鈴緒は全身をビクつかせてその場で飛び跳ねた後、両手を振りながら大慌てで牧音へと駆け寄る。
「違うの! 雨だから、乗せてもらったの! 銀之介さんの親切にね、甘えただけだから!」
「まだアタシ、なんも言ってないんだけど? 鈴緒、必死じゃん」
しかし先手を打ったことが、かえって悪手となったらしい。牧音が腰に手を当てて目を細める。
鈴緒は真っ赤な顔で焦り、つい傍らの銀之介を縋るように見上げてしまう。
しかしおおっぴらに、彼を巻き込みづらい。なにせ自分は、彼に「善処」されまくっている最中である。これ幸いと、あることないことを吹聴されたらどうしようという迷いもあった。
幸いにして銀之介は、無言で助けを求める鈴緒の意思をちゃんと汲み取ってくれた。無表情のまま牧音へ視線を移す。
「この子とお兄さんの厚意に甘えている現状なので、その恩返しも兼ねての送迎です。そもそも、行き先も同じですし」
「それもそっかぁ。居候って色々気ぃ遣うんですね」
意外にも牧音は、腰に当てていた左手を下ろしてあっさりと銀之介を労った。鈴緒があれだけ彼の愚痴をこぼしていたので、信憑性アリと判断してくれたようだ。
が、残念ながらそうではなかった。なにせ牧音は聡いし鋭い。
それに割と、いじめっ子気質でもある。
いっそ無邪気に、彼女は笑って小首を傾げた。
「にしちゃ鈴緒、傘も差してもらってさ、至れり尽くせりのお姫様待遇じゃん」
「え? あ――あああっ!」
一瞬ぽかんとなった鈴緒だったが、自分の傘は腕に引っ掛けたままだと気付き、次いで銀之介の傘にまだお邪魔しているという事実にもたどり着いた。
つまり先ほど、牧音目がけて走り出した時も彼は、無言でそれに追従してくれていたわけだ。
そこまで気付いて、鈴緒はギャアッと再度叫んだ。
銀之介は青ざめて叫ぶ彼女をしげしげと眺めた後、わずかに顔を反らして軽くむせた。笑いをごまかしているらしい。
鈴緒は自分の花柄の傘を広げながら憤慨した。
「笑ってないで、気付いてたなら言ってよ!」
「すまない。君はいつも一所懸命だな、と感心していた」
「嘘ばっかり! すっごく面白がってるじゃない!」
「どちらかと言うと、
「あらそう! 銀之介さんの好奇心を満たせて何よりですぅ!」
彼の指摘通り、一所懸命になって反論しながらも、鈴緒は途中で声を落とした。
「でも、あの……傘、ありがとう、ございます」
もにょもにょとしたお礼の言葉に、銀之介も軽く肩をすくめて返した。
「別に構わない。講義も、程々に頑張るように」
「ん」
鈴緒が心配性の彼の言葉にこくりと頷き返すと、銀之介は牧音にも会釈をしつつ、事務局へ向かって歩いて行った。
そして残された牧音が、鈴緒へにじり寄る。
「仲良しじゃん、アンタら」
「……違う。今のは、売り言葉に買い言葉だし」
苦しい言い訳に、牧音も若干呆れ顔だ。
「アレがほんとにガチの喧嘩だったら、世の中もっと平和なんじゃね?」
「ぐうっ」
うめく鈴緒の肩を、牧音は緩やかにポンと叩く。
「ま、嫌いな相手でも長く一緒にいれば、仲良くなるのが普通だしさ。ほら、単純接触効果とか言うじゃん?」
嫌悪感を抱いている場合、単純接触効果で嫌悪感が増すのではなかったか――鈴緒はそう指摘しかけて、即座に止めた。藪蛇である。
「うーん、そうだね……慣れてきたのはあるかも。無愛想なところとか、喋る時に一本調子のところとか」
代わりに無難に返すと、牧音は器用に傘を傾けつつ鈴緒の肩に顎を乗せた。
「そっかそっか。そんな人脈が広がった鈴緒に、お願いがあります」
「うん? なぁに?」
「職員さんの知り合いでさ、フリーのイケメンいたら紹介してよ」
「あ、最初からそれが目的ね……」
妙に銀之介を推して来るなと思っていたら、下心満点だったらしい。
猫なで声でおねだりする友人を眺め、
(土壇場でスパイに裏切られる悪の組織のボスって、こういう気持ちなんだろうな)
鈴緒はほろ苦さを覚えた。
しかしすぐ、妙案を思いつく。傘の向こうに広がる、土砂降りの空を見た。
「たしか銀之介さんの元同級生で一人、彼女欲しがってる人はいたと思う」
「おっ、イケメン?」
「たぶん。線が細い感じだけど」
「いいじゃん、モデル体型!」
「で、好きな食べ物はスナック菓子とコーラで、趣味はお散歩」
「うん? その人、小学生?」
「ううん、成人男性だって。それで職業はマンガ家」
「おい」
牧音も察したのか、声が低くなる。鈴緒も含み笑いで続けた。
「長所はいつも笑って陽気なところで、短所はずっとヘラヘラして不真面目なところかな」
「アンタの兄貴は要らんよ!」
「顔はまあまあいいよ? あと女の子にも甘いし」
「他が台無しなんだわ! アイツ二股かけてたコトもあったじゃん!」
緑郎の有り余る欠点並びに、それに伴うやらかしエピソードは、鈴緒と仲良しの牧音も当然知っている。
ぬか喜びに怒れる牧音を、共通教育棟の入り口で傘を畳んだ鈴緒がにっこり見上げる。
「違うよ、牧音ちゃん。二股じゃなくて、最大五股だったみたい」
「ギャルゲーの主人公か。え、アイツ刺されたりしなかった?」
幸い、刃傷沙汰“は”なかった。鈴緒は苦笑いになる。
「睡眠薬盛られたことはあって、それでもう懲りたんだって。だから今は綺麗なものです。いかが?」
「鈴緒のお兄さんと付き合うぐらいなら、マッチングアプリで適当に探――いや、やっぱ独り身でいい」
「ちぇっ」
日向家が誇る問題児の片付けに失敗し、鈴緒はわざとらしく舌打ちをする。ただ意趣返しは達成したので、次ににっこり笑った。
「それじゃあ大学時代のお友達とかでいい人いないか、訊いてみるね」
大学時代に限定したのは、高校時代だと有無を言わさず緑郎が絡んで来るためだ。そして兄と共通の友人の場合……あまり信用出来ない。
「助かるー」
牧音も屈託なく笑い、鈴緒に抱き着いた。
彼女とそんな平和なやり取りを交わしていたため、鈴緒は全く気付かなかった。
自分を食い入るように見つめる、遠くからの粘ついた視線に。