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第6話 男爵令嬢になりました

 王都より北へ馬車で半日ほど。

 小麦と牧畜でそこそこ豊かな男爵領がある。

 パヌラ男爵の領地だ。

 そこでマタレーナは暮らしている。

 ヴィーチェ・ティア・パヌラ男爵令嬢、それが今の名前と身分だ。



 一年前、二十八歳になったマタレーナは所長に退所の希望を出した。

 今度こそ出たい。

 もしだめだと言われるのなら、この肩にある番紋を焼くと言い出したマタレーナに、パヌラ所長は最後の説得を試みた。


「ウルライネンでは内憂外患続き、落ち着かないのだと聞いています。それであなたのことも、遅れているのではと思うのですよ」


 もう少し待ってはどうかと勧められたけれど、「何度も聞いたこと」とマタレーナは一切譲らなかった。


「それもそうですね。あなたの気持ちは理解できます」


 結局、所長は折れてくれた。

 ふぅと、ひとつ大きな息を吐いて、続けた言葉はドキリとするようなこと。


「そうなるとあなたには、一度死んでもらった方がいいでしょうね」


 死んでもらう?

 相手の番に渡すまで、神定の番であるマタレーナの身柄は所長の管理下にあるから、勝手に出て行かれでもすればパヌラ所長の責任になる。

 まさか本当に亡きものにするつもりかと、マタレーナは身構えた。

 笑いながら、パヌラ所長は首を振った。


「戸籍が残っている限り、あなたは神定の番紋をもつ令嬢のままです。どこへ逃げても、きっと連れ戻されるでしょう。それならいっそここで死んだことにして、新しい戸籍を作ってはどうでしょう。そういうことですよ」

「そんな都合の良い戸籍があるのでしょうか?」

「昔、私に夫がいたことはお話ししましたね? 三十過ぎて死に別れたと。その夫との間に娘が一人いたんですよ。流行り病で亡くなりましたけれどね。その子の戸籍、未練が残ってこれまで抹消できずにいます。あなたはヴィーチェ・ティア・パヌラとなって、わたくしの領地へお入りなさい」


 もしそうできるなら、マタレーナにとってこれほどありがたい話はない。

 けれどバレたら、その時はパヌラ所長にひどい迷惑をかけてしまう。

 神定の番を隠す、それも番保護所の所長がとなれば、重罪に問われるのは確実だ。


「所長にご迷惑をおかけすることになるのでは」

「わたくしもあなたの番について、かなり思うところがありますからね。あなたのように優れた女性を理不尽に縛り付けて。幸いわたくしには他に子供もありませんし、もし罪に問われても我が家がなくなるだけで済むはずです。だから大丈夫。安心して、わたくしの娘におなりなさい」


 上の姉エルマや下の姉アーダにも、迷惑はかけたくない。

 知らせないでおこうかと迷ったけれど、いきなりマタレーナが死んだと聞かされたら姉たちはどれほど驚き嘆くだろう。

 やはり事の経緯と事情は知らせておこうと決めて、パヌラ所長のありがたい提案をお受けすることにした。



 そしてそれから一年。

 今やマタレーナは、北のパヌラ領の当主代理の職についている。

 王都で働く母の代わりに、領地の税収を管理して、牧畜や農産業の振興に全精力を傾けている。

 地方の小さな田舎だったけれど、田舎にはハカネンで慣れている。

 ハカネンでは畑や牧草地にでることはなかったが、今は違う。

 積極的に農作業や畜産の作業に出て、領民と共に汗みずくになって働いていた。

 二十八歳になってやっと得た、人らしい自由な暮らしだ。

 楽しくないわけがない。


 橋梁が落ちたと聞けば、資材と資金をねん出して架け替えに走る。

 長雨が続けば、秋の収穫量を予想して備蓄の穀物を領内に放出する。

 冬の寒さが酷ければ、燃料の調達を秋口から始める。

 有り余る時間で学んだ知識を総動員して、この小さな領地の人々が少しでも楽に暮らせるように手配する。

 ここでの日々は、マタレーナに生きている実感を与えてくれた。


 ここへ来て二度目に迎える春。

 若草の萌え出す香りを胸いっぱいに吸い込んで、マタレーナは大きな木の下に寝ころんでいた。

 さらさらと葉擦れの音。

 白くちらちら揺れる木漏れ日。

 風が頬を撫でる感触。

 ここへ来るときにばっさりと切った髪は肩口までの短さで、こうして寝ころんでいても邪魔にならない。


(あ~、気持ちいい)


 両手を頭の上にあげて、ぐい~っと伸びをする。

 身体中の筋肉が伸びて、いっそう気持ちよくなった。


 がさり……。


 足下で草を踏み分ける音がした。

 人の靴音ではない。

 もっと軽く、素早い何か。


 (犬? それとも鹿かしら)


 音のする方を用心深く注視する。

 背の高い草を踏み分けて現れたのは、黒い大きな犬?

 いや、狼だった。

 艶のある黒い長毛に、金の瞳をした美しい狼。

 しくじったと、舌打ちしたい思いだった。


(剣を持ってきてない)


 襲われた時、戦う武器が手元にないのだ。


(目をそらしてはいけない)


 獣に襲われた時の心得だ。かつて剣術の教官を務めてくれた騎士に、そう教わった。

 金色の瞳を、マタレーナはじっと見返し続ける。

 息をつめて、怖れずに。

 数瞬の後、その緊張がほどける。

 黒い狼がすとんと、その場に座り込んだ。


(敵意はない)


 そう言っているらしい。

 よく見ると、黒オオカミは首に大きな何かの包みを巻き付けていた。

 薄い茶の包みなので遠目にはわからなかったけれど、近づくとわかる。


(なにを持ってきたんだろう?)


 好奇心で近づくと、狼はしゅたりと立ち上がって姿勢を元に戻す。

 そしてマタレーナにゆっくりと近づいて、足元にぺたんと伏せた。


 狼。

 そういえば昔、ウルライネンの獣人の本性は狼なのだと聞いたことがある。

 生活するのに便利だからと、普段は人と同じ姿で暮らしているが、その本性はあくまでも狼。

 だとすればこの黒狼は……。


「誰?」


 マタレーナの問いかけに、黒狼の金の瞳が揺れる。

 互いに見つめ合ったのは、わずかの間。

 黒狼の口が開く。


「少し待て」


 低く掠れた声に、マタレーナは驚かなかった。



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