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26:報連相はお早めに

 牧音と倫子から示された事実を、鈴緒は何度も上の空で反芻はんすうしていた。

(わたし……銀之介さんに興味があったの? え、でも、お兄ちゃんのお友達だし、昔からお名前だけは聞いてたし。そりゃあちょっとは興味持つのが普通だよね……でも普通って……普通の定義って、一体何?)

 うっかり哲学または社会学の問題に片足を突っ込みかけたところで、上の空の彼女を観察していた銀之介が声をかける。


「鈴緒ちゃん、どうしたんだ? 具合が悪いのか?」

「ひゃっほぁ!」

 思わずまろび出た奇声に、銀之介は片眉を持ち上げる。

「具合が良いのか悪いのか、まるで分からん。本当にどうした」

「なんでもない! なんでもないから――近い!」

 顔を覗き込まれかけ、鈴緒はのけぞりながら銀之介の顔を押し返そうとしかける。が、自分がさっきまでジャガイモの皮むきをしていたことを思い出し、濡れた両手を慌てて引っ込める。


 二人は夕食であるカレー作りの真っ最中だった。風邪をこじらせた挙句、ウイルス性胃腸炎にまで感染した緑郎がようやく全快したため、彼のリクエストにお応えして牛すじカレーを作っているのだ。


 一度茹でこぼした、牛すじ肉の塊を流水で洗っていた銀之介は、背筋を使ってのけぞったままの鈴緒をしげしげと眺めて一歩下がった。両手も上げて、無害を主張する。

「分かった、無闇には近付かない。だが調理中に上の空は危ないだろ」

「あ……うん、ごめん」

 淡々と告げられる正論のお説教に、鈴緒はシュンとうなだれた。ごもっともなお叱りである。


 一方の銀之介も、背中を丸める鈴緒を見つめてぱちくりと瞬きした。

 今までであれば、絶対に鈴緒から二言・三言と反論があったのだ。まさか自分のお説教があっさり受け入れられるとは思っておらず、無表情に驚いていた。


「鈴緒ちゃん、やっぱりどこか悪いんじゃないか?」

「え?」

「俺に噛みつかないなんて、鈴緒ちゃんらしくもない。君は反骨精神の塊の筈だろ?」

「はんっ……?」

 どんぐり眼をかっぴらいてしばし固まった鈴緒は、たちまち笑顔になって銀之介の膝裏を素早く蹴った。大木でも相手にしているような蹴り心地である。


「体幹のブレが無い、良い蹴りだな。意外と元気もあるようで、何よりだ」

「だからなんでもないって言ってるでしょ!」

 こちらは自分の気持ちの所在と、ついでに社会通念である「普通」の有り様について思い悩んでいたというのに。

 抑揚のない声と無表情でからかわれ、鈴緒は憤慨した。


 蹴った勢いのまま、じろりとねめつける。

「銀之介さんって、性格悪いよね」

「ああ。俺もそう思う」

「自覚あるんだ……直そうよ」

 鈴緒がだいぶ心を開いてきたからか。銀之介は随所で幼稚さを披露するようになっていた。

 今も真顔でそこはかとなく得意げに言われ、鈴緒はたちまち呆れ顔で息を吐く。


(こんな変な人なんだから、やっぱり興味持つのが普通のような……普通の定義は、もう考えるの止めよう。きっと眠れなくなっちゃう)

 鈴緒が小さくかぶりを振って、ニンジンの皮むきを始めようとした時だった。キッチンと続きのダイニングから、置きっぱなしにしているスマートフォンの通知音が聞こえて来た。

 ひょっとすると緑郎からの、帰宅時間を告げるメッセージかもしれない。彼は現在、外出中だった。佐久芽市まで定期的に顔を出してくれる担当編集者と、外で打合せ中なのだ。


 スリッパをパタパタと鳴らしながら、鈴緒はダイニングのテーブルへと小走りで近付く。そこにある自分のスマートフォンを起動すると、予想通り緑郎からのメッセージが来ていた。すかさずメッセージも読む。

「――は?」

 そして低く地を這うような、殺意丸出しの一声を発した。牛すじ肉を一口大に切っていた銀之介が、わずかに背中をビクつかせた。そして彼にしては緩慢な動作で、恐る恐る鈴緒へと振り返る。


「鈴緒ちゃん? 何かあったのか?」

 その問いかけに答えず、鈴緒は据わった目でキッチンへ戻って来る。片手にはスマートフォンを握りしめたままだ。

 それを、銀之介に差し出した。彼はスマートフォンと鈴緒を交互に見る。


「俺が見ても良いのか?」

「むしろ見て」

 静かに怒れる声にためらいながらも、銀之介はスマートフォンを受け取って画面を見た。

「――は?」

 次いで鈴緒以上にドスが効いた声を発する。


〈担当さんと、ご飯食べに行くことになりましたー! スズたまも銀之介といっしょに、なんかおいしもん食べちゃってね☆〉


 上記が、緑郎からのメッセージである。

 神経を更に逆撫でるかのように、カートゥーン調のウサギがアヘ顔ダブルピースをしているスタンプ付きである。

「牛すじ肉と一緒に、圧力鍋にぶち込んでやろうか」

「いいね、やろう」

 銀之介の物騒な発想に、鈴緒も諸手を上げて賛同した。そして手を下ろす途中でエプロンを脱ぎ、素早く床に叩きつけた。


「外で食べて来る時は、早く教えてって言ってるでしょ!」

「同感だ」

 銀之介は自身のエプロンを投げ捨てこそしなかったものの、眉間に険しいしわを刻んで早々に畳む。


 彼はちらりと、背後の牛すじ肉やジャガイモを見た。

「このままカレーを食べるのも癪だな。こちらも外食するか」

 鈴緒は銀之介の提案に、顔を跳ね上げる。驚愕の目で彼を見上げた。

「こちらって……わたしと、銀之介さんとで?」

「そのつもりだが。君だけにカレーを食わせる筈がないだろ」


(二人でご飯って……デートになるんじゃないの?)

 突然の提案を受けて芽生えた疑問に、鈴緒は頬を赤くしてうろたえた。

「いっ、いいよ! お気遣いなく! カレー食べてるから! お肉ももったいないし!」

「冷蔵して、明日改めて使えば問題ないだろ」

「うぐっ」

 正論を返され、鈴緒は一度うめく。

 だが、断じてデートだけはするまい、と更に食い下がった。

「でもわたし、あんまりお金ないから……」

 これは半分本当だ。


 先見の巫女として、毎月の給与は支払われている。が、それは父によって、半強制的に全額貯金に回されていた。

 鈴緒名義の口座には、現状ちょっと引くレベルの金額が貯まっているものの、彼女が大学を卒業するまではお手つき厳禁なのだ。

 代わりに両親と緑郎から、年相応のお小遣いを貰っている。


 よって自由に使えるお金は、さほど多くない。友人と食事をする場合も、ファミレスやファストフードが殆どだが、そんなところに目の前の男は行きそうにない。


(なか卯なら、辛うじて行きそうだけど……)

 なか卯はありなのだろうか、と脱線しかけた思考で銀之介を仰ぎ見るが。

「学生の君に、金を出させる訳がないだろ」

 彼は表情も一切動かさぬまま、鈴緒の儚い抵抗を切り捨てた。そうだよね、と鈴緒は半ば落胆してうなだれる。

「銀之介さんの場合、常識があるからそう言う気はしてた」

「君の兄と同類扱いされなくて何よりだ」


 銀之介はこんな言葉で事の元凶である友人を切り捨てると、早々に牛すじ肉や野菜たちをタッパーに入れていく。

 もはや彼の中で外食は決定事項であるらしい。鈴緒は彼と二人でのお出かけには抵抗があるものの、後片付けぐらいは手伝おうかと鍋に手を伸ばす。しかし銀之介が手を差し入れ、やんわりと手伝いを拒んだ。


「鈴緒ちゃんは身支度を整えて来なさい」

 銀之介はそう言って、ゆるゆるの部屋着姿の鈴緒を部屋へ戻そうとするが、鈴緒は躊躇した。

「え、でもわたし、外食はやっぱり……」

「うん?」

 珍しい笑顔で訊き返された。たった二文字なのに圧が強い。


 しかし鈴緒も負けていない。わざとらしく顎をつんと突き出す。

「銀之介さんにおごってもらうのも悪いから、わたしはお家でご飯食べますっ」

「そうなのか? サーモンのバターソテーが人気メニューの店に、行くつもりだったんだが」

「うぐっ」

 彼の用意周到さに、思わずうめき声が出る。鈴緒はサーモン料理が大好きなのだ。


 怯んだ彼女へ、更なる追撃が繰り出された。

「ディナーセットはデザートも付くが、そこのブルーベリータルトも旨いぞ」

「ぐっ……どうしてわたしの好きなお料理、把握してるの!」

「緑郎から聞いた。ちなみにポケモンではルカリオが好きだという情報も提供されている」

「お兄ちゃんめ……」


 友人の牧音は、根掘り葉掘り訊いて来る串間へ「鈴緒の好きなおにぎりの具」程度しか開示しなかったというのに。まさか身内によって、推しポケモンまで開示されていたとは。


「俺はポケモンにあまり詳しくないが、王道かつ素直な趣味だな。良いと思う」

「もう、分かったから、ご飯付き合うから……」

 無表情にそうのたまう銀之介へ、鈴緒はふてくされつつ背中を丸める。この調子だと、好きな芸能人や初恋のアニメキャラまで開示されていそうで怖い。大人しく従うに限るだろう。


「それは有難い」

 銀之介はそう言って、口角だけ持ち上げた。しかし先ほどの圧の強い笑顔より、よほど嬉しそうである。

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