串間とイノシシの心に大いなる傷が残されてから、十日が経過した。取り調べといった事後処理も終わり、今までの生活に戻った鈴緒は今朝も祠へと向かう。足取りは軽かった。
串間はあの後逮捕され、見事退学となった。大学側から通達されるよりも早く、警察署へ連行されるパトカーの中で
「お願いします! 大学を辞めさせてください! このままここにいたら、きっと僕はハンバーグにされます! デミグラスハンバーグにだけはなりたくないんです!」
と涙ながらに訴えたらしい。和風ハンバーグや、チーズインハンバーグは許容範囲のようだ。何故なのか。
なお牧音があの日、鈴緒の許へ呼ぼうとしていたボディガードも彼ではなかった。
彼女は教室へと向かう途中で大学事務局へ向かい、銀之介を始めとした大学職員にボディガードを頼んでいたのだ。図書館で彼から受け取ったメッセージも、
「今から迎えに行く。次の講義まで、事務局内で過ごしなさい」
という内容のものだった。
このメッセージがきっかけで串間は豹変したものの、牧音の手配のお陰で最悪の事態も回避出来ていたのだ。
鈴緒は後日、牧音と銀之介から謝罪されたけれど、二人には感謝しかなかった。
串間のあの性格上、どうせいつか何かが爆発していたはずだ。ならば警戒中だったあの日にしでかしてくれたことは、不幸中の幸いであろう。
そして鈴緒殺害の真犯人(未遂)だったイノシシだが、案の定農学部がこっそり捕まえて学内で飼っていた一頭だった。
危うく大学内で死傷者――それも先見の巫女を殺しかけた甲斐もあり、捕獲に関わった学生たちも、それを黙認していた周囲の教員も、揃ってギュウギュウに絞られたらしい。
イノシシ退治で折れた聖剣もどきが「巫女を守ったガチ聖剣」となった今、さすがにイノシシの密猟を再度やらかす学生はいないはずだ。
こっそり裏門に展示されているガチ聖剣がSNSで話題になり、受験前にも関わらず合格祈願に訪れる高校生が増えたと銀之介が呆れていたのを思い出し、鈴緒は先見前なのに小さく笑ってしまった。
深呼吸で気持ちを整え、祈りの言葉を朗々と唱える。
いつもと変わらぬ、先見の舞台が広がった。
――いや、実はちょっとだけ変化はあるのだが。
鈴緒の眼前に展開される舞台では、妻に女遊びがバレてしまった挙句、刺身包丁でめった刺しにされる男性の遺体が転がっているのだが。
その姿には、ものの見事にモザイク処理が施されていた。代わりに頭上辺りにテロップが表示され、男性の名前と年齢と、生前の顔が分かるようになっている。
性犯罪を視た際も、局部がモザイクに覆われる仕様になっている。どうやら銀之介に激怒されたことで、土地神もご配慮下さっているらしい。
(出来るなら、最初からしてほしかったんだけど……)
鈴緒はメモを取りながらそう考えたものの、そういえば土地神にモザイク処理を頼んだことはなかったな、とも思い返す。
「神様だって、言ってくれなきゃ分からないですよね。気を使ってくださって、ありがとうございます」
鈴緒は笑い、鏡に向かって一礼した。お供えのチーズケーキも、なんとなく鏡の方へ少し近づける。そして小走りで祠を出て行った。
「ふぐぅっ」
ほんのり浮かれていたため、入り口のドアに激突するのはもはやお約束である。
鈴緒はぶつけたわき腹をさすりつつ、自宅へ戻った。玄関でローファーを脱ぎ、ダイニングへと向かう。今日は土曜日のため、時間を気にせずにいられるのはありがたい。
ダイニングでは、銀之介が二人分の朝食を配膳中だった。今朝のメニューはおにぎりと赤ウインナー、そしてネギ入りの出し巻き卵らしい。もちろん漬物と味噌汁も付いている。
「あ、いかにも朝ごはんだね。お休みなのに」
「休日とて、手を抜く事は許せないからな」
銀之介が無表情のまま、淡々と答えた。いかにも彼らしい回答である。
緑郎は明け方まで夜通し作画作業をしていたため、現在はベッドで熟睡中のはずだ。今日は珍しくも二人きりでの朝ごはんだった。
いつの間にか彼と過ごす時間が苦行でなくなり、むしろ楽しみとなっているのだが――鈴緒は忘れる前に、先見の内容を書き留めたメモを彼へ差し出す。
「前に会食で一緒になった、チャラけた美容師さんのこと覚えてる?」
「ああ。
初めて本名を聞いた時、鈴緒が吹きそうになったのは秘密である。ウェーイなパリピ男の本名として、あまりにも完璧だろう。
「そうそう。その上井さんが、奥さんに刺されちゃうみたい。女性遊びがバレたのが原因っぽい」
「成る程。痛ましいが意外性はゼロだな」
同情皆無な鈴緒の声に、銀之介も一切哀れみの見えない無表情で頷いた。メモも受け取る。
メモを確認しつつ、鈴緒からの補足も聞きつつ、銀之介は警察署への連絡を終えた。いつの頃からか、警察署や消防署との橋渡し役を彼が行うようになっていた。
「この役目って、本当は巫女の旦那さんがするもんだからねー」
と、緑郎がニヤニヤと彼に引継ぎをしていたのは
(それも、ちょっとムカつくんだけどなぁ)
鈴緒は無意識に、頬を膨らませてむくれた。たしかに銀之介には絆され、図らずも相思相愛になってしまった。
ただ結婚云々についてはまだ考えたくない。より詳細に言えば、先見で視たアホ丸出しのバカップルにだけはなりたくないのだ。もうちょっと理性を保ちたい。
悶々と悩む鈴緒の頬が、ふにんと柔らかく押された。ビックリして我に返ると、警察署への報告を終えた銀之介が鈴緒の頬を突いている。エプロンも外し終えていた。
「考え事か? 朝食が冷めるぞ」
「た、食べるよ! 普通に呼んでくれればいいで――ふぶっ」
鈴緒はのけぞって銀之介の悪戯から逃げようとするも、その前に両頬を掴まれた。左右からもちもちともてあそばれる。
「雪見だいふくの餅のような触り心地だ」
「わたし、羽二重餅じゃない!」
無表情での感嘆に、鈴緒はとうとう憤慨した。銀之介の手を叩き落とす。そしてギロリと上目に凄んだ。
「ご飯食べるんじゃなかったの?」
「ああ、そうだったな」
彼女が凄んだところで、銀之介の感想は「可愛い」一択である。内心でほっこりしつつも表面上はあっさり引き下がり、席に着いた。
その後の朝食は、穏やかな時間が流れた。鈴緒が時折銀之介に話題を振り、それに彼が淡々と返すといういつもの光景が続く。
食事も終え、鈴緒が木製のトレイに皿を重ねる。皿洗いは、食事を作った者以外が行うというのが日向家のルールである。彼女はふと、壁の時計を見上げた。
「銀之介さんは今日、何か予定あるの?」
テーブルを拭いていた銀之介も、つられるように時計を見る。
「昼から不動産屋に行くつもりだ」
彼の言葉に、鈴緒は思わず固まった。
そうだった。彼は新居が見つかるまでの居候だったのだ――すっかり忘れていた事実を、遅れて思い出す。