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第4話 銀狼の大公殿下

 保護所へ入って二カ月が過ぎた。

 ここでの生活は、驚くほどに自由だ。

 本当になんにも強制がない。

 例えば起床、就寝時間。

 起きる時間が自由なら、もちろん食事時間も同じだ。

 食べたい時に食べたいものを、側付きのメイドに言いつければそれで良い。


 ありとあらゆる科目についての学びの機会がある。

 パヌラ所長はそう言ったけれど、マタレーナの他に数名いるらしい少女たちが授業を受けている風はない。

 ああ、そうだ。

 ミヨネがダンスをしている場面は、一度見かけたことがある。


(これで本当にいいの?)


 ここにいるのは、獣人族のそれも王族貴族の伴侶になる女たちだ。

 貴族令嬢ばかりではない。

 貴族の令嬢なら、どんな貧乏家であっても最低限の教養は積むように躾けられる。

 貴族社会で生きるのに、どうしても必要だからと言われて。

 平民であれば、文字の読み書きすら怪しいところだ。

 それなのにここでは誰も、何も言わない。

 好きにしなさいと、放置されている。


(なにもかも、自分で決めろ。そういうことね)


 これはかなりキツイ。

 姉のおかげで多少大人びているとはいえ、十三歳は十三歳。

 知っている世界など限られていて、とても狭い。

 知らないことがなにかを、わかっていない自覚はある。


(とりあえず言葉と歴史は習うとして。他の事は所長のご助言をいただきましょう)


 初めて所長に会った日、ウルライネンの言葉と歴史はすぐに習いたいと伝えてあった。

 神定の番とやらは、いつ現れるかわからないのだ。

 もしかしたら明日かもしれない。

 マタレーナの相手は王族らしいから、人の言葉を理解できないことはないだろうけれど、周りの獣人までそうとは限らない。

 言葉ができなければ、なにかと不都合が多いはずだ。

 きっと侮られる。

 二カ月の間、マタレーナは熱心に言葉と歴史を学んだ。

 その様子を黙って見ていたパヌラ所長が、文化と風俗について科目追加をしてくれて、最近ではけっこう忙しい日々を過ごしている。


 そんなある日、午後の早い時間のこと。

 気持ちよく晴れた日で、マタレーナは中庭を見渡せるテラスにいた。

 午前中の授業の復習を、そこでするためだ。


 かさ……と、芝生を踏みしめる音。

 マタレーナは驚いて視線を上げる。


 保護所は神殿の奥にある。

 獣人王族貴族の神定の番を集めたところなので、当然ながら男子禁制だ。

 たとえ女性であっても、その出入りは厳しく管理されている。

 このテラスへ入り込める者など、普通では考えられなかった。


「驚かせてしまったようだね」


 優し気な甘いテノールの声。

 輝く白銀の髪をした青年は、薄く形の良い唇の端を上げて優雅に微笑んだ。

 白い騎士服、それも銀の肩章つきだ。


(この人、ただものじゃない)


 マタレーナは瞬時に立ち上がると、青年の前で深く腰を落とす。

 幼い頃からしっかり仕込まれた淑女の礼だ。

 彼が尊い身分であることは、纏うオーラでわかる。

 直感だった。

 かなり上の、たぶんどこかの王族。


『ふぅ……ん。君、私が誰かわかるのかい?』


 ウルライネンの言葉だ。

 二カ月毎日励んでおいて、本当に良かった。


『尊い御方であることだけは』


 顔を伏せたまま、なんとか返すことができた。


『顔を上げて』


 許しを得て、やっとマタレーナは顔を上げる。

 少し細められた切れ長の目は銀色で、人の世界では見たこともない。

 青年がわずかに首を傾ける。

 肩のあたりで揃えた銀の髪が、さらりと頬にこぼれかかった。


『君の名は?』

『マタレーナ・ティア・ハカネンと申します』

『そう。マタレーナ……』


 青年は少しだけ目を伏せて、微かなため息をつく。

 寂し気に見えるのは、マタレーナの気のせいだろうか。


『私の名は、次に会う時にね』


 そう言い置いて、彼はくるりと踵を返す。


(え?)


 誰かに取り次がなくてもいいのだろうか。

 呼び止めるのも無礼だし、どうしたものかと戸惑っているうちに青年の姿は消えた。

 それはもう、とてもわずかな間で。

 風のように素早い彼の動きが、あああれが獣人だとマタレーナに実感させてくれた。



 その翌日。

 神殿正門の前に、紺地に銀狼の旗印が翻る。

 五十名ほどの騎士隊が護るのは、六頭だての白い馬車。

 その扉には旗印と同じ狼の紋があった。


「ウルライネンの大公ミスカ・ディア・トゥルトラ殿下がおいでだ。とく開門を!」


 隊長らしき騎士の大音声は、中庭にいたマタレーナの耳にも微かに届いた。


(今、トゥルトラ大公って言った?)


 ミスカ・ディア・トゥルトラ大公といえば、先の王弟殿下だ。

 確か十九か二十歳。

 ウルライネン王族の情報は、既に暗記している。

 安全上の配慮からか、外見上の特徴までは公表されていないけれど、トゥルトラ大公の別名は「月白の王子」だ。


(間違いない。昨日のあの方だ)


 流れる銀の髪は、まるで月の光のようだった。

 そこいらの女よりよほど繊細な美貌も、「月白の王子」の呼び名に相応しい。


『私の名は、また次に会う時にね』


 彼はそう言っていた。

 今日ここを訪れると、決めていたのだろう。


(大公殿下が私の番?)


 いや、違うだろうとすぐに思った。

 もし彼が神定の番なら、昨日あの場で名乗ったはずだ。

 神定の番とは、創造神ヴェルア様のお決めになった唯一の相手。

 人であるマタレーナにはぴんとこないけれど、獣人にとっては逆らいがたい本能で求める相手なのだという。

 昨日の彼に、そんな様子は見えなかった。



 応接室に呼び出されたマタレーナに、昨日の青年ミスカが「やぁ」と微笑みかけた。

 マタレーナの後に続いて入ったミヨネに気づくと、ミスカは小さなため息をつく。

 そしてソファから立ち上がり、ミヨネの前に跪いた。


「君は私の番だよ」


 ミヨネの顔が、ぱぁっと輝く。

 反対に薄い微笑を浮かべたミスカの、銀の瞳は哀し気に見える。


(番って、本能で求めるものじゃないの?)


 歓喜に震えるとか、酔うように相手を求めるとか、ミスカの様子はとてもじゃないけれどそんな風にはとても見えない。

 学んだ知識は間違いだったのか。

 喜色満面のミヨネは、何も気づいていないようだ。

 銀色の月のようなミスカを、うっとりと見上げている。


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