「おはよう。それ、銀之介さんの棍棒だったんだ……」
鈴緒は「正に『鬼に金棒』だね」という言葉を、どうにかギリギリで飲み込むことに成功した。が、口元が微妙に震えているため、笑いまではごまかしきれなかった。
銀之介は絶妙にむずがゆい顔で堪えている彼女へ、一瞬だけ訝しげな視線を向けた。
しかしすぐに無表情に戻って、自分が握る棍棒を見下ろす。
「これは棍棒ではなく、木刀だ」
「え。こんな厳めしいのに木刀なの?」
「素振り用だからな。重さを出すために太くなっている」
刀身が八角になった、どう見ても棍棒またはバットにしか見えない木刀を見上げ、鈴緒は間抜けな声を出す。
「はぁ、ストイックだね……ひょっとしてこれ、焼けたお家から持ち出したの?」
だとしたら、少々シュールである。他に持ち出すべきものがあるだろうに。たとえば思い出の卒業アルバムとか。
しかし鈴緒の疑念あるいは期待を裏切らず、銀之介は無表情に胸を反らした。
「ああ。学生時代からの愛用の品だ」
「うん……そっかぁ」
予想通りの回答だったため、鈴緒は半笑いで頷いた。
しかし銀之介は微妙な笑みを気にした様子もなく、愛用の木刀をぐっと握り直している。
「ここなら壁にぶつける事もなく、庭で存分に振り回せるから助かっている」
居候先の庭で、振り回していい得物ではないだろう。主に絵面方面で。
ご近所さんに見られているのだろうか、そしてどう思われているのだろうか、と鈴緒は腕を組んで身体全体で思い悩む。
「運動は大事だけど、やり過ぎてお隣さんに通報され――うん、待って?」
鈴緒はやんわり釘を刺そうとして、途中で聞き逃せない言葉に気付く。右手を突き出し、ボディランゲージでも待ったを表現した。
「ひょっとして、壁にぶつけたことがあるの?」
鈴緒の疑惑の視線に晒され、銀之介は一度そっぽを向く。
(この人、絶対やらかしてる)
鈴緒は無言の内に確信した。
なおも彼を睨み続けていると、やがて観念したように鈴緒へと向き直った。
「ああ、うん……以前の家で、思い切り壁に穴を開けていた」
「開けていた!?」
思った以上にやらかしていたため、鈴緒は素っ頓狂な声でオウム返しをしてしまった。
一度ゲロったことで開き直れたのか、その後は銀之介も淡白に答え続ける。
「お陰で退去時に敷金が戻って来ないどころか修繕費を請求されるだろうと戦々恐々だったのだが、今回の火事で有耶無耶になりホッとしました」
だが敬語の語尾に、良心の
「さっ、詐欺だ!」
鈴緒が思わず叫ぶ。しかしちゃっかり己の罪をなかったことにした銀之介は、淡々かつ
軽く肩をすくめ、木刀を持っていない方の手で鈴緒の唇にそっと触れる。
「んんっ?」
戸惑いまくった裏声を上げ、鈴緒は固まった。銀之介の指先は皮膚が固く、そして少しかさついていた。固まる彼女の口を封じつつ、銀之介が身をかがめる。
「そういった経緯があるので、この事はどうか内密に頼む」
「ひぁっ……」
間近で見つめられつつ小声でそう言われ、鈴緒は情けない悲鳴を上げながら首を縦に動かすことしかできなかった。完全に彼のペースに飲まれている。
赤い顔で身体がギクシャクしている鈴緒に対し、銀之介は真顔で背筋を伸ばすと軽く首をひねった。
「そういえば鈴緒ちゃんは、勝手口で何をしていたんだ? パジャマのまま祠に行くのは、あまり感心できないが」
「あ、えと……」
まさかあなたに会おうと思って、とは言えるはずもなく。鈴緒はへどもどと視線を左右に揺らした末に
「……ちょっと、台所に寄ろうかなって……えっと、喉乾いたかもって思ったの」
銀之介の朝っぱらからの口説き攻撃による疲弊で、現状喉がカラッカラではある。嘘ではない。
「そうか。呼び止めてすまなかった」
「ううん」
素直に謝罪をしてくれる銀之介へ、鈴緒はかすかに罪悪感を覚えつつ首と手を振った。
そして台所でグラス一杯の水を飲み、自室に戻って着替えと化粧を済ませる。
鈴緒はカラフルなボーダー柄のリブニットとスエードのショートパンツに着替え、上からお気に入りのオレンジ色のコートを羽織った。
そして普段よりもどことなく浮ついた足取りで、祠へと向かう。もちろん土地神へのお供えも忘れない。今日はチョコレートがたっぷりかかったドーナツである。
御神体の鏡の前にドーナツをお供えし、いつの間にかすっかり覚えていた祈りの言葉を
するといつも通り、岩肌むき出しの洞窟内が幻の劇場へと変わった。
舞台で描かれているのは、どこかの遊歩道のようである。タイルが敷かれ、道の両脇には木々が植えられていた。冬のため何も咲いていないものの、花壇らしき囲いもあった。
見覚えはあるのに場所が特定出来ず、鈴緒は首を傾げた。
その時、舞台の袖から突き飛ばされるようにして、誰かが中央へと躍り出た。
年若い女性らしきその人物は、血まみれで両膝を地面に付けて背中を丸めている。か細い呼吸音と、弱々しいうめき声も聞こえて来る。
傷害事件もしくは、まもなく殺人事件に変わってしまうのだろうか。鈴緒が椅子の上で身を乗り出し、次いで体を傾け、女性が誰なのか見極めようと苦心する。
鈴緒へ背中を向けていた女性が、ややあって上半身も地面へ突っ伏した。
その時にこちらへ顔を向けたので、鈴緒は目を凝らし――喉の奥から短い悲鳴をこぼした。
お気に入りのコートも真っ赤な血に染まった女性は、紛れもなく自分だったのだ。