銀之介の車で連れられて来たのは、佐久芽駅の裏手にある小さな個人経営のレストランだった。
ヨーロッパの民家がモチーフになっているようで、店内にはステンドグラスをあしらったランプがあちこちにぶら下がり、白壁を淡い光で彩っていた。おまけに暖炉まである。
(もうちょっと、おしとやかなお洋服にした方がよかったかな……)
鈴緒は自分の着ている、ベルスリーブのミニワンピースをちろりと見た。袖や裾が花飾りで縁取られたお気に入りの服なのだが、いかんせん露出度が高く、絵本のような店内には少々不似合いである。もっとも、鈴緒のボンキュッボンな体型に似合う服を選んでいくと、どうしても露出度は上がってしまうのが非情な現実である。
一方、彼女と丸テーブルを挟んで座る銀之介は、簡素な白いニットにデニムという無印良品の広告のような出で立ちだ。
ならば自分が色物でもバランスが取れるか、と鈴緒も思い直すことにした。
というよりも彼女は、店内の内装にキュンキュンしたり、気後れをしている場合ではなかった。
店の名前がマンマパッパという――いつかのどスケベ先見で、未来の自分が口にしていた店名と同じだったのだ。
(未来のわたしが食べたがってたぐらいだし、本当にサーモンのソテーが人気なんだね……うん、楽しみだねぇ……)
しばし現実逃避で、そんなことを考えてしまう。
鈴緒は半ば諦めの境地に至りつつ、目の前の銀之介を見た。
「このお店、銀之介さんのお気に入りなの?」
二人の間に置いたメニューに視線を落としていた銀之介は、顔を上げて目をぱちくりさせる。
「ああ、定期的に来ているが。よくお気に入りだと分かったな」
「うん……なんとなく。お店、お洒落だし」
「そうだな。勿論、味もお勧めだ」
コットンのエプロンドレスを身に着けた女性店員に注文を伝えた後、しばし沈黙が流れた。
元々銀之介は口数が少ない。鈴緒が黙りこくれば、会話が途切れることは常だ。
彼に一方的な敵対心を持っていた頃なら気にも留めなかったその沈黙が、今はなんとも落ち着かない。
だからつい、鈴緒は尋ねてしまった。
「……ねえ、どうしてわたしを連れてきて、くれたの?」
「ん? それは味が良いからだが――」
「そうじゃなくて。お気に入りのお店なんだよね? そんなところに、どうしてわたしを連れてきてくれるの? わたしずっと、あなたに酷い態度取ってたよね?」
そんな自分をどうしてずっと好きでいてくれるのか――までは、さすがに訊けなかった。
窺うような鈴緒の瞳を、銀之介はじっと見据える。
「確かに。目が合うだけで威嚇されていたな」
つい最近までの鈴緒の野良猫っぷりを思い出したのか、彼の口元が緩む。無表情がほどけた彼は、どこか楽しそうですらあった。
「実のところ自分の愛想の無さで、君を傷付けたという自覚はあった。だからむしろ、威嚇される度に申し訳なさを覚えていた」
「……それは、ちゃんと尋ねなかった、わたしも悪いし……」
「ならば釈明しなかった俺にも非がある。それに――学内で君を見かけて、疲れた表情をしている時の方が辛かった」
そう言う銀之介の顔の方が、暗いし怖い。亡者に逃げられた獄卒のようだ。
心配性すぎないか、と鈴緒は幼い顔をしかめる。
「わたし、そこまで疲れ切ってなかったけど。体力も結構あるし」
「自慢じゃないが、俺は君に一目惚れしたんだ。君に対する観察力だけは優れていると断言できる」
自慢じゃないと前置きをして、ここまで自慢出来ない内容なのも逆に珍しいだろう。
言われた鈴緒は顔と言わず、耳や胸元まで真っ赤になった。
「ぐぅっ……こっ恥ずかしいからやめて。フリじゃなくて本気で」
「そうか、残念だ」
言葉に反して、相変わらず温度のない声と表情である。鈴緒はふうと脱力した。
「銀之介さんって、やっぱりお兄ちゃんの友達だよね。いつもは常識人っぽく装ってるけど、だいぶ風変わり。変な人」
「それは実に残念だ……」
今度は遺憾という単語がピッタリの声である。緑郎と同類扱いされるのは癪らしい。
鈴緒は眼前で打ちひしがれる銀之介の姿に、つい噴き出す。次いでこてん、と首を傾げた。
「お兄ちゃんと、どうやって仲良くなったの? 高校が一緒だったんだよね」
「ああ。一年の時からクラスが一緒だった」
高校入学と同時に他県から越して来た銀之介は、周囲に知り合いが全くいなかった。社交性の低い自分が、ハブられることなくクラスに馴染めるだろうか――珍しくもそんな不安を抱いている時に、顔は綺麗だが表情に締まりのない男子生徒に突然話しかけられたらしい。
「ねえねえ。おはぎとぼた餅、どっちが好き?」
それが緑郎との出会いであった。
脈絡のなさすぎる初遭遇に、鈴緒は自分で話題を振っておきながら頭を抱えた。
「なんで初対面でそんなことを……あ、おはぎ食べてたの?」
銀之介は静かに首を振った。
「入学式の最中に、おはぎを食う度胸は無いな」
「式の最中にわざわざ訊いてきたの!?」
なお当時の銀之介が
「どっちも同じじゃないのか?」
と小声で問い返したところ、
「あ、そっかー。ちなみにおれは、たい焼き派ね!」
まさかの第三勢力を主張して来たという。それも朗々としたクソデカボイスで。当然、二人は教師から叱られる羽目となった。銀之介が、あまりにもとばっちり過ぎる。
しかしこの人災としか形容しようがない出会いで、十年以上も友情が続いている事実こそが、最たる謎なのかもしれない。
ともあれ人災の妹である鈴緒は深々と頭を下げた。
「その節はクソ兄がご迷惑をおかけしまして……」
「これぐらい序の口だ。別に構わない」
「……怖いこと言わないでよ……」
高校時代、一体緑郎はどれだけの災厄を振りまいていたのだろうか――さすがに今聞くと、ご飯の味が分からなくなりそうなので控えた。
鈴緒は代わりにおずおずと、銀之介に提案する。
「あのさ……本気で迷惑なことされたら、言ってね? わたしからもお兄ちゃん、締めるしさ」
この言葉に、銀之介はしばしキョトンと目を瞬いた。ややあって、喉を鳴らして抑え気味に笑う。
「君はいつも、あいつの心配をしているんだな。初めて会った時も、同じような事を言われた」
今度は鈴緒が目をぱちくりさせる番だった。
「えっ、そうだっけ? だってお兄ちゃん、本当にはた迷惑だから」
たしかに言われてみれば、あらゆるところで兄の迷惑を案じている気はする。
(なんかもう、わたしの方が年上のような……それかお母さん?)
産んだ覚えのない乳飲み子どころか酒飲み男を抱えている事実に、なんだかやるせない気持ちになった。鈴緒は腕を組んで唸る。
銀之介はテーブルに頬杖を突いて、うんうんと苦悩する鈴緒を静かに眺めていた。やがてぽつりと呟く。
「緑郎が傍迷惑なのは事実だが、正直妬けるな」
「はい? ……え、なんでそうなるのっ?」
思いがけぬ言葉に、鈴緒は一度ポカンとなってその意味を理解した後、じわじわと頬を赤らめた。
「お待たせいたしましたー」
鈴緒が何か反論しようと口を開くが、その前にニコニコ――いや、ニヤニヤ笑いの店員がスープの載ったトレイ片手に現れた。
「こちらセットの、カブのポタージュになりまーす」
店員は赤い顔でもじもじする鈴緒へ生温かい視線を注ぎながら、二人の前にスープを配膳してニヤニヤと去って行った。いいものを見たなぁ、とその背中が語っている。
しかしうつむきがちの鈴緒は店員のぬるい笑みにも気付かず、背中を丸めたまま
「お兄ちゃんにヤキモチ焼くとか……馬鹿じゃないの?」
上目遣いに銀之介を睨み、いじらしい反抗を試みた。羞恥心のためか、目がほんのり潤んでいる。
そして銀之介もそんな彼女を真顔で見つめ、いいものを見たな……と密かに満足感を覚えるのであった。