ハカネン領から馬車を半日ほど、北へ進めた先に人の国の都がある。
畑や牧場がほとんどの田舎の領土とは違って、さすが王都。
石畳の大きな道、背の高い建物ににぎやかな商店街。
行き交うたくさんの人も、マタレーナには初めて見るものばかりだった。
「見えてまいりましたよ。尖塔のある白い建物、あれが神殿です」
馬車の外で護衛してくれる騎士が、窓の外からマタレーナに声をかけた。
指し示された、騎士の指の先を追う。
白く輝くような立派な神殿が見えた。
(ハカネンの神殿とは大違いね)
領地が貧しければ、神殿への寄進も十分ではない。
領主でさえそうなのだから、領民の寄進は言わずもがなだ。
(うちの神殿なんて、あちこちひび割れだらけだったのに)
長い間洗われたことのない壁は薄汚れていて、壁や柱にはたくさんのひび割れが走っている。
せめて修理だけでもと願い出る神殿長に、母はとても冷たかった。
だから今でも、神殿はボロのままだ。
(さすが王都の神殿だわ)
貧しいと、人は優しくいられないらしい。
母がよく言っていたことだから、そのまま信じていいとは思わない。
けれど二人の姉たちのような賢い人は、たぶん滅多にいないんだろう。
狭い世界しか知らないマタレーナにも、なんとなくわかる。
ここの神殿は豊からしいから、人は優しくいられるんじゃないか。
見栄や欲から縁遠い聖職者のいる場所は、きっと居心地の良い場所だろう。
そう思っていたのに……。
「デカっ!」
馬車を下りてすぐのことだ。
マタレーナの目の前を、小柄な少女が立ちふさぐ。
ふわふわとした金色の巻き毛に緑の瞳の、愛らしいと言って良い、まぁ美少女だ。
灰色の飾り気のないワンピースはひざ丈で、その上にうっすら黄ばんだエプロンを着けている。
「そんなにデカいなんて。かわいそー」
薄いピンクの唇が歪んで、くすりと嫌な笑いを浮かべている。
(は?)
身なりからしておそらくは平民だろう。
デカいなんて俗語を使っているところから察するに、まともな教育をうけていない層の平民。
(お
貧乏貴族とは言え、マタレーナは子爵令嬢だ。
まともなら貴族に無礼な口をきくはずはない。
なによりマタレーナはこの少女と初対面だった。
初対面の相手を貶すようなこと、たとえ平民同士であってもしないのではないかと思う。
(関わると面倒ね)
こういう時は下手に関わってはいけない。
できるだけ相手を刺激しないように、無視するに限る。
マタレーナは少女から視線を外すと、すいと彼女を避けて足を進めた。
「ちょっ……! 待ちなさいよ!」
マタレーナの左腕を掴もうとした瞬間、やっと護衛騎士が少女を取り押さえてくれた。
「不敬ですよ」
「わたしは王族になるのよ? そしたらその女よりえらいわ。放しなさい、放せってば」
金の髪を振り乱していきり立つ少女に、マタレーナは「なるほど」と思う。
外見の美しさに釣り合うほどの野心を、どうやら少女は持っているらしい。
準男爵家に生まれて、上の爵位の夫人になりたいと願った女をマタレーナは身近に知っている。
(つまり私の苦手なタイプね)
この少女も神定の番として、ここへいるらしい。
それならこの先も、顔を合わせることもあるだろう。
(ますます面倒だわ)
豊かであれば人は穏やかに暮らせる。
それは必ずしも正しくないのだ。
もっと豊かに、もっと贅沢をと野心を募らせる人にとって、現状はいつも不満でしかない。
(どうしよう。どうしたものかしら)
態度を決めかねて迷うマタレーナを、落ち着いた優しい声が救ってくれた。
「ようこそ、ハカネン子爵令嬢。番保護所長の、ライタ・ティア・パヌラです」
紺色のドレス、きっちりまとめあげた髪。
母と同じくらいの年頃の、品の良い女性だった。
神殿の中庭を抜けた奥に、番保護所にあてられた別棟はあった。
よく手入れが行き届いているらしい。
清潔ですっきりとしていながら、けして華美ではない。
その所長室に、マタレーナは通された。
「来る早々、大変な目に遭いましたね」
苦笑しながら、パヌラ所長はお茶を勧めてくれる。
ふわりと柑橘系の香りのする、きっと高級な茶葉だ。
「ここではアレが普通なのでしょうか?」
彼女とか、あの子とか、穏当な言葉を使いたくなかった。
躾のできていない、おバカな平民には「アレ」でいい。
「普通ではありませんよ」
パヌラ所長の薄い灰色の瞳が、まっすぐにマタレーナを見る。
「ただあの子、ミヨネの言うことも本当です。ミヨネは平民ですが、王族の番紋を持っています。王族の番はここでも格別に扱われます。今の身分に関わらず」
アレが王族になる?
どこの国だか知らないけれど、大丈夫なのかと他人事ながら心配になる。
「どちらの国かとお伺いしても?」
「ウルライネン、あなたと同じです」
げっ……。
声を上げそうになったのを、マタレーナは気合で抑え込む。
ということはなに?
ゆくゆくはアレと同じ国に嫁ぐのか。
そしてもしかしたら、アレの下につかなくてはならないってこと?
「先のことはわかりませんが、あなたのためにも穏やかに過ごされることをお奨めします」
理不尽だ。
神定の番になりたいなどと、一度も願ったことはない。
それなのに勝手に押しつけられて、たやすく拒むこともできないなんて。
嫌な目にあったと言って、家に帰ろうか。
姉たちはきっと、マタレーナを責めたりしない。
(でも……)
胸の中で小さな火花が弾ける。
(最初から逃げるのは嫌だわ!)
クンと頭を上げて、マタレーナは背筋を伸ばした。
「ご助言、ありがとうございます」
パヌラ所長は一瞬だけ目をみはってから、ふっと息だけの笑いを漏らした。
「ではもうひとつだけ。こちらではありとあらゆる科目について、学びの機会を用意しています。どうか有効にお使いください」
あなた次第だと、音にしない声が聞こえてくるようだ。
マタレーナを試しているような、思いやっているような、どちらともとれる口ぶりだった。
「カリキュラムを見せていただけますか?」
受けた方が良い。
直感だった。
十三歳だからこそ感じられるカン。
それが正しかったと知るのは、随分先になるのだけれど。