鈴緒の腕を掴んだ串間が、もう片方の手でナイフを振りかざした。日光を受けてギラギラと光る刃に視線が縫い付けられ、鈴緒は動けずにいる。しかし
「何してるんだ、お前!」
怒声と共に、誰かが串間を斜め後ろからタックルした。その弾みで鈴緒も尻もちをついて倒れるも、彼女が混乱する頭で周囲を見渡す間に、全てが決着していた。
串間を体当たりで押し倒したのは、警備員の男性だった。怖い顔で串間の背に乗りながら、彼の腕を捻り上げている。同時に無線で応援を呼んでいた。
情けない串間のうめき声をBGMにして、鈴緒はその光景をぼんやりと眺める。と、男性が彼女の視線に気付いた。
「巫女ちゃん、大丈夫かい? 刺されてない?」
「あ……大丈夫です、はい……ありがとうございます……」
どこかぼんやりしたお礼の言葉に、男性はニッコリと笑った。
「いやいやっ! 俺も昔、あんたの先見で強盗に遭わずに済んだことがあってさ。恩返し出来てよかったよ」
――佐久芽市民で、巫女に恩義の無い者はいない。
いつだったか、銀之介が語った言葉を思い出した。よろよろと立ち上がりつつ、鈴緒も男性に笑い返す。
ここに来てやっと、鈴緒は自分の未来を変えられたのだと実感出来た。そして弱々しくもがいている串間と、彼に乗り上げたままの男性を交互に見た。
「あの、この時間なら警察の人も巡回してるかもなので。わたし、探して来ましょうか?」
「あ、そうしてくれると助かるよ! さっき応援呼んだけど、まだちょっとかかるって――」
男性の
キンモクセイの間を割って現れたのは、まさかのイノシシだったのだ。なかなかの巨体である。こちらを威嚇するように、長いキバの生えた顔を振っている。
(あ。わたしの死因、たぶんこっちだ)
棒立ちの鈴緒は直感した。よくよく思い出すと、先見でも地面に落ちていたナイフには血が一滴も付いていなかったのだ。凶器はおそらく、こちらの極太なキバであろう。そりゃ血まみれになるわけである。
人間相手の荒事なら慣れているであろう警備員も、ずんぐりと大きなイノシシのお相手は不慣れであるらしい。あんぐりと口を開き、こちらも動けずにいた。
これはもう助からないだろう、と鈴緒は一周回って諦めあるいは悟りの境地にいた。ただせめて、先見に従って犠牲者は自分だけになるよう、さり気なく警備員の男性――と、おまけで串間を庇うように立ち位置を変える。
だが幸いにして、鈴緒は未来を変えることに成功していたらしい。
イノシシがめちゃくちゃにした生垣の間を縫って、誰かがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。応援の警備員または警察官だろうか、と三人は一瞬考えて、ほぼ同時に目が点になった。
その人影は、なんだか妙に長くて幅広のものを背負っていた。どうやら剣らしいのだが――それは剣と言うには、あまりにもバカデカすぎた。
呆然とする三人の遠近感を狂わせながら、美術学部が丹精込めて作った聖剣もどきを携えた人影もとい銀之介が、憤怒の表情でそれを振り上げた。
危うげなく振り下ろされた巨大模造剣が、バットよろしくイノシシの横っ面をフルスイングした。まさかの奇襲に、イノシシも横倒しになる。ついでに聖剣の装飾も四方に飛び散り、刀身も真っ二つに折れた。さようなら、自主制作アート。
倒れたイノシシへ半壊した剣を構え、銀之介は大声で威嚇した。
「鈴緒ちゃんに怪我させてみろ、今すぐ
土地神のペットと言われているイノシシであるが、所詮はケダモノ。人の言葉など分かるはずもない。
だが、バカが考えたような剣を構えた大柄の男性にぶん殴られた挙句、怒声を浴びせられれば本能が「関わっちゃ駄目なヤツだわ、これ」と判断したのだろう。
意外にも可愛らしい子豚めいた悲鳴を上げ、イノシシは無人の方角へと弱々しい足取りで逃げて行った。
だが怒れる銀之介は、イノシシを追う代わりに次の獲物を探す。そして地面に倒れたままの串間へ、射殺すような視線を注いだのだ。
「鈴緒ちゃんに二度と近付くなと、前に言ったよな? そんなにこの子にちょっかい出したいなら、ウッドチッパーに足から突っ込んでお前も食材にしてやろうか? あぁ!?」
なおウッドチッパーとは、木材を挿入すればチップ状に粉砕してくれるありがた恐ろしい機械のことだ。人体も、楽々ミンチ肉になれるだろう。
ヒィィッ!と串間は甲高い悲鳴を上げた。
「ごめんなさい! 絶対にもう二度と、ちょっかいを出しません!」
と、続けて泣いて詫びる。ただ実際には歯がカタカタと鳴っていたため、
「ごっ、めぁっ……ちょっかぁぁ……」
としか言えていなかったが。
無様に震える串間へ舌打ちしつつ、銀之介はぐるりと空をねめつける。
「おい土地神! 聞こえてんのか、オラァ! ペットの管理ぐらいちゃんとしろ! それからな、尊い巫女達に配慮しやがれ! 毎回グロ映像垂れ流しやがって、コンプラ意識ぐらい持て! あんたの倫理観、どうなってんだよ!」
どさくさまぎれに、土地神にも怒っていた。普段は物静かな彼も、色々と
平素の彼はインテリヤクザ風であるが、今の彼は完全に武闘派ヤクザである。おそらく懲役刑も食らっていそうな気迫だ。一般不審者ならお手の物である警備員の男性も、串間と似たり寄ったりの青ざめた顔である。
しかし鈴緒だけは違った。
彼の怒りの理由が、全部自分のためだと分かっていたからだ。実に心配性の彼らしい理由である。
鈴緒は頬を染めて微笑みを浮かべ、まだ土地神に文句を言おうとしている銀之介の脇腹にしがみついた。
「銀之介さん、好き」
小さな声で告げたが、しっかりと彼の耳には届いていたらしい。たちまちピタリ、と罵声が止んだ。
おずおずと振り返った銀之介は、信じられないと言いたげに三白眼を見開いていた。叫びまくった拍子にずれた眼鏡をかけ直し、恐る恐る自問する。
「土地神からの報復で、幻覚を見せられているのか……?」
そう来るとは思わなかった疑心暗鬼に、鈴緒はフハッと笑って顔を上げる。
「現実だと思うよ。怒ってくれて、助けてくれてありがとう」
ぱちくりと瞬きした後、銀之介も緩く笑った。日焼けした彼の肌がかすかに赤くなっているように見えるのはきっと、鈴緒の都合のいい勘違いではないはずだ。
「間に合って良かった――俺も、鈴緒ちゃんの事が好きだ」
銀之介はそう言ってギュッと、彼女の小さな体を抱きしめた。上背のある彼に抱きしめられると、小柄な鈴緒は身体全体をすっぽり覆われる形になる。
少しばかり息苦しいものの、それ以上に幸せだった。
一方、不審者を捕まえたと思ったらイノシシに遭遇し、蛮族スタイルの大学職員まで乱入するという珍事態に置いてけぼりとなっていた警備員の男性も、すぐ近くの甘々しい光景にほんのり頬を赤らめる。
「なんかよく分からんけど、よかった……」