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第33話 (幕間)ヘカーティア③

 結果から言えば、リューファス王はわずか半日で帰還した。


 リューファス王が姿を現した時、その鎧は焦げ、全身は煤けていた。

 それでも、青い瞳には曇り一つなく、その手には、確かに聖杯が握られていた。


 族長も巫女たちも、驚愕と畏怖の入り混じった表情を浮かべている。

 神殿の伝承によれば、この聖杯を手にすることができるのは、聖なる火に選ばれし者だけだった。


「見よ!」


 王が高らかに聖杯を掲げた。

 堂々とした声は神殿の奥深くまで響き渡り、人々のざわめきが止む。


 おそるおそる、ベスタルの族長が王の前へ進み出た。

 現実を認めたくない族長は、不信感を露わにしながらも、とうとう口にした。


「……リューファス殿、聖なる火があなたを認めたということか」

「そうだ、ベスタルの族長よ。さて、我々はこれからについて話し合わねばならない。そうだろう、我らは、聖なる火に宿る『大いなる存在』の意思を全うせねばならぬからな」


 リューファス王が不敵に聖杯を掲げる姿には、王としての風格を漂っていた。


 だけど、私―ヘカーティア―はその笑みの裏に潜む企みの色を見逃さなかった。


(いくら私でも、欲に駆られた人間の顔くらいはわかるわ。見慣れてるもの)


 ――聖杯を得た者が、聖なる火を背負うことを許される。

 しかし、試練を超えた今もなお、リューファス王は『聖なる火』を信じていない。


 巫女たちの祈り、族長の信念、そして神殿にあるとされる深遠な意志。

 その全てが、リューファス王にとっては政治のための小道具でしかなかった。


(火に選ばれたくせに、そこに何も感じてない人間がいるなんて。なら、それを崇める私達はなんなの?)


 気づいた瞬間、あまりのばかばかしさに笑ってしまった。


「ヘカーティア」


 王は私の名を呼んだ。

 歩み寄り、自信と勝利が宿る瞳で私を見つめた。


 弾む声。子供染みた表情、得意げに歪む口元。


「余がこの聖杯を手にした姿を、そなたはどう見る? 試練を超えた余がどう見える?」


 再び投げかけられた問い。


 燃えさかる炎の光が、王の手に握られた聖杯の曲線を照らし出していた。

 聖杯の輝きは神々しいものだったが、どこか空虚さも漂わせている。


 直接、目にすることで私は理解した。


 これは、持ち主を不幸にする因果を寄せ集めるものだ。己を満たせと飢えている。


(こんな歪んだ存在が神殿の秘宝とされていたなんて。本当に、聖なる火の受け皿が、これだったと言うの?)


 疑問が沸き起こったが、この胸中を口にするわけにはいかなかった。

 気を取り直して、王に向き直る。


「恐れながら。私には、貴方様が少年のように見えます」

「不敬な奴め。勝ち取って来たのだから、まずは褒めたたえるがよい」


 リューファス王は私の言葉に一瞬眉をひそめたが、軽薄な笑みへと戻した。

 私は静かに首を振った。


「王よ、私は貴方様を否定しているわけではありません。ただ、聖杯を手にしたことで、何かが変わったと思うのなら、王はまだ多くのものを見誤っています」


 リューファス王は笑いを止め、わざとらしく興味があるように装った。

 聞く耳くらいなら持ってやると言うことだろう。


「フム。では言ってみろ、余が何を見誤っているというのだ?」


 私は一歩前へ進み、王の目をじっと見つめた。

 王の瞳には確かに情熱が宿っていたが、それ以上に感じられたのは、勝利への渇望だった。


(この欲はわかりやすい。私にもわかる。なんだ、期待外れね)


 だから、私は失望を込めて教えてあげた。


「貴方様は確かに試練を超えました。しかし、その代償として何を失ったのかを、まだ理解していないように見えます」


 王の眉が再び動いた。

 だが今度は、不快よりも、戸惑いの色があった。


「代償? 何を失ったと言うのだ?」

「それを知るのは、これからです。貴方様自身が答えを見つける時が来るでしょう」


 彼が手にした聖杯は、力だけでなく、試練の連鎖をもたらすだろう。

 その連鎖がどのような終焉を与えるのかまではわからない。少なくとも、破滅が早まりはするだろう。


(でも、なぜ火がこの男を認めたんだろう? そんな価値は無さそうなのに)


 私が疑問に首を傾げていると、リューファスは指摘した。


「一つ、そなたは勘違いしている。聖杯を手にする前も後も、余は何一つ変わらぬだろう。変わったのはそなたたちの態度だ。試練を達成したのを見て、新たな思い込みを被せているのだ」


 リューファス王は率直に言っただけという風だったが、なおさら胸に深く刺さった。

 確かに今の私は、いずれこの男は破滅をするのだから、浅はかに違いないと決めつけているだけだ。


 反論するべきか迷っていると、王のどこか達観したような視線に戸惑った。

 心の揺らぎを、見透かされている気がした。


「確かに私は、貴方様をどう見るかで迷い続けていました」


 結局、私は静かに認めた。


「貴方様が、試練を超えた先の結果が、未来が少しわかった。だから、その答えが決まったのだと思った。でも、それがただ私自身の期待や不安から来ているものだとしたら……」


 リューファス王の前で、心の矛盾が暴かれる感覚に、私は耐えられそうになかった。

 だが、彼はあっさりと止めた。


「もう良い。ヘカーティア、それが人だ。全ての者が、目の前の事象に自分の感情や想いを重ねているだけだ。そして、余はそれを否定しない。むしろ、それを活かす」

「活かす?」

「そうだ。そなたたちが余に投影する期待も、恐れも、全て力になる。だからこそ、余は何も変わる必要がない。ただそこに在り、貫き続けるだけでよい」


 確固たる自信と、悟りめいた潔さが感じられる態度。

 挑発的な言葉で締めくくられた。


「そなたがどう思おうと、余は余だ。だから、安心して膨れ上がる幻想を楽しむがいい」


 私は思わず息を呑んだ。


 リューファス王は、他者に期待されること、恐れられること、誤解されることすら、自らの武器として受け入れていた。彼なりの人心掌握術。

 それはきっと、確固たる自己があるからこそ、出来ること。


「それでも。あなたは遠からず、破滅します。……私はそれを見届けます」


 私はそう言うしかなかった。

 彼の言葉に反論する術はなく、ただその背中を追い続けるしかないように思えた。


「そうしろ。そなたもまた、余の力となるだろう」


 立ち去るリューファス王の声は落ち着いていて、私の動揺すらも計算に入れていたかのようだった。


 彼の姿が、神殿の火の中で揺らめくのを見ながら、私はこの先に何が待つのかを、初めて怖いと思った。

 だが同時に、知りたいとも思った。


 火は彼を認めたかもしれない。


 だが、果たして彼が火を認める時が来るのだろうか。

 私はその答えを知ることができる唯一の観察者であるように感じていた。

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