緑郎が言うところの「鈴緒のセコム」である銀之介だが、生憎彼は自分の職務にも真面目である。
そのため大学に着けば、しばらくの間鈴緒のセコム役は交代するのだ――肩にバットを担いだ、仁王立ちの牧音へと。木枯らしが一陣吹き、一つに束ねた彼女の黒い髪とピーコートをはためかせた。それすらも、実に雄々しい。
ちなみに彼女が担いでいるのは正真正銘のバットであり、ミズノのロゴが入っている。また初めて仁王立ち牧音 with バットを目撃した日に、銀之介がポツリと
「
と呟いたことは、鈴緒一人の胸に留めている。さすがに牧音といえども、多少は傷付きそうな感想である。
なお、滝ノ上とは牧音の苗字だ。
鈴緒は銀之介のアドバイス通り、いつも連れ立っている牧音と倫子には先見のことを伝えた。そのうえで彼のアドバイスを破り「怖いだろうから、しばらく距離を取ろう」とも提案したものの
「なら鈴緒のお兄さんと職員さんが近くにいない時は、アタシらが守ってやらぁ!」
「そうそう! 返り討ちにしてやろうよ」
むしろ燃えられた。鈴緒の周囲は、何かと血の気の多い人種で構成されているらしい。あるいは皆、ストレス過多社会に病んでいるのだろうか。
鈴緒は今日も、インテリヤクザな銀之介からどこぞの武将のような立ち姿の牧音へと譲り渡されて講義へと向かう。
「鈴緒ちゃん。何かあればすぐに連絡するように」
「うん、分かってるよ」
「スマホと防犯ブザーは?」
「スマホはリュックにちゃんと入ってるし、充電済み。防犯ブザーはコートに入れてるから。大丈夫だよ」
「そうか。だが――」
「一人にならないように、でしょ。それも分かってるって」
そして別れ際、銀之介からこう言い聞かされるのも既に日課である。彼の心配性ぶりに、鈴緒も毎日苦笑いだ。
その後、鈴緒は何度もこちらを振り返りながら職場に向かう銀之介を、手を振って見送る。ちなみにこの間、牧音は基本的に無言で二人のやり取りを見守っていた。
否、ニヤニヤと観戦中なのだ。
鈴緒は視界の隅にずっと映っていたニヤケ面の親友へ、ふてくされた顔を向ける。
「……別に、そういうのじゃないからね」
「アタシ、なんも言ってないけど?」
「うるさいぐらいに顔が物語ってるくせに」
「お、言うようになったねぇ」
どう返したところで喜ばせるだけらしい。鈴緒は首をふりふり、倫子とも合流すべく歩き出した。
「そういえば、牧音ちゃん。今日は職質大丈夫だったの?」
しかし途中で、ハッと思い出した話題を口にする。牧音は自宅からバットを担いで来るため、最近は職務質問にも遭いがちなのだ。ご面相から「鈴緒をぶっ殺すヤツをぶっ殺す」という意欲がみなぎっているためだろうか。
しかし牧音は凛々しい顔を緩めて、にんまり得意げだ。
「ソコは大丈夫。今日は野球帽も被って、あとグローブも持ってきたから。ほら」
そう言ってトートバッグから、折り畳まれたキャップとグローブを引っ張り出した。バットもそうだが、帽子もグローブも妙に使い込まれている。本人あるいは家族の私物だろうか。
「おまわりさんって、意外と理解あるんだね」
鈴緒としては、危ないので牧音たちに武器を持ってほしくないものの。
本人たちが揃って
そして大学生協前で、催涙スプレーと特殊警棒を隠し持っている倫子と合流し、三人で共通教育棟へと向かった。今日の一コマ目は珍しく、三人揃っての講義なのだ。
牧音から、銀之介の今朝の過保護ぶりを聞かされた彼女は、牧音と似たり寄ったりのニヤニヤ笑顔になりつつ
「職員さんさ、前からずーっと鈴緒のこと心配してたと思うからさ、お似合いなんじゃない? よかったじゃん」
と直球の言葉を投げかけて来た。
鈴緒は反射的に顔を赤くしながらも、彼女の言葉に眉を寄せる。
「それ、どういうこと? 前っていつ?」
倫子が空を仰ぎ、記憶を引っ張り出す。グラデーションネイルの施された指先が、細い顎に添えられていた。
「えーっと、入学してちょっと経ったぐらいだったかな。ほら、鈴緒が思いっきりすっ転んだことあったでしょ」
倫子の言葉に、牧音が鈴緒の側頭部を軽くつつく。
「コイツよく転んだりぶつけたりしてるけど、どれのコト?」
「両膝から流血したやつ。覚えてる?」
「あー、アレね。ハイハイ、あったあった。五月か六月ぐらいだっけ」
鈴緒もそれなら、嫌というほど記憶に残っている。即座に思い出し、無言で顔をしかめた。
スニーカーの靴ひもがほどけていることに気付かずに踏んづけてしまい、ものの見事に転んだのだ。ロングカーディガンを着ていなければ、パンツも丸見えであっただろう。
両膝からダラダラと血を垂れ流す鈴緒に、友人二人の方がパニックに陥ったことも記憶に新しい。
たしかあの時は、大学生協に絆創膏が売っていないか探しに行った倫子が、途中で引き返して保健管理センター行きを提案してくれたのだ。
ついでに外での騒ぎを聞きつけてくれたのか、センター常駐の保健師も迎えに来てくれた。おかげで鈴緒はキャンパス内に、あちこち血痕を残さずに済んだのだ。
鈴緒が記憶を掘り返しながら、目の前の友人への感謝を再認識していると、
「あの時、ホケカンのこと教えてくれたのがあの職員さんだったはず」
ケロリと新事実を開示された。え、と鈴緒は間の抜けた声をこぼす。
「ちょっと待って、どういう流れで?」
額に手を当てて困惑する鈴緒に、倫子はヘラリと笑った。
「鈴緒が転んだ後、慌てて生協に行ったでしょ? その時、途中でメガネかけた、目つき悪くて無駄にデカいお兄さんに声かけられてさ。一瞬ビビったけど、『ホケカンなら無料で手当てしてもらえますよ』って教えてもらったわけ。顔はちゃんと覚えてないけど……」
眼鏡をかけ、目つきが悪くて無駄に大きく、そして保健管理センターを「ホケカン」と呼ぶ年上の男――
「十中八九、銀之介さんだ」
「でしょ?」
鈴緒の渋い顔での総括に、倫子は得意満面の笑顔である。
「しかもその時、『ホケカンにも連絡入れとく』的なことも言ってたから、たぶん保健師さんが迎えに来てくれたのも職員さんの手引きだね」
「そうだったんだ……運がよかったなぁ、ぐらいにしか思ってなかった……」
呆ける鈴緒の肩に、牧音が顎を載せてニンマリと笑った。そのまま彼女を見る。
「鈴緒、むちゃくちゃ見守られてんじゃん」
「自分のことをずっと見てくれてる年上の、仕事もできそうなお兄さんが近くにいたら、そりゃまあ彼氏のハードルも上がるね」
倫子も牧音の言葉に乗っかり、からかい混じりに鈴緒の背中を軽く叩く。
叩かれた鈴緒は、真っ赤な顔でうめくしか出来なかった。
どうやら彼の愛は、自分が把握している以上に真剣かつ重い、ようである。