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35:サードインパンクト先輩

 鈴緒が兄や同居人や友人たちにべったり守られながら、五日が過ぎた。

 先見で視た事件や事故は、遅くとも一週間以内に発生するのが常である。渦中の鈴緒も含め、警戒しつつも非常事態に慣れつつあるという、アンバランスな精神状態が構築されつつある本日。


 鈴緒は久しぶりに、独りぼっちとなる羽目になった。

 その日の三限目は仲良し三人組でそれぞれ違う講義を取っているのだが、鈴緒の講義だけが休講になった。四限目まで、束の間の自由の身になってしまったのだ。

 いつもならば嬉しい中休みであるものの、今は微妙に喜べない。


 昼休みの終わり際、鈴緒は牧音たちによって図書館の談話スペースに連行された。一人掛けソファに座らされ、その前に立った倫子に膝を押さえられる。

「いい、鈴緒? しばらくじっとしてるんだよ?」

「後でちゃんとボディガードを寄越すから、それまで絶対に動くなよ」

 スマートフォン片手に牧音も怖い顔だが、鈴緒は不満たっぷりに顔をしかめた。


「わたし、幼稚園児じゃないんだけど」

 この反論に、牧音が鼻で笑う。

「頼んないトコは幼児レベルじゃん」

「そうそう。あと、何もないところで転ぶし」

「よそ見してあちこちぶつけるし。ウチの弟の、ちっちぇえ頃と大差ないって」

「ふぐぅっ……」

 前科があり過ぎて、反論できなかった。悔しげに唸ると、二人はニコニコと彼女の頭を撫でて図書館を去っていく。「泣いちゃダメでちゅよー」などとも言い残していたので、完全に親目線である。


 鈴緒はなんとなく、周囲からの生暖かい視線を感じつつ、ふくれっ面で手元を見た。ここに座らされた時、倫子から暇つぶしとして渡された本があるのだ。

 『ぐりとぐら』であった。

(用意周到に馬鹿にして来てる!)

 幼児扱いも、ここまで来れば完璧である。鈴緒は絵本をカーペットが敷き詰められた床へ叩きつけそうになり、寸前で思いとどまる。これも大学の蔵書だ。


 仕方がないので、カウンターにいる司書に絵本コーナーの場所を尋ねて『ぐりとぐら』を戻すことにした。じっとしていろとは言われたが、談話スペースの近くにいれば問題ないだろう。

 鈴緒はその帰り道に、雑誌コーナーで『オレンジページ』のバックナンバーを数冊引っこ抜いた。夕飯担当として、新しいレシピには飢えているのだ。


 しかしソファまであと少しというところで、あまり会いたくない人物が向かいから接近していることに気付く。

「あ、日向さん。お久しぶり」

「……どうも」

 脱いだコートを右腕に引っかけ、串間が朗らかに左手を振って来た。以前の醜態をすっかりなかったことにしたかのような爽やか笑顔に、鈴緒はゴーヤを丸かじり中と言わんばかりの渋面を浮かべる。声も不愛想そのものだ。


 無視して一人掛けソファに戻るが、串間はニコニコと彼女のそばから離れない。鈴緒は胡散臭そうに彼を見上げる。

「何ですか?」

「うん? 日向さん、相変わらず大変そうだね」

「そうですね」

 おざなりに返し、会話を打ち切った。どうあっても離れる気はないらしい。もしもまた腕を掴まれても、近くには司書や他の学生もいる。

 いざとなれば大声を出して抵抗しようと、鈴緒は考え――そこで嫌な予感を覚えた。


(ひょっとしてこの人が、牧音ちゃんの言ってたボディガードだったり?)

 正門で告白されて暴力を振るわれそうになった経緯を、彼女には細かに伝えていない。ただ「串間に告白されたのでこっぴどく振った」という事実だけを伝えていた。

 彼女と串間は、サークル内で交流があるのだ。あまり禍根を残してほしくないと思っての配慮だった。


 しかしそのせいで、牧音が「背に腹は代えられない」と彼に協力を依頼した可能性もある。そしてこの笑顔を見る限り、この男はそれをホイホイ受けそうだ。

(ううううう……気まずい……帰ってほしい……)


 鈴緒は『オレンジページ』の時短メニューのページを開きながら、密かにうめいた。こんなことなら串間が銀之介に首根っこを掴まれ、完全に釣果と化していたという、面白エピソードまで余すところなく話すべきだった。

 ついでにこいつに「すしざんまい」というあだ名でも、授与しておけばよかった。


 鈴緒は悶々と悩んでいる時、自分の横に置いたリュックの中で何かが震えていることに気付いた。リュックを膝に乗せて、震源地であるスマートフォンを見る。

 ロック画面に銀之介からのメッセージが届いたという通知があった。業務中に珍しいな、と鈴緒がロックを解除しようとしたら、手元に影が生じた。


 不思議に思って顔を上げると、すぐ近くに串間の顔があった。お辞儀をするように上半身だけ傾けて、鈴緒のスマートフォンを覗き込んでいる。半笑いのままの彼と目が合い、鈴緒は息を飲んだ。

「日向さん、この前の職員さん――銀之介さん、だったよね? この人と付き合ってるの?」

 身体を強張らせる鈴緒に、串間はボソボソと覇気のない声で尋ねる。

「はい? 付き合ってないですけど」

「でも今、メッセージ来てたよね? それに朝も毎日送ってもらってるよね? どういうこと?」


 矢継ぎ早に訊きながら、串間が鈴緒の座るソファのひじ掛けに左手を突いた。下から舐めるように鈴緒を見据える。

「僕には忙しいから付き合えないって言ってたよね? でもこの人とは付き合うんだ? どうして? 本当はずっと前からデキてたの? 酷いよね、男なんて知らないって顔してさ。僕が勇気を振り絞って告白した時も、実は二人で馬鹿にしてたんでしょう? ね、そうなんでしょう?」

「は? そんなわけな――」

 串間の鬼気迫る様子に気圧されながらも、性根が強気な鈴緒は果敢に言い返そうとして気付いた。


 彼がコートで隠しながら、右手にナイフを握っていることに。


 気付くや否や、鈴緒は早かった。

「その発想が気持ち悪いの! ほんと無理!」

 叫ぶと同時に頭を振りかぶり、串間の鼻っ柱に頭突きを浴びせた。次いで彼の体も蹴り飛ばし、膝に乗せたリュックだけを抱えて逃げ出す。


 ボディガードではなかった。彼こそが、鈴緒を殺す犯人だったのだ。

 逃げ去る時にちらりと見た彼の出で立ちも、ジーンズにトリコールカラーのスニーカーだった。先見で視た犯人と、同じ服装である。


「この人、刃物持ってますー! わたしのこと殺す気満々です!」

 鈴緒は叫びながら、後方を指さして図書館を出る。鼻を押さえた串間も、何かを唸りながら彼女を追いかけた。


 串間へ不意打ちを食らわせたまではよかったが、鈴緒もやはりパニックに陥っていた。

「あっ、防犯ブザー……!」

 図書館に置きっぱなしにしてしまったコートのポケットに、警察署から借りている防犯ブザーを入れたままだったのだ。引き返すべきかと躊躇するも、周囲の学生を突き飛ばしながらこちらへ走り寄る串間を見て、慌てて再度走り出す。


 そして気付けば、農学部の学部棟近くまで来ていた。講義中ということもあり、図書館周辺と比べると人気が少ない。

 自分が迷い込んだ遊歩道を見渡し、鈴緒は再び血の気が引くのを感じた。

 ここは、先見で自分の死に場所となった遊歩道にそっくりなのだ。


 むざむざ自らここへ踊り出てしまったことに愕然としていると、背後から忍び寄る誰かに腕を掴まれた。

「日向さん、酷いよね。僕はこんなに好きなのに」

 荒い息混じりに、串間が薄ら笑いでそう囁いた。

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