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21:メガネのガチ善処

 銀之介による「善処しよう」という衝撃発言と、指先にキスされるというお姫様体験により、鈴緒は結局まともに眠ることが出来なかった。


 浅い眠りでウトウトと悶々を反復横跳びした末、ふとヘッドボードの時計を見ると朝の五時半である。時間を確認した途端、途方もない疲労感を覚えた。

「全然、寝た気がしない……でも二度寝も無理……」

 ベッドに横になっていることが、むしろ苦痛になっていた。鈴緒は頭を振り、パジャマの上に愛用のカーディガンを羽織って部屋を出た。諦めてさっさと顔を洗い、先見も済ませよう。


 が、一階に降りたところで洗面所から出て来た銀之介と鉢合わせてしまい、思わず立ち止まる。寒さも本格化しているというのに半袖Tシャツ姿の銀之介も、ほんの少しだけ目を見開いた。


「あっ、えっ……」

 鈴緒は無意味な言葉をつぶやきながら、カーディガンの裾を握ったり視線をさ迷わせたりと、露骨に焦った。

 一方の銀之介は洗顔のために外していた眼鏡をかけ直し、無表情に鈴緒を見下ろす。

「おはよう、鈴緒ちゃん」

「あっ、お、おはよぅ……」

 そしていつも通りの平坦な声で挨拶され、鈴緒は拍子抜けしたように体を傾けた。おずおずと、彼を見上げる。


「あの、朝……早いね?」

「ああ。晴れていれば走り込みと、庭で素振りをしているんだが」

「素振り?」

 鈴緒は思わず聞き返した。まさか他人の庭で、早朝からそんなことをしていたとは。

「学生時代、ずっと剣道をしていた。その頃の癖で、しないと落ち着かない」

「そっか。今日は、もう終わったの?」

「いや、それが雨が酷くてな」

 銀之介がわずかに眉を寄せ、廊下の反対側へ視線を向ける。おそらくそこにある窓から見た光景を、思い出しているのだろう。


 たしかに二人で黙りこくると、かすかに雨粒が屋根や壁を打ち付ける音が聞こえた。鈴緒も外の音に意識を傾ける。そういえば、自室のカーテンを開け忘れていたか、とも遅れて気付く。


 次いで彼女は、細い肩をすくめた。

「雨じゃ仕方ないね」

「ああ。代わりにストレッチと筋トレを済ませた」

「ストイック過ぎない?」

 こんな男が、怠惰の化身のような兄と十年以上の親交を持っていることが今も謎である。弱みでも握られているのだろうか。


 とはいえ昨夜のことを蒸し返されることもなく、鈴緒は小さくホッと息を吐いた。酔った勢いでの告白であり、銀之介もなかったことにしたいのかもしれない。

(……それはそれで、ちょっと腹立つけど)


 安眠を返してくれと思わなくもないが、鈴緒も洗面所に向かうべく、銀之介の隣を通り抜けようとした時に

「朝は、車で大学まで送ろう」

突然、そんな申し出を受けた。しかも提案ではなく決定事項を通達するような口調である。

 再度足を止めた鈴緒は、慌てて大きく首を振った。


「いっ、いいよ! 別に!」

「どうせ行き先は同じだろ。それに今日は土砂降りだ」

「大丈夫だって、今までずっと歩いてるから。それぐらい平気」

「俺が平気ではない。好きな女性を寒空の雨の下、十五分も歩かせてたまるか」

「うぐっ……」

 昨夜の告白は、勢い任せでも何でもなかったようだ。むしろ善処することを宣言した途端、鈴緒を口説くことが日常に組み込まれてしまった気配すらある。


 しかし今まで厄介な男に好かれたことはあれど、恋人などいた経験のない鈴緒は、起き抜けに口説かれて大いに焦った。

 真っ赤な顔で壁にへばりついてうろたえる彼女へ、銀之介が身をかがめる。


(あっ、退路がない……これは、まさかの壁ドン!?)

 脳内パニックを起こす鈴緒であったが、幸いそれ以上二人の距離は近づかなかった。ただ目線を下げた銀之介は、じっと鈴緒の顔を見る。

「ひとまず朝食が出来るまで、もう一度寝ていた方が良い」

「……え? どうして?」

「目の下に隈がある」

 そう言って伸ばした腕で、鈴緒の赤く色づいた頬から目尻を一つ撫でた。


 壁ドン未遂からの不意打ち接触に、鈴緒の息が止まる。それでも怒ったり逃げる素振りはなく、ためらいがちに自分を見つめる彼女へ、銀之介がほんのりと口角を持ち上げた。

「朝食が出来たら、呼びに行く。それまで寝ていなさい」

「ひゃ、ひゃい……」

 そこはかとなく色気を孕んだ声と目に、鈴緒は情けない相槌しか返せなかった。彼女が素直に頷いたことを確認し、銀之介も一つ頷くと鈴緒から離れてキッチンへと向かう。


 彼の背中を見送る鈴緒は、壁に背を預けたままぽんやりと惚けていた。

 が、じわじわと、銀之介にすっかり言いくるめられた事実をぶり返してしまい、己の不甲斐なさに歯噛みする。

 その場にしゃがみ込んで頭を抱え、低くうなった。


 猛獣のような声を上げる鈴緒の真横に、いつの間にか部屋を抜け出していた緑郎が座った。そして小さな声で、妹に声をかける。

「ねえねえ、スズたま。銀之介、オススメだよ。稼ぎも職場も安定してるしさ、何より先見の仕事にも理解あるよー」

 音もなく間合いを詰められた鈴緒は、一度だけ背中を跳ねさせた。が、すぐに苛立たしげな目を兄へ向けた。


「……覗き見してたの?」

「うん。心の中で『抱けー! 抱けー!』って連呼しながら応援してたよー」

 それが妹と友人に向ける声援でいいのか。


 鈴緒は風邪をこじらせて寝込もうとも、一ミリもぶれない兄にげんなりと首を振る。

「もっとさ、モラル持とうよ。というか、起きてていいの?」

「ううん、起きてるとやっぱしんどい。でも寝すぎて背中痛くなって、寝てるのもしんどくてさ」

 緑郎が珍しく儚げに微笑んだ。


 ずっと寝ているため、背中や腰が痛くなる――体調不良時によくある二次災害だ。鈴緒も中学校時代、自分がインフルエンザに罹患した時に「寝ても起きても辛い」と、最終的にヨガの「ラクダのポーズ」になって母をビビらせたことを思い出した。あの時は、当人も必死だったのだ。


 そのため兄に共感を覚え、柔らかく笑う。

「うん、分かる。寝過ぎると逆に疲れて――ねえ、ちょっと待ちなさい」

 が、弱々しい笑みの緑郎が、後ろ手に何かを隠し持っていることに途中で気づいた。サッと回り込み、背中に回されていた彼の腕を掴む。

 緑郎が隠しているものは、コーラのペットボトルだった。それも一リットルサイズだ。


「思い切ったサイズを持ち出したね、お兄ちゃん?」

「浴びるように飲みたくて……」

 コーラを没収した鈴緒が、心底蔑んだ目で兄を見る。緑郎も言われるでもなくその場で正座をし、しおらしい表情を作った。

 謝り慣れたその姿に、鈴緒は舌打ちを一つした。


「今すぐお口にメントス放り込んで、その後でたらふくコーラ飲ませてあげようか?」

「一昔前のYouTuberみたいな死に方、ヤダー!」

 ドスが効いた妹の声音から、これは本気だと悟ったらしい。緑郎は床にひれ伏して、そのまま鈴緒の腰に縋りついた。

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