お手軽ロイヤル気分で鈴緒が運搬され、自宅前まで戻って来たところで、表玄関から飛び出して来る緑郎の姿を見つけた。片手には洗面器を持っているので、まだマーライオンの呪いは解けていないらしい。一切同情に値しないが。
普段は観察力や洞察力がもうろくしきっている緑郎だったが、今朝の彼は意外にも目聡かった。二日酔いで頭痛と吐き気に見舞われ続けている極限状態のため、かえって知覚情報の取捨選択が上手くなっているのかもしれない。
その結果、悲鳴を上げていた鈴緒が泣きはらした目をしていることと、彼女の両膝が汚れていることにたちまち気付き、
「銀之介……まさか、祠で鈴緒を襲ったの? え、さすがに罰当たり過ぎない? そういうことは、家ん中でしてくれないかな?」
斜め上の解釈を打ち立てた。推理力は平時と変わらないようだ。
銀之介の眉毛が片方だけ持ち上がる。
「する訳が無いだろ。お前じゃあるまいし」
吐き捨てるように言われた彼の言葉に、鈴緒は妹という立場上
「お兄ちゃんも、さすがに祠ではしないよ」
と言うべきなのだろうが――嘘が不慣れな巫女である以上、微塵も思っていないことは言えなかった。
彼女はモニョモニョと口をまごつかせたものの、途中で諦めて
「最近はお兄ちゃんも、女性関係が落ち着いて来たから――臭ぁい!」
やんわりフォローに回ろうとしたのだが、緑郎を風上にして一陣の空っ風が吹いた。同時にとんでもなく強烈なニンニク臭に見舞われ、フォロー云々どころでなくなる。
銀之介も同じく激臭に見舞われたらしく、眉間と高い鼻に思い切り皺を寄せてむせていた。それでも鈴緒に唾が飛ばぬよう、思い切りそっぽを向いている辺り人が好い。
「……ニンニク臭が酷すぎる。お前、全身に塗り込んだのか?」
「それとも……キムチの壺にでも、頭から突っ込んじゃったの?」
この男ならやりかねない、という二人の疑惑の目にさらされながら、緑郎は呑気に笑う。
「まさかー、そんなもったいないことしないよー。担当さんと行った飲み屋さんにあった、ニンニクのホイル焼きがもう美味しくてさ! だって炭火で焼いてるんだよ、炭火で! 二人でついつい、いっぱい食べちゃったんだー」
そう
彼にされるがままの鈴緒も、小さな鼻を手で押さえつつ、ふと考える。
緑郎の担当編集者も、彼と似たり寄ったりの悪臭発生機になっている可能性を。そしてそんな男が今も、どこかを歩いていることを。
鈴緒は自身の無惨な死への恐怖が軽く上塗りされるような、無差別テロへの恐怖にゾワリと鳥肌を立てた。
今どこかで起きている事件に思いを馳せる妹へ、緑郎が洗面器を両手でもてあそびつつ声をかける。
「ってか鈴緒は、なんで銀之介に抱っこされてるの? 襲われたんじゃないなら、なんで悲鳴上げてたの?」
「えっと――」
自分が殺される未来について、冷静さを取り戻した頭で思い返すのは、なんとも胃が痛くなる作業だった。思わず彼女の小さな体が震える。
しかし鈴緒の怯えを察した銀之介が、彼女の体を抱え直して力強くこう言った。
「大丈夫だ、絶対に助ける」
「……うん」
なんの根拠も保証もない口約束だというのに、彼が言うと本当に救われるような気がした。鈴緒は彼にコクリと頷き返し、次いで緑郎に先見のことを伝える。
「先見で、自分が殺される未来が視えたの……血まみれで、近くにナイフも落ちてたから、誰かに刺されて殺されるんだと……思う」
妹の言葉に、緑郎は絶句した。思わず頼みの綱である洗面器も取り落とす。砂利道に落ちたプラスチック製の洗面器が、ガシャンと不快な音を立てた。
慌てて洗面器を拾い上げ、緑郎は一つ深呼吸。
「そっか――うん、でも、大丈夫……たしか、過去にも、自分が殺される先見をして、ちゃんと回避できた巫女がいたはずだから」
かすかに声を震わせながらも、精一杯の笑顔で「大丈夫だ」と応じた。
妹と友人だけでなく、自分にも言い聞かせるようにして続ける。
「それに土地神様が、鈴緒に見せたってことは、未来を変えなさいよって言ってるワケだからさー。ほらきっと今まで通り、みんなで動けばきっと大丈夫! うん!」
最後にはいつもと変わらぬ、能天気で明るい笑顔になっていた。ゆるゆるな笑顔が、今はなんだか頼もしい。
だが、それはそれとして。
鈴緒にはどうしても訊かねばならぬことがあった。
割と良いことを言いながらもニンニク臭をばらまく兄へ、再び不審の目を向ける。
「ところでお兄ちゃん……お家まで、どうやって帰って来たの?」
もしもタクシーを利用していたのなら、運転手ならびにタクシー会社へ詫びを入れるべきだろう。比較的害が少ないであろう徒歩での帰宅を願って尋ねるも、事の深刻さを自覚していないニンニクの化身は呑気なままだ。
「そりゃもちろん電車だよー。始発って空いてるんだね、ガラガラだったよー」
銀之介の眉間の渓谷が、険しさを増した。
「それはお前を避けて、別の車両に移っただけじゃないのか?」
「だよね……お客さんと運転手さんが不憫すぎる……」
謝罪を入れるべきは、鉄道会社であったらしい。鈴緒は小さく嘆息した。
街を見守るべき巫女の一族が、街に臭害テロを行っては駄目だろう。
(お兄ちゃんが使った駅に、菓子折り持って行かないと……そろそろお歳暮シーズンだし、他とあまり被らないものの方がいいよね……それでいて手軽に食べられる……お煎餅とかかなぁ)