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第2話 とりあえず頑張ってみます

「マタレーナ、番紋つがいもんが出たんですって?」


 喜色満面とはこういう表情を言うのだろう。

 パアッ!

 音にしたらこうなるような輝く笑顔は、もちろん母のものだ。

 乳母のイーブに知らされてすぐ、マタレーナの部屋に飛んで来た。


「五角形の重ね紋、これは狼の紋よ。しかも王族だわ!」


 マタレーナの腕を掴むや肩口の袖を引きずり下ろして、母は興奮した声を上げる。


「ウルライネンの王族の番よ。なんて名誉なことでしょう。わたくしの娘が王族だなんて!」


 ウルライネン、確かここから遥か北にある狼人族の王国の名だ。

 この世には狼、獅子、虎、豹を始祖とする獣人の国がある。

 そこでは昔から女性が生まれにくくて、人の女性が望まれて嫁ぐこともあるらしい。

 自由な恋愛の末に嫁ぐこともあるが、王族貴族の伴侶は違う。

 この世を統べる創造神ヴェルア様のお決めになった相手、「神定しんていつがい」と呼ばれる唯一の伴侶を、王族貴族は娶り生涯連れ添うのだという。

 その神定の番の証が、番紋と呼ばれるあざだ。

 どうやらマタレーナは、その神定の番というやつに選ばれたらしい。


「すぐに神殿へ届け出なければ」


 浮かれ切った母は、「大変だ」とか「急がなくては」とか言いながらバタバタと出て行った。


「ウルライネン……」


 狼人の国の名を口にしてみる。

 状況はなんとなく理解できたけれど、マタレーナには実感がない。

 自分の未来というか夫になる男は決まったらしい。

 でもそれが誰で、そんな性格でどんな姿をしているか、まるでわからないのだ。

 なにより、いつ現れるか。

 それすらわからない。


「不安しかない」


 先ほどの母の様子を思い出して、マタレーナは首を振った。

 確かによくできた姉たちの影響で、マタレーナは少しばかり大人びている。

 けれどそれを差し引いても、母は幼すぎやしないか。

 なにも確かな未来が見えないというのに、きゃっきゃとはしゃげる単純さは理解できない。


「神定の番になれば、ウルライネンから結納金が出るのよ。それもかなりの額がね」


 いかにも面白くなさそうな声にはっと気づくと、ドレッサーの大きな鏡に上の姉エルマの姿が映っていた。

 少し後ろに、下の姉アーダも控えている。


「レーナが嫁いだ後も我が家を支援してほしい。そう思ってるんだろうよ」


 下の姉アーダの毒舌はいつにも増して手厳しい。

 エルマより少しだけ濃い金色の髪を乱暴にかき上げて、はあっと大きなため息をついた。


「入ってくるものが少ないのだから、それなりに暮らすしかない。よそと比べて競うから、おかしなことになるんだ」


 他家の夫人が集まるパーティなどに出かけてる場合じゃないだろう。

 家族が慎ましく食べて行くだけでもやっとの我が家だ。

 当主である父が母を叱らなければならないのに、やりたい放題させている。


「レーナを売れば、解決すると思っているんだ」


 どうかしていると、下の姉アーダは忌々し気に床を爪先で蹴る。

 直情的で素直なアーダらしい。

 自分のために怒ってくれる姉に、心が温かくなった。


「ありがとう、お姉さま」

「お礼を言ってもらうようなことじゃない。私は怒っているんだ」


 姉アーダの白い頬が、少しだけ赤らんでいる。


「わたくしも怒っていてよ?」


 マタレーナの頭を撫でながら、上の姉エルマが微笑んでいた。けれど濃い青の瞳は、笑っていない。

 この姉たちのおかげで、マタレーナは曲がらずにここまで生きてこられたと思う。


「ありがとう、お姉さまも」


 エルマの白い手がすっと下りて、マタレーナの頬を撫でる。

 その手は少し震えていた。


「たぶん明日には、迎えがくるでしょうね。保護所から」

「保護所?」

「そうよ。そこでレーナは番の君を待つことになるわ」


 姉エルマの言葉が、マタレーナを現実に引き戻す。

 狼人族の番。

 いつ会えるのかわからない、見知らぬ男だ。

 領地から出たこともないマタレーナは、狼に限らず獣人族の姿を見たこともない。


「番って、会えば必ず好きになれるの?」


 思わず不安が口をつく。


「そう言われているわね。特に獣人の殿方は、番だけをひたすらに愛するのだそうよ。でも本当のところ、わからないわ。神定の番なんて、身近にいたことないもの」


 エルマは正直だ。

 母のように聞きかじりの情報を、さも正しいことのように押しつけたりはしない。


「だからレーナ、嫌だと思ったら帰っていらっしゃい」

「え?」


 一瞬、エルマの言葉の意味が分からなかった。

 神定の番は絶対の存在で、拒むことなどできないはず。それくらいはマタレーナも知っている。


「そんなことできるの?」

「滅多にないことだけど、恋人や夫がいたりする女は、無理に連れて行かれないと聞くわ。レーナが嫌なら仕方ないでしょう? 無理には連れて行かれないはずよ。大丈夫、レーナの一人くらい、わたくしがなんとでもするわ。大きな顔してここにいればいいのよ」


 じきに姉エルマはハカネン子爵を継承する。


「レンドルフにもよく言っておくから」


 レンドルフとは姉エルマの婚約者だ。

 領地を持たない男爵家の次男で、今は王宮官吏として働いている。

 数字を得意とする穏やかな男性で、こんなうらぶれた子爵家でも喜んで婿入りしてくれるそうだ。


「ああ、及ばずながら私も協力するよ。私の婚約者はケチじゃない」


 下の姉アーダの婚約者は、平民ながら王都で大きな商会を経営している。

 赤い髪をした長身の美青年で、アーダに心酔していた。

 週に一度、高価な贈り物を持ってアーダに会いに来る。

 近い将来義兄になる彼は、マタレーナにも優しかった。


「お母さまが届出てしまったからね。保護所に入るのは仕方ないとして……。嫌ならいつでも帰ってきていい。それくらいの気持ちで行っておいで」


 賢い姉たちが、「神定の番」、その言葉の重さを理解していないはずはない。

 それでもなんでもないことなのだと言ってくれる優しさが嬉しくて、マタレーナの心の靄は吹き飛ばされてゆく。


「わかりました! ではそうします。本当に帰ってくるかもしれないから」


 両親はその……、かなり問題のある人たちだけれど、この家に生まれて良かった。

 その夜マタレーナは、珍しく創造神ヴェルア様に感謝の祈りを捧げた。

 信心深いとはとても言えない、なんちゃってヴェルア教徒だったのにだ。


(保護所は想像神ヴェルア様の神殿内にあるって言うし、そう悪いところじゃない。たぶん)


 そう信じていたのに。

 世の中そうそう甘くない。

 期待は裏切られるためにあるのだ。

 マタレーナはそれを、すぐに知ることになる。

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