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第二章 黒狼の事情

第8話 番は本当に必要か

 狼人の国ウルライネンは、大陸の北の端にあった。

 国土のほとんどを高い山と深い森が占めている。

 世襲の王制を敷いてはいるが、実のところ国王の権威はさほど大きくはない。

 あちこち点在する山を拠点とする貴族たちがそれぞれの所領を統治していて、王はその諸侯連合の長くらいの立ち位置なのだ。

 そんな微妙な立場の王の息子として、ウルマスは生まれた。

 人の国から迎えられた王妃を母として。


「おまえの母は神が私に与えたもうた運命の番、私の唯一だった」


 ウルマスが母を亡くしたのは、まだ七歳の時だった。

 父は棺にとりすがり三日三晩母の側を離れず、涙にくれながらウルマスに言った。

 日ごろ厳めしく近寄りがたい父が見る影もなくやつれて泣き崩れる様は、おさな心にも怖ろしくて、この世の終わりが来るのではないかと思ったものだ。

 嘆き悲しむ父にかける言葉もなく、小さなウルムスの背を支えてくれたのは叔父のミスカだった。

 父とは年の離れた兄弟で、確かウルマスより七歳年上だ。

 人の国から嫁いだ王妃を除き、王族の男子は黒髪に金の瞳を代々受け継いでいる。その王族の中にあって、叔父だけは銀の髪に同じ色の瞳をしていた。


「私は次男だからね。神のご加護を受けられなかったんだよ」


 別に残念だとも思わないとなんでもないことのように口にする、ウルマスの自慢の叔父だ。

 その叔父は十四歳で、一般的にはまだ少年と言って良い。

 それなのに彼は自分よりずっと幼い甥を悲しみから守ろうと、両腕に抱きしめてくれた。


「ウルマス、つらいだろうができるだけ早く平常にもどるんだ。それが陛下とおまえ、両方の無事のためだよ」


 ぶるぶると小さく震えるウルマスの腕をとって、父が泣き崩れている棺の間から連れ出してくれた。




 人目を避けた中庭のガゼボ、ミスカはそこに温かいミルクを用意させてウルマスに薦めた。


「落ち着くよ? 飲んで」


 こくんと頷いて、ウルマスは大人しくミルクを口にする。

 蜂蜜で甘くしてある。

 じんわりと身体が温かくなるのを、ウルマスはどこか他人の事のように感じていた。


 「陛下はもう長くはないだろう。その傍でおまえまで泣き崩れていたら、次代の王の器にあらずと諸侯たちには良い口実だよ。すぐに分裂を始めるだろうね。そうしてはいけないんだ。わかるね?」


 ミスカの「わかるね?」は、わかりなさいという意味だ。

 七歳であっても王族とくに世継ぎの王子なら、子供でいることは許されない。


「はい、叔父上」

「いい子だね」


 神定の番である伴侶を失えば残されたもう片方は悲しみにくれて正気を失い、やがて後を追う。

 獣人であれば皆知っている、神定の番に関する言い伝えだ。


「おまえがもう少し大きくなるまで、兄上には頑張っていただきたいのだけど。あの様子では難しいかな」


 十四歳になる叔父は、ウルマスには周りにいる誰よりも信頼できる大人に見えた。

 癖のない銀色の髪は幼いウルマスの目にもとても美しく映る。


(こんな綺麗な人はいない)


 周りにいるメイド、触れ合う機会の少なかった母やその侍女たちよりも、はるかに叔父は美しいと思っていた。


(それにとてもお強い)


 ウルマスに初めて剣を握らせたのは、叔父ミスカだった。

 七歳上の彼は近衛騎士を相手にして楽々叩きのめしてしまうほどの腕で、十三歳の時には初陣を勝利で飾ったのだという。

 ウルマスの父はやや神経質で、母はとても大人しい人だった。仲の良い夫婦だったのだろうが、両親とウルマスとの間にはいつも見えない壁があった。

 広い王宮で独りぽつんとしているウルマスに、優しい声をかけてくれたのは叔父ミスカだ。

 母がいなくなって悲しくないわけではないが、ミスカがいなくなることの方が怖かった。


「ウルマス?」


 ミルクのカップ越しの視線に気づいたミスカが、小首を傾げてウルマスの言葉を促しているようだ。


「大丈夫です。叔父上がいてくださいますから」


 頭に浮かんだ思いはいろいろだったが、要約するとこうなる。

 もし父が倒れたとしても、叔父さえいてくれれば安心していられると思う。


「それはとても光栄だけどね。いいかい、ウルマス。そんなに簡単に人を信じてはいけない。君は王太子で、次の王になるんだからね」


 叔父にだけだ。ウルマスがこんな無条件に信頼するのは、ミスカだけ。

 父もその周りの諸侯も、ウルマスは信じていない。

 誰も彼も都合の良い王太子しか、求めていない。


(わかっている)


 胸の内の思いを口にはしない。

 素直に笑って、頷いて見せた。


「はい、叔父上。心に刻みます」

「いいこだ、ウルマス」


 ミスカに褒められると、とても嬉しかった。




 母の葬儀後そう時間をおかずに、ウルライネン国内は乱れた。

 妃亡き後の国王はすっかり気力を失ったようで、外面そとづらを取り繕おうともしていない。

 元々カリスマ性など持ち合わせていない王だったから、諸侯が離れるのはあっという間のことだ。

 諸侯はおのおのの領地にひきこもり、王城への伺候も滞りがちになる。

 寂れた王都の治安は悪くなり、同時に景気も悪くなった。

 王の権威が失墜すれば、王権もまた不安定になってゆく。

 やる気のない王に代わって王弟ミスカが孤軍奮闘しているが、衰え始めた王権の勢力を取り戻すのは簡単ではない。


「ウルマスはよくやってるよ。これならいっそ、退位してくれたらいいんだけどね」


 王太子に必要な帝王学、ミスカは自身の目で必ず成果を確認する。

 厳しい口頭試問を続けて、満足しなければ再履修を言いつけるのだ。

 今夜も遅くにミスカは訪れた。その目の下には、うっすらと黒い大きなクマがある。

 口頭試問の出来に満足したらしいミスカが、珍しく弱音を吐いたのだ。


(叔父上、かなり疲れてるな)


 叔父をこれほどに疲れさせる無能な父を、ウルマスは憎らしく思う。


「陛下にそのおつもりはないようだよ。息子に譲位なされば、好きなだけ神定の番つまのことを思えるんだ。何がお気に召さないんだろうね」


 まだまだ未熟ではあるが、帝王学を修め始めたウルマスには叔父の言いたいことが少しは理解できた。

 やる気のない王は、いるだけ邪魔なのだ。傀儡にできるなら良いが、父の場合はそれもできない。自尊心だけは高いのだ。

 それなら幼いウルマスが王位についた方がはるかにマシだ。

 ウルマスが王になれば、幼さを理由に摂政をつけられる。

 当然叔父ミスカがその地位につくだろうから、叔父の自由度は今より格段に上がる。


「叔父上の思うようにしてください。それがどんなことでも、私は支持します」


(幽閉、たとえ弑逆であってもです)


 ウルマスの思いは伝わったようで、ミスカの銀色の瞳が優しく笑ってくれた。


「ありがとう、ウルマス。では時がきたら、そうさせてもらうね」


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