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第7話 謹んでお断りいたします

 大きな木の向こうで、ごそごそとなにやら忙しない音がしていた。

 黒狼が身を隠したそこに、今は人の気配がある。

 かちゃかちゃと金具の音がする。


「すまない。待たせた」


 掠れた低い声は、先ほどより小さい。

 マタレーナが見上げた先に、黒髪に金の瞳の美青年があった。

 乱れた髪を無造作にかき上げてから、彼はマタレーナの前に立つ。

 彼が先ほどまでいた木の根元に、茶の布が落ちている。

 それに気づくと、先ほどまでのごそごそ忙しない音の意味がわかったような気がする。


(もしかして、もしかしなくても、あれに着替えを入れてた?)


 大きくていかにも強そうで美しい、黒い狼が首に荷物を括り付けていて、その中身は着替えだったと。

 そう思いついたら、吹き出しそうになった。


(裸ではさすがに出てこられないわよね)


 マタレーナの笑いをこらえた顔に気づいたのか、黒髪の青年は白皙の頬をほんの少し赤く染めた。

 ふいと少しだけ逸らした綺麗な顔が、少しだけ幼く見えた。


(いやいや、何を考えてるの? かわいいなんて思ってる場合じゃない。この人の正体は、たぶんアレよ)


 黒狼から変化した青年の正体など、心当たりはひとつしかない。

 そうであれば、もう今さらなのだ。

 やっと手に入れた自由を邪魔されたくはない。

 マタレーナがそうして、ひとり心の内で考え巡らせている隙に、彼が口を開いた。


「ウルマス・ディア・ウルライネン。そなたの番だ」


 よく響く低音は落ち着いていて、同時にその威風はあたりを払う。

 さすがウルライネンの王。

 思わず淑女の礼をとりそうになって、やめた。


「失礼ですが、お間違えかと」


 マタレーナは名乗りもしない。

 目の前にいるのが誰か、もちろん承知の上だ。

 だから言葉だけはあらためた。でもそれ以上の機嫌をとるつもりはない。


(無礼だと咎めたければ、好きにすればいい)


 番だと名乗ったウルマスを目の前にしても、不思議なことに好きとか嫌いとか、そんな感情らしきものはかけらも感じなかった。

 一目見た瞬間に、「これが我が番」とわかるのは獣人だけだ。

 だからこんなものなのかもしれないが。


(私の番って本当にいたのね。そのくらいは思ったけど)


 これまで何をしていたのかとか、どうしてこんなに時間がかかったのかとか。

 問い詰めるほどの情熱も、彼に対する興味もない。

 ただもう、穏やかにお引き取りいただきたいだけだった。

 けれど彼にはそんな思いなど通じなかったようで、さも心外だと言わんばかりに口調がきつくなる。


「番だと言った。まさか意味がわからないのか?」

「わたくしはそのような、畏れ多いものではございませんと申し上げました」


(違うと言っているでしょう)


 十五年以上も「神定の番」とやらいう、面倒くさくて理不尽な役目につきあってやったマタレーナはもういない。

 ひたすら待たされ続け、若くかけがえのない日々を無駄にさせられて、あげくその間の補償は一切なし。

 それどころか戸籍さえ抹消して、別人の名で生きなければならなくなった。

 ありていに言えば、踏んだり蹴ったりの目にあったのだ。

 ようやく過去を振り切って、生き直そうとしているというのに。

 今さら過去の亡霊に出てこられても、迷惑でしかない。


「俺をごまかせるとでも? そなたは番だ。間違えるはずがない」


 獣人にとって、神定の番は特別なものだという。

 本能に近いレベルで、相手がわかるらしい。

 マタレーナが己の番だと確信しているウルムスに、これ以上の否定は無駄だと悟る。


「では陛下、畏れながらどのようなご用かとお伺いしても?」

「ウルライネンに連れて行く。他になにがある?」


 何を当然のことを聞くとばかりのウルマスに、はっと乾いた笑いを抑えきれない。


「畏れながら陛下、その儀、謹んでお断りいたします」


 正しすぎるほど正しく、教科書どおりの完璧な淑女の礼をしてやった。

 今さらのこのこやってきて、連れて行くなどとどの口が言う。

 過去については問わないけれど、現在と未来の時間に干渉するのはやめてほしい。

 マタレーナは今、独りで十分幸せだ。

 彼の存在など毛ほども必要としていないのだと、なぜわからない。


「まだ仕事が残っておりますので、御前、失礼いたします」


 呆然とする男に背を向けて、マタレーナは屋敷への緩やかな坂道を下った。


(さてどう逃げ切ろう。これであきらめてくれたらいいけど……)


 なにしろ番だから。

 たぶんそう簡単には退いてくれないんだろう。

 マタレーナの気分は重く沈んだ。




 現在の母パヌラ男爵には、ウルマスのことは伝えておいた。

 いまさらのこのこやって来た図々しい男だが、母の立場を思えば知らせないではいられなかったからだ。

 特別に急ぎの早馬を出したのだけれど、母からは何も返事はなく三日が過ぎていた。


「今年は春先から暖かいせいか、牛の乳の出もことのほか良いようです」


 王都で保護所長を務める母に代わって、長い間領主の業務を代行してきた老執事が、喜ばしいことだと報告を上げる。

 酪農業はパヌラ領の主要産業のひとつだ。

 パヌラ領の牛は身体こそ小さいが、こっくりとした濃い乳を出す。その乳で作ったバターやチーズは最高級品として、人の国はもちろん獣人諸国でも高値で取引されている。


「それはなによりね。でもそれは他の領も同じでしょう。しばらくは相場をよく見ておいてね」

「承知いたしました」


 パヌラ領のバターやチーズの購買層は、他領とは違う富裕層だ。

 心配する必要はないかもしれないけれど、供給量が多ければ値は下がるのが市場というものだ。

 もし値が崩れるようなら、乳はチーズに回そう。その方がバターより保存がきくから。


「小麦の出来も良いみたいね。楽しみだわ」


 国内で北に位置するパヌラ領では、小麦は秋に種をまき初夏に収穫する。

 ちょうど前年の小麦が切れかける頃で、パヌラ領の小麦はこれも高値で引き取られるのが毎年のことだ。

 その出来は当然、領地の収入に大きく影響する。

 ありがたいことに今年も順調に育っていて、風にさやさやと揺れる穂の波を、領内のそこかしこで目にしていた。


「しばらく領内は穏やかに過ごせましょう。お嬢様、王都へお出かけになってはいかがですか」


 老執事が王都行きを勧めてくるのは、そう珍しくはない。

 彼にとってマタレーナは、まだ十分に若く美しく、何より聡明な令嬢に見えているらしいのだ。


 領地にひきこもって牛や小麦の心配ばかりしていないで、たまには華やかな王都で娘らしい時間を過ごせば良い。

 そして相応しい伴侶が見つかれば、なおめでたい。


 その気持ちはありがたく嬉しいけれど、王都行きはできるだけ避けたいのが本音だ。

 マタレーナの昔を知る人はほとんどいないけれど、皆無ではない。

 うっかり王都の街をふらふらして、どこで誰に見つかるかもしれない。

 せっかく別人の戸籍まで手に入れたというのに、噂にでもなればあちこちに迷惑をかけてしまう。


「ありがとう。考えてみるわ」


 気持ちだけは受け取ったと、微笑んで答える。


(それに正直なところ、結婚したいと思ってないしね)


 来るか来ないかわからない、番という伴侶に長い間縛られたせいだろうか。

 結婚に対する期待値は、ゼロどころかマイナスになっている。

 仮にマタレーナが万が一にでも結婚したとして、子ができたらどうなるのか。

 パヌラ男爵とは一滴も血のつながりのないマタレーナの子が、この爵位と領地を継ぐことになる。

 それはいかにも不義理が過ぎる。

 行く当てもなく追い詰められていたマタレーナを、パヌラ男爵は娘として引き取ってくれた。その恩をあだで返すことになる。


(いずれ適当な時期に、パヌラ男爵所縁ゆかりの子を迎えよう)


「今日はとても気持ちが良い日ね。部屋にいるのは惜しいから、牛の様子でも見てくるわ」


 そう言って、マタレーナは執務机から離れた。

 不満げな老執事には、気づかないフリをして。


 そして馬を駆って着いた牛舎で、信じられないものを見る。


「え?」


 思わず大きな声が出る。


「あなたがなぜここに?」

「働いているだけだが?」


 薄汚れたシャツの袖をまくったウルマスが、牛舎の床に熊手をかけながら答える。

 それはとても淡々とした口調で、緊張や嘘や、そんな不自然さを全く感じさせなかった。

 乱れた黒髪の先からは汗の粒が滴り落ちて、床にしきつめた干し草を濡らす。

 首に無造作にかけたタオルで額を拭って、彼は作業を黙々と続けていた。


(働くって、おかしいでしょう。ウルライネンの国王が、どうしてそんなに普通に、ここにいるのよ!)


 口元を手で押さえて、マタレーナは声に出そうな問いを必死でこらえていた。

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