馬車も馬もない。
うまく街を出て走り出したのは良いけれど、明け方の冷たい空気に、喉と肺が痛む。
朝霧の田舎道は左右の低木のほかに、道の先がどのくらい続いているのかも見通せない。
そんな中を軍人基準の速さで走らされるのには、無理がある。
セトはあのあとすぐに合流したジノヴィに腕を引かれていたが、引きずられるようにして無理矢理足をとめた。
息が上がってお腹が痛い。
ジノヴィが何か怒鳴っているけれど、耳に入らない。
「このまま走り続けるなんて、無茶だよ、ジノヴィ」
軍人に挟まれたセトを庇って、シェナも息をあげながら不機嫌な声を上げる。
ほんの少し遅れて追いついたアルヴァが、そのままの勢いでセトの胸に飛び込んだ。
「アルヴァ? ……なに……どう……」
「良かった…………セトさんで」
泣きそうな少年の小さな笑顔に、つられて、小さく笑む。
セトは息を整えながら、アルヴァの金髪を撫でた。
リーオレイス人二人は酷い態度だし、味方になってくれそうなのはシェナとアルヴァだ。
何か喋りたいところだが、息を整えるので精いっぱいだった。
「魔女の姿でいれば、湖まで走り抜ける事くらい、造作も無いだろう。何故その姿に戻った」
ジノヴィはそういって冷たく見下ろしてくる。
その隣で、レギナが腕を抱えて膝をついた。リーオレイス人のレギナでさえ、堪えるほどの強行軍だ。
空気が、痛い。
もう走りたくない。
――些細なきっかけで、小さなこだわりで、自分で自分を苦しめるもの。
占い師だったから、よく知っている。他人事として、よく知っていた――。
「僕は、魔女じゃない」
強い声に驚いたのは、ジノヴィだけではない。
自分の声に自分で驚いた。
けれど、息を整えながら、そのまま言葉を続ける。
「君達がどういう理屈で僕が魔女だと決めつけるのかなんて知らないけど、僕は魔女になった覚えは無いし、男だよ。それを散々関係ない人も巻き込んで迷惑かけて……村ひとつ滅ぼして。最初から人違いだって言ってるのに、どうしてそう、石頭なんだい。……その石頭を作っているのが帝国っていう場所なら、そんなものは、世界に、必要ない」
低い音が口から溢れてくる。
これが、物凄く怒っている、という事だろうなと思う。
怒りの矛先は目の前の人間ではなくて、帝国だ。ジノヴィは帝国に従っているに過ぎない。
ジノヴィは大きくため息をついて頭を掻きむしった。
「お前は、魔女だ。自分でそれを認めなくても、俺とアルヴァは魔女になったお前と会っている。覚えが無いと言うのなら、手前の山の上で自分が何をしたか、どうやって山を降りたか言ってみろ」
「そんな理屈なんて知らないよ。君達の解釈はどうでも良い。僕は、僕だ」
セトは疲れきった身体を奮い立たせて、脚を踏み締める。
だが次の瞬間、後頭部の近くで金属の鈍い摩擦音がした。
首に巻いた魔法装具が、青白い反応を浮かばせて視界に入る。シェナの手元から伸びた鋼糸が、頭の後ろで剣頭を停止させていた。
レギナの小さな舌打ちが間近に響く。
「どうして邪魔するのシェナ。貴女も、魔女が支配する世界が、嫌いだって、言ってたわよね」
そういってレギナは鋼糸に絡み取られた短剣を強く引いた。
レギナの体調が万全ならばシェナぐらいは引き倒せたのだろうが、片腕の激痛がそれを阻む。
「そうかもね。だけど、さっき言ったよ。ボクは今のセトを……これから一緒に大儲けする予定の、大事な相棒を、黙って殺させるつもりは無いよ」
レギナが言葉の意味をとりかねた一瞬、シェナは少しだけ鋼糸を緩める。サッと間合いに入って拳を入れ、この手負いの軍人を無力化した。
「裏切るのか、シェナ!」
大きく威嚇するように剣を抜いたジノヴィの声に、苦しさが滲む。
「裏切るも何も、味方だとは言ってないね。ちょっと一緒に行動した事がある位で、アンタ達に飼い馴らされたような覚えは無いな」
憎まれ口を叩きながら、シェナはじりじりと後退る。
レギナは手負いだったから良かったものの、ジノヴィは怪我ひとつしていない。
奇襲ならシェナの得意分野だが、この帝国軍人と手合わせをして勝った人間の話は、聞いた事が無い。
ふわりと、青白い光が満ちる。
『風よ 我が意に従え!』
セトの魔法で突然巻き上げた砂塵がジノヴィの視界を一瞬奪った。
その隙にシェナの短剣が膝に突き刺さる。素早さは削った筈、とシェナの鋼糸がジノヴィを巻き取ろうするも、ザっと低い姿勢から長剣を繰り出してきたジノヴィに、一瞬息をのんだ。
避けられない。
「ぐっ……!!」
ドッと背中が地面に押し付けられる。
なぜか、迫っていた筈の長剣が、宙を舞い、ガランと地面に落ちるのが見えた。
黒い、人間の形をしたものが、シェナの立っていた場所にまっすぐに立っている。
「……危険な事をする」
髪も服も黒で統一された、背中。
だがどうやって剣を叩き落したのか分からないのは、単に角度の問題ではない。
彼は腕をかばったジノヴィを前に、何の武器も持っていなかった。