするわけにもいかないため、鈴緒は冷や汗混じりで黙りこくるしかなかった。
だがこの場合、沈黙は何よりも雄弁な肯定である。
黙って自分の膝を見つめたままの鈴緒を、銀之介も腕を組んで見つめる。ふむ、と彼は低くうなった。
「つまり君は、俺と結婚する未来を変えたいと思い、あれこれと画策した結果、挙動不審かつ奇妙な行動を取っていた訳だな」
奇妙とまで思われていたとは。
「……そうだけど、悪い?」
鈴緒がいっそ開き直って、みじめったらしく彼をにらむと。銀之介は静かに首を振った。
「いや。悪いとは思わない。さほど親しくもない人間と結婚する未来を知らされれば、誰だって動揺するだろう」
「えっ」
思いがけず鈴緒へ理解を示す言葉に、彼女の淡い青の瞳も光を取り戻した。
もしかして彼に打ち明けた方が、未来を変える一歩になるのでは――
「だがすまない。俺は未来を変えたくない」
と思ったのもつかの間。真顔であっさり革命への一歩をぶっ潰された。
鈴緒はたまらず憤慨する。
「どうしてよ!」
「君の事が好きだからだ。もちろん、一人の女性として」
以前に盗み聞きしていたとはいえ、不意打ちでの告白に鈴緒は息を飲む。
硬直した彼女の手を取り、銀之介はにっこりと微笑んだ。とんでもなくレアな、彼の笑顔である。
「なのでこれからは、君にも未来を受け入れてもらえるよう善処しよう」
そう宣戦布告すると、鈴緒の指に触れるか触れないかという控えめなキスをした。
「ひぁっ……」
たまらず、鈴緒は情けない悲鳴を上げた。しかし顔は真っ赤なままで、されるがままである。情けないかな、ウェーイ店長に髪を触られた時のような不快感はゼロだったのだ。
そして二人の応酬をこっそり見守っていた、タクシーの運転手のおじさんも。
不愛想眼鏡による突然の告白からの満面の笑顔に、内心ではわわと乙女心が開花していたのであった。