リューファス王の望む聖杯は、ベスタルの守り火そのものと繋がる重要な遺物。
これが失われることは、部族の象徴そのものを奪われるに等しい。
「リューファス殿は、我らを軽んじるおつもりか? ベスタルと火守りの使命を! 首長たちも黙ってはおりませんぞ」
ベスタルの族長は毅然として立ちふさがる。
私の父である族長は、半島の東部の部族を束ねる長だ。
火守りの巫女たちの力を背景にしながら、実権を掴んでいる。
リューファス王とて、無視できないのは確かだった。
「軽んじるつもりはないが、ベスタルの聖杯が今では単なる飾りに過ぎないことは理解している。聖なる火の受け皿として使われていたのは、過去の話。今は、奥深くに封じられているだけなのだろう?」
「単なる飾りと申されたか。それは我らの歴史と誇りを否定するも同然だ。聖杯をただの遺物だと思うなら、触れるべきではない。火の加護はそれを真に理解する者だけに与えられるもの。さもなければ、その炎に身を焼かれるだろう」
族長に追従して、周囲の巫女たちが声を潜めてうなずいた。
神殿の空気は張り詰め、炎の揺らめきすら影を潜めるようだった。
しかし、リューファス王は一歩も引かない。
「信じる者だけが与えられる?世迷言を」
「世迷言ですと? 貴殿、どういうつもりか!」
「力自体に意志などない! 意志を持つ者が力を振るうのだ。よしんば、結果この身を焼かれたならそれも良かろう。余がそれまでの男だったと言うことよ」
「『聖なる火』には大いなる意志が宿っている! それは矮小な人間如きには理解できぬ、深遠なものなのだ、それすらもわからんのか。若造がッ!」
とうとう堪忍袋の緒が切れたのか、ベスタルの族長は言葉を荒げた。
実際、戦争となれば、リューファス王とてただでは済まないだろう。
ましてや、ここはベスタルの地。命の保証はない。
「フン、本当にそう思うのなら、何を恐れているのだ? 結局のところ、相応しい者であれば聖杯を手に出来るというだけのことであろう。余が試練に挑むこと自体を、邪魔するのは理屈が通らぬではないか」
それでもリューファス王は、態度を崩さなかった。
大いなる存在からの怒りも、恐れるには値せず。
目に映るものを単なる現象や生物と断じて、我を貫くことに躊躇いがない。
彼の瞳が、神殿に響く言葉と同じだけの熱を宿して私を捉えた。
確かに偽りのない情熱があったが、同時に何かが引っかかった。
自分の運命を変えられると信じる無謀さ。
私が最も滑稽に思っていたものを、彼は全身で体現していたのだ。
自然と私は、歩み寄っていく。
間近で、王を一瞥した。
黄金の髪と青い瞳は、光の中で異様なほど鮮やかだった。
彼が真剣なのはわかったけれど、それが自己満足のための冒険心に過ぎないのか、民のための覚悟なのか、それとも野心に駆り立てられた愚行なのか、それがわからなかった。
「リューファス王」
私は彼に向かって口を開いた。
「この神殿の秘宝に触れるということが、あなたの求める結果だけをもたらすわけではない。それが引き起こす可能性を、あなたは理解しているのでしょうか?」
王は私に視線を向けると、なぜか目を細めた。
私がまだ幼く見えることに驚いているのか、それとも巫女たちの中で異彩を放つ存在だと感じたのかは分からない。
「今度は、運命の重みを語る巫女か。だが、それがどうした?この半島が蛮族や大国に吞み込まれるのをよしとするか。限られた領土で民が飢えと病によって、苦しむのを是とするか。余は王である。必要なものがそこにあるのなら、ただ手に入れるまで」
一瞬胸の奥がざらつくような感覚が走った。
なぜか、影の囁きが示した「見えぬもの」を彷彿とさせた。
たとえ運命の筋書きがあるとしても、人はそれに抗うために生きるのだとでもいうのだろうか。
「あなたが求める試練は、ただ力の証明ではないわ」
私は歩み寄りながら、彼を睨むように見上げた。
「それは、この神殿のすべてを背負い、意味を知る覚悟を試すもの。あなたが触れたせいで、起きてはならぬことが起きるかもしれない。想像を絶する破滅がもたらされるかもしれない。それを理解しているのですか」
族長ですら知らないのだ、ベスタルの滅びの未来については。
リューファス王は一瞬言葉を止めた。
しかし、警告を一笑に付す。
「余に覚悟を問うか、小娘。そんなもの行動で示してやる」
ああ、なんて不遜な男だ。
胸の奥に湧き上がる期待とも不安ともつかぬ感覚。それは生まれて初めてのものだった。
「ならば、証明するがいい」
私は、無意識に言葉を発していた。
族長も巫女たちも驚いてこちらを見たが、私は構わず続けた。
「リューファス王、この試練を超えることは、ただ力を持つだけでは不可能」
私は一歩前へ進み、重厚な扉を指し示した。
試練の間へと続く、封印された扉を。
「聖杯はただの器ではない。あれは、この神殿の最奥にあえて『封じられた』のだ。貴方が本当にそれを得るべき者であれば、火は道を開くだろう。だが、偽りがあれば――」
そこから先は言葉にする必要もなかった。
炎がすべてを暴くことを、彼もまた理解しているようだった。
「フッ、それで良い」
すると、ひとりでに神殿の奥へ続く扉が重々しく開かれる音が響く。
『聖なる火の神殿』それ自体が、リューファス王が試練を受けることを認めたのだ。
扉の向こうからは、冷たい風が吹き込んできた。
風は静けさの中に微かな音を含み、まるで何かがこちらを伺っているかのようだった。
ベスタルの族長は苦虫を噛むような顔で沈黙し、他の火守りの巫女たちは遠巻きに見守り、跪いてただ祈りを捧げ始めた。
それらに一切、関心を向けず、リューファス王は扉へと歩み寄った。
背中には、彼の国を背負う者としての自負が垣間見えた。
傲慢である一方で、リューファスには確かな熱があり、その熱さは私の心の奥底を揺さぶり続けている。
「ヘカーティア、だったな」
突然、彼が振り返り、私の名を呼んだ。
名乗った覚えはなかったが、向こうも私の噂を耳にしたことがあったのだろう。
「お前はその目で何を見る? 余が試練に挑む姿をどう見るのだ?」
「私は――」
言葉が詰まる。
何も答えられなかった、この私が。
そのまま戸惑っていると、言葉を重ねる隙もなく、背中は扉の奥へと向かっていった。
誰もが頭を垂れて、私の言葉を待つと言うのに。
リューファスは最後まで、私の予言を何一つ必要としていなかった。