王都より北へ馬車で半日ほど。
小麦と牧畜でそこそこ豊かな男爵領がある。
パヌラ男爵の領地だ。
そこでマタレーナは暮らしている。
ヴィーチェ・ティア・パヌラ男爵令嬢、それが今の名前と身分だ。
一年前、二十八歳になったマタレーナは所長に退所の希望を出した。
今度こそ出たい。
もしだめだと言われるのなら、この肩にある番紋を焼くと言い出したマタレーナに、パヌラ所長は最後の説得を試みた。
「ウルライネンでは内憂外患続き、落ち着かないのだと聞いています。それであなたのことも、遅れているのではと思うのですよ」
もう少し待ってはどうかと勧められたけれど、「何度も聞いたこと」とマタレーナは一切譲らなかった。
「それもそうですね。あなたの気持ちは理解できます」
結局、所長は折れてくれた。
ふぅと、ひとつ大きな息を吐いて、続けた言葉はドキリとするようなこと。
「そうなるとあなたには、一度死んでもらった方がいいでしょうね」
死んでもらう?
相手の番に渡すまで、神定の番であるマタレーナの身柄は所長の管理下にあるから、勝手に出て行かれでもすればパヌラ所長の責任になる。
まさか本当に亡きものにするつもりかと、マタレーナは身構えた。
笑いながら、パヌラ所長は首を振った。
「戸籍が残っている限り、あなたは神定の番紋をもつ令嬢のままです。どこへ逃げても、きっと連れ戻されるでしょう。それならいっそここで死んだことにして、新しい戸籍を作ってはどうでしょう。そういうことですよ」
「そんな都合の良い戸籍があるのでしょうか?」
「昔、私に夫がいたことはお話ししましたね? 三十過ぎて死に別れたと。その夫との間に娘が一人いたんですよ。流行り病で亡くなりましたけれどね。その子の戸籍、未練が残ってこれまで抹消できずにいます。あなたはヴィーチェ・ティア・パヌラとなって、わたくしの領地へお入りなさい」
もしそうできるなら、マタレーナにとってこれほどありがたい話はない。
けれどバレたら、その時はパヌラ所長にひどい迷惑をかけてしまう。
神定の番を隠す、それも番保護所の所長がとなれば、重罪に問われるのは確実だ。
「所長にご迷惑をおかけすることになるのでは」
「わたくしもあなたの番について、かなり思うところがありますからね。あなたのように優れた女性を理不尽に縛り付けて。幸いわたくしには他に子供もありませんし、もし罪に問われても我が家がなくなるだけで済むはずです。だから大丈夫。安心して、わたくしの娘におなりなさい」
上の姉エルマや下の姉アーダにも、迷惑はかけたくない。
知らせないでおこうかと迷ったけれど、いきなりマタレーナが死んだと聞かされたら姉たちはどれほど驚き嘆くだろう。
やはり事の経緯と事情は知らせておこうと決めて、パヌラ所長のありがたい提案をお受けすることにした。
そしてそれから一年。
今やマタレーナは、北のパヌラ領の当主代理の職についている。
王都で働く母の代わりに、領地の税収を管理して、牧畜や農産業の振興に全精力を傾けている。
地方の小さな田舎だったけれど、田舎にはハカネンで慣れている。
ハカネンでは畑や牧草地にでることはなかったが、今は違う。
積極的に農作業や畜産の作業に出て、領民と共に汗みずくになって働いていた。
二十八歳になってやっと得た、人らしい自由な暮らしだ。
楽しくないわけがない。
橋梁が落ちたと聞けば、資材と資金をねん出して架け替えに走る。
長雨が続けば、秋の収穫量を予想して備蓄の穀物を領内に放出する。
冬の寒さが酷ければ、燃料の調達を秋口から始める。
有り余る時間で学んだ知識を総動員して、この小さな領地の人々が少しでも楽に暮らせるように手配する。
ここでの日々は、マタレーナに生きている実感を与えてくれた。
ここへ来て二度目に迎える春。
若草の萌え出す香りを胸いっぱいに吸い込んで、マタレーナは大きな木の下に寝ころんでいた。
さらさらと葉擦れの音。
白くちらちら揺れる木漏れ日。
風が頬を撫でる感触。
ここへ来るときにばっさりと切った髪は肩口までの短さで、こうして寝ころんでいても邪魔にならない。
(あ~、気持ちいい)
両手を頭の上にあげて、ぐい~っと伸びをする。
身体中の筋肉が伸びて、いっそう気持ちよくなった。
がさり……。
足下で草を踏み分ける音がした。
人の靴音ではない。
もっと軽く、素早い何か。
(犬? それとも鹿かしら)
音のする方を用心深く注視する。
背の高い草を踏み分けて現れたのは、黒い大きな犬?
いや、狼だった。
艶のある黒い長毛に、金の瞳をした美しい狼。
しくじったと、舌打ちしたい思いだった。
(剣を持ってきてない)
襲われた時、戦う武器が手元にないのだ。
(目をそらしてはいけない)
獣に襲われた時の心得だ。かつて剣術の教官を務めてくれた騎士に、そう教わった。
金色の瞳を、マタレーナはじっと見返し続ける。
息をつめて、怖れずに。
数瞬の後、その緊張がほどける。
黒い狼がすとんと、その場に座り込んだ。
(敵意はない)
そう言っているらしい。
よく見ると、黒オオカミは首に大きな何かの包みを巻き付けていた。
薄い茶の包みなので遠目にはわからなかったけれど、近づくとわかる。
(なにを持ってきたんだろう?)
好奇心で近づくと、狼はしゅたりと立ち上がって姿勢を元に戻す。
そしてマタレーナにゆっくりと近づいて、足元にぺたんと伏せた。
狼。
そういえば昔、ウルライネンの獣人の本性は狼なのだと聞いたことがある。
生活するのに便利だからと、普段は人と同じ姿で暮らしているが、その本性はあくまでも狼。
だとすればこの黒狼は……。
「誰?」
マタレーナの問いかけに、黒狼の金の瞳が揺れる。
互いに見つめ合ったのは、わずかの間。
黒狼の口が開く。
「少し待て」
低く掠れた声に、マタレーナは驚かなかった。