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第5話 気の毒な番

「わたしを迎えに来てくれたって、わかってた!」


 ミヨネがマタレーナに視線を寄こす。

 べたりと貼り付けたような、得意気で歪んだ笑みを浮かべて。


「わたしが番。それならミスカって呼んでもいいのよね?」


(やっぱりバカだわ)


 マタレーナは、呆れて言葉も出ない。

 ウルライネンの大公に、呼び捨てでいいかと聞くなどと。


「君がそう呼びたいのなら」


 先ほどから少しも動かない薄い微笑は、マタレーナには仮面のように見えた。

 美しく冷たい仮面。


「ミスカ!」


 ミヨネは彼に飛びつく。

 彼の首に手を回し、ぎゅうと身体を寄せて。

 いくら神定の番であっても不敬が過ぎるのではと思うけれど、当の本人ミスカが何も言わないのだ。

 番ではないマタレーナが口を出すことではない。

 ない……が、見苦しかった。

 とても正視に耐えない。


「所長、わたくしは下がらせていただいても?」


 立会人のパヌラ所長に了承を求める。

 狼獣人の番紋を持つからとここへ呼ばれたのだろうけれど、ミヨネが番とわかったのだ。

 マタレーナがこの場にいても仕方ない。

 見たくもないものに、これ以上つきあってやる義理もないし。


「ええ、そうですね」


 所長が頷いたとほぼ同時に、ミスカの視線が上がる。

 その腕は形ばかりミヨネの背に回されていたけれど、銀の瞳はなにか言いたげにマタレーナを見つめた。

 そしてやがて、ゆっくりと伏せられた。


「わたし、王宮に着てけるドレス、持ってないの」


 ミスカの胸にしなだれかかるミヨネが、甘えた声でねだる。


「いくらでも作るといいよ。君の好きなだけ」


 優しく聞こえるテノールの声。

 唇の端だけを上げて微笑っている。


(お気の毒に……)


 部屋を出た後、マタレーナはそう思った。

 アレが番、生涯の伴侶だなんて、マタレーナが男なら絶対に嫌だ。

 それでも彼は受け入れざるを得ないのだ。

 気の毒としか言いようがなかった。


 この世の春、得意満面のミヨネは、ウルライネンに去った。


「わたし、もう王族だから」


 勝ち誇ったように、マタレーナに言い捨てて。





「かわいそうよね、マタレーナ様。もうけっこう、いいお歳でしょう」

「番って、間違いじゃないのかしらね」

「間違いなら間違いで、早く解放してあげないと。嫁き遅れちゃうんじゃない」

「ええっ、もうそうなってるって」


 ミヨネが去ってから十五年。

 最近では聞えよがしに、ひそひそとやられる会話だった。

 何度も入れ替わり立ち替わり現れる神定の番、マタレーナよりはるかに若い少女たちによるものだ。

 ほとんどの少女たちが、入所して三年以内には番に迎えられる。

 ふた月前までは入所して七年が過ぎたという伯爵令嬢がいたけれど、二十歳を迎えてすぐに獅子獣人の国へ王妃として迎えられていた。

 彼女がいなくなった後、二十代はマタレーナ一人きりだ。


「ウルライネンの王族の番なんですって」

「え~! そこまでわかってて、なんでまだここにいるの?」

「それはさ~。むこうだって若い方がいいんじゃない? わざわざオバサンを迎えないでしょ」


 今日は特にしつこい上に、下品に過ぎる。

 語学の個人授業の後、私室へ戻る途中のマタレーナの耳に、少女たちのいやらしい会話が嫌でも聞こえてきた。


「ウルライネンの言葉、まだやってるんだってさ。未練たらしー。もう諦めたらいいのに」

「王族になりたいわ~って、オバサンがんばってるんじゃない?」

「オバサンががんばってるの、イタイよね」

「要らないって言われてるのに、ほんとイタイわ~」


 くすくすと一応小声で、でも聞こえるくらいの音量は意識している。

 昨年か一昨年くらいに、ここへ入所した十四、五歳の平民少女たちだ。


(イタイのはどっちだ)


 十歳以上年の離れた少女たちの無作法に、腹が立たないわけではない。

 けれどその昔ミヨネがそうであったように、彼女たちとマタレーナではよって立つ礼節とか常識の基盤が違うと知っている。

 だからできるだけ、彼女らを視界に入れないように努めている。

 あさましく歪んだ表情を見ると、たまには張り倒してやりたくなるからだ。


 この十五年の間、有り余る時間をマタレーナはありとあらゆる科目の習得にあてた。

 たとえば語学、大陸中の獣人国語はすべて習得済み。

 剣技、護身術は、騎士試験に合格できるほど。

 楽器はハープにリュート、チェンバロ。

 経済学に会計学、地理に歴史にとあげればきりがない。

 そのマタレーナにケンカを売って無事でいられるのは、彼女が自制しているからだ。


(でもたまには、釘を刺しておかなきゃいけないか)


 ぴたりと脚を止めて、少女たちに冷たい視線を送る。

 小柄な少女たちとマタレーナでは、頭一つ分違う。


「うるさい」


 近づいてじろりと見下ろすと、少女たちの顔色が変わる。

 バカはバカなりに、相手の強さが本能的にわかったらしい。


「あ……あたしたちになにかしたら! 番が許さないんだからっ」


 ビビりながらも少女の一人が、ひきつった声をあげる。


「そうなったらその時だ。おまえが心配することではない」


 マタレーナが滅多に使わない貴族らしい言葉は冷ややかで、平民少女たちには十分に効果的だったようだ。

 威圧されてすくみ、震えながら逃げ出して行った。


(だからバカは嫌いだ)


 ちょっと相手が強気に出ただけで逃げる。

 それなら最初から大人しくしておけばいいものを。

 はあとため息をついたマタレーナの背に、聞きなれた声がかけられた。


「なかなか酷い目にあっているね」


 王都の大きな商会に嫁いだ下の姉、アーダの声だ。

 少し離れた庭先で、今の様子を眺めていたようだった。


「ああいうバカが、神定の番だって? 押しつけられる獣人が、気の毒になってくるよ」


 こつこつとヒールの音をさせて、姉は近づいて来る。

 そしてぎゅうっと、マタレーナを抱きしめた。


「もういいんじゃないか?」


 月に一度、面会に訪れるたび姉は同じことを言う。

 金色の豊かな髪を結い上げた彼女は、身分こそ平民ながら豊かな上流階級夫人の威厳が身についていた。


「十五年もここにいてやったんだ。義理は果たしただろう?」


 この十五年、マタレーナの身の周りの世話、そのかかりは姉の夫が見てくれていた。

 普段着に靴、夜着や上履き、ハンカチの一枚に至るまですべてだ。

 彼の愛してやまない妻を悲しませないために、惜しまず最高級のものを与えてくれている。


「お姉さま、お義兄さまには、ご迷惑をおかけして申し訳ございません」

「誰が迷惑だって言った? そんなこと言ってるんじゃない。私はレーナがこれ以上こんなところに縛り付けられるのが、嫌なんだよ。見てられない」


 心外だと声の高くなる姉に、心がほわりと温かくなる。

 マタレーナの得た知識や武術は、外の世界でも通用するものだ。

 王宮官吏登用試験や騎士団試験を受けたいと、所長に願い出たこともある。

 もちろん返事はダメの一言で、それならと姉の商会の手伝いをと願った。

 これもダメ。

 右肩に番紋がある限り、マタレーナはとにかく番を待たなければならないと諭された。


「十五年経って来ないんだ。創造神ヴェルア様も許してくださるはずだよ。あんなバカな小娘に侮辱されて、私のレーナが! それでも残ってやるなんて、いったい誰のために?」


 姉の言うとおり、バカな少女たちに「要らない番」「気の毒な番」「残念な番」などと貶められている。

 十代の少女たちから見れば、そのとおりなのだろう。

 十六歳から二十二歳、人の国での適齢期はこの範囲だ。どんなに遅くともせいぜい二十五歳までと言われている。

 今年二十八歳になるマタレーナは、世間一般的に言えば立派な嫁き遅れだ。


 結婚していないこと自体を、マタレーナは恥じていない。

 結婚で自分の価値が変わるとも思わない。

 けれど自分の意思で結婚できない、生家のための政略結婚すらできないとなれば、話は別だ。

 結婚する、しない。

 マタレーナには、そのどちらを選ぶことも許されないのだ。

 そして外の世界で自立していきることも許されない。

 神定の番だから。

 男子禁制の清らかな場所で、清らかな身でいなければならないんだと。

 これで嫁き遅れと非難されたのでは、たまったものではない。


 そもそもマタレーナは、神定の番になりたいなどと一度も願ったことはない。

 それなのにこれまでじっと、ここで待機してやった。

 我ながら十分忍耐強いと思う。


「お姉さま、わたくしも二十八歳になりました。今度こそここから出ようと思います」

「レーナ、いくらでも応援するから。どんな手を使っても、自由になろう。うちへ来てもらってもいいし、ハカネンのお姉さまのとこへ帰ってもいい。後のことはあらためて考えよう。気が変わらないうちに、すぐに所長と交渉しておいで」


 やや早口で言ってから、姉アーダはマタレーナの両肩を抱いた。


「必要なら肩の番紋を焼いてしまいます。これがすべての元凶ですから」


 口に出してみて、ああその手があったとマタレーナはあらためて気づく。

 神聖だからとか神の定めた印だからと、触れることさえ滅多になかった紋章だ。

 自由に生きたいなら、いっそなくなってしまった方が都合が良い。


(ああ、そうしよう。それがいい)


 ぷつんと、糸の切れる音がした。

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