その晩、鈴緒は奇妙な夢を見た。
夢の中の彼女は、真っ白な空間に立っていた。
白い空間の四方には、何故か色とりどりの花が大量に飾られている。そして空間の中央には、簡素な造りの棺が置かれていた。
そんな花々に囲まれた棺の前で、うずくまって泣きじゃくる誰かがいた。
鈴緒はその人物の広い背を、ずっと撫でている。泣きじゃくる人物が誰なのかは、視界にもやがかかっているため分からない。ただ自分よりも随分と背が高く、そして酷く悲しんでいることだけは分かっていた。
「ごめんね、ごめんね……」
鈴緒はただただ謝罪の言葉を繰り返しながら、誰かの背中をさすり続けている。
この人を悲しませたいわけじゃなかったのに――そんな後悔も、胸の中に渦巻いている。
だが、やがて彼女の指先が色を失って、透明になり始めた。しかし夢の中の鈴緒はそのことに驚かず、ただ諦めるように息を吐くだけだった。
指だけでなく体全体から色が失われていき、やがて彼女の存在そのものが空気に溶けだした。
「……ごめんね。もうお別れだね」
鈴緒の最後の言葉も、声にならずに大気と混ざり合い――そして儚く消え失せた。
目覚ましのアラーム音で目が覚めた時、鈴緒は自分が号泣していることに仰天した。
仰向けになったまま泣いていたので、顔も髪も枕も酷い有様だ。
「あーあーあーあー……」
夢の中の比じゃないやるせなさに打ちひしがれ、ティッシュで顔を拭ってから枕カバーを外す。ヨダレを垂れ流した跡にも見えて、なんともみっともない。
丸めたティッシュをゴミ箱に放り込み、鈴緒は首を傾げた。先ほどの奇妙で物悲しい夢は、何だったのだろうかと。
どこか先見に似た感覚もあったが、それにしては場所も人も曖昧で、ふわふわした手触りの映像だった。
鈴緒は渋い顔で、一つの仮説を打ち立てる。
「……今更、パパとママが恋しくなったのかな?」
それとも、最近色々と情緒面で慌ただしかったため、精神的な疲れが出ているのかもしれない。無意識に心の拠り所を求めるあまり、罪悪感や孤独感を持て余す夢を見た――あり得そうな話ではないか。
鈴緒は意味不明だが切ない夢の名残により、人恋しい気持ちを抱えて部屋を出た。
しかし部屋を出てすぐ、そんなメランコリックな感傷が跡形もなく吹き飛んだ。
「おえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……ォウボェェッ!」
住人が四人から二人に減って以来、滅多に使われなくなっていた二階のトイレから、誰かの嘔吐する大変ばっちぃ声が断続的に聞こえて来るのだ。寝起きには聞きたくないBGMだ。
恐らく昨夜、いつまで経っても帰ってこなかった緑郎が演奏者であろう。
鈴緒が蔑んだ目をトイレのドアに向けていると、
「ごめんなさい、ごめんなさい、お酒の神さま、マジごめんなさい……」
情けない謝罪の声も聞こえて来た。
(あ、さっきの夢の原因、たぶんこれだ)
鈴緒は即座に察した。哀れっぽい兄の声と日頃の疲れが合わさり、夢見が悪くなったに違いない。
「お酒の神様より先に、トイレの神様に謝った方がいいと思うけど」
小声で所感を呟き、鈴緒は階下へと向かった。
そして一階でトイレを済ませ、洗面所で顔も洗う。ミラーキャビネットの裏にある化粧水や乳液で、保湿もしっかり行った。
その間、キッチンの方角から届くかすかな物音を耳にしていた。銀之介が朝ごはんを調理中なのだろう。
鈴緒はふと、彼のことが気になり始めた。普段は身支度を整え、先見を終えてダイニングに向かうまで顔を合わせることはない。
ただ今は人恋しさが心の中で燻っており、もう一人の同居人は階上で絶賛マーライオン中である。鈴緒は殆ど無意識に、自室ではなくキッチンへと方向転換した。
だがキッチンへ向かう途中、通りがかった勝手口で見慣れぬものが視界に入り込む。思わず彼女の足も止まった。鈴緒ははて、と首を傾げる。
「何これ。棍棒?」
勝手口の壁に、棍棒としか形容出来ない頑丈そうな木の棒が立てかけられていたのだ。灰青色の目をまん丸にして、鈴緒は謎の棒をしげしげと観察する。
黒光りする表面はつるりとしており、丁寧に磨かれているようだ。
酔っぱらった緑郎が、どこかの居酒屋にあったインテリアの類を無断で持ち帰ったのだろうか。
鈴緒の脳内で、泥酔した緑郎がウッキウキで棍棒を抱えてお持ち帰りする姿が再生された。
何なのだろう。
そんな光景を見たことはないのに「あいつならやりかねない」と思わずにはいられない、この謎の信頼感は。
「……お兄ちゃんって、バカな犬っぽいしね。年中ヘラヘラしてて、ジョンって名前のバカ犬っぽいかも」
無礼千万なことを呟いた鈴緒の耳に、小走りの足音が聞こえた。音の方へ顔を向けると、エプロン姿の銀之介がこちらへ駆け寄って来る。
彼と目が合った途端、鈴緒は自分が抱いていた「銀之介に会いたい」という甘えん坊将軍な欲求を自覚してしまった。
昨夜の二人きりで摂ったほの甘い夕食の名残も手伝い、たちまち顔が真っ赤になりかける。
が、そんな照れくささも彼が
「おはよう、鈴緒ちゃん――やっぱりここに置き忘れていたか」
鈴緒への挨拶ついでに棍棒を慣れた様子で持ち上げたため、幸いにして霧散する。
彼は顔が怖いので、棍棒を担いだ姿が実に様になっている。