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第32話 己で選ぶことの重み

 メッツァは、震える手を必死に制御しながら、最初の石板『海』に触れた。冷たい石板は予想以上に重く、ずっしりとした存在感を感じながら押しこむ。


「次は……『狼』」


 3枚目の石板『山』を選んだ瞬間、部屋全体が震え始めた。天井の星図が突如輝きを増し、砂時計に纏わりつく炎が苛烈に燃え上がる。メッツァは本能的に目を閉じた。


「くっ!?」


 炎が次第に勢いを失い、砂時計の砂が静かに止まる。重厚な扉が軋むように開き、灼熱の波が和らぎ、冷たい外気が一気に流れ込んだ。


 マフェットが軽く口笛を鳴らした。


「やるじゃない、研究者さん」


 ダムとディーが顔を見合わせた。


「はあ、寿命が縮んだ」

「そうね、ダム。ああ、ディーはシャワーを浴びたいわ」


 ほっとしたメンバーは口々に安堵の言葉を漏らす。


 安堵の表情を浮かべるメンバーたち。メッツァだけは、崩れ落ちそうな膝を必死に支えながら深く息をついた。額から滴る汗、背中にへばりつくシャツが不快だった。


 心臓は未だに荒々しく鼓動している。震える手を見つめれば、無数の細かな傷と土埃が目に入る。その手は、大学で研究をしていた自分とは違って思えた。


 マルシャがそっと近寄り、小さな声で言った。


「本当にすごいです、メッツァさん。あの難しい謎を解けるなんて……」


 兎人の娘の耳がぴんと立ち、尻尾が嬉しそうに揺れている。その純粋な姿に、メッツァは複雑な感情に包まれた。


 心の奥底では、薄氷の上に立つような気持ちだった。石板の組み合わせは理論的には正しいはずだが、それでも自信を持ってみんなの命を賭けることなんて出来なかった。


 「まあ、知ってる知識でなんとかなっただけだよ」と力なく答える。


 リューファスが肩越しに冷ややかながら満足げな視線を送ってくる。

 「少なくとも貴殿は、600年前においてもこの先を進むに値する男であることは証明された」と、静かに言葉を紡ぐ。


 メッツァは彼の無表情な顔を見つめ返しながら、何かを言い返そうとしたが、口をついて出る言葉が見つからなかった。沈黙を、マフェットの明るい声が破る。


「いやー、劇場の一幕みたいだったねぇ。次もこういう謎解きだったら、また活躍してね。研究者さん!」


 マフェットの冗談に、ダムが苦笑いを浮かべる。


「勘弁してよ。もっと分かりやすく立ち回りたいわ」

「そうね、ダム。次は、涼しくてお茶が出てくる部屋がいいわ」


 ディーが軽く髪をかき上げながら言うと、一同が短く笑った。笑い声が、長い緊張の糸を解きほぐすように空間に響く。


 しかしメッツァだけは、まだ心のざわめきを抑えきれていなかった。


 仲間たちの解放感とは対照的に、一歩離れて自分の手を見つめる。

 そこには、ほんの少し前の自分にはなかった「選んだ」という手ごたえが残っていた。


「選んだ、か……」


 メッツァは呟き、手を一度強く握りしめた。


 その瞬間の選択が、彼には重く、そして恐ろしく感じられた。一つ間違えば、仲間全員の命を奪っていたかもしれない。


 次なる試練への回廊は、歴史の息吹を伝える石壁に囲まれていた。


 剥落した部分があるにもかかわらず、壁画は古代の物語を静かに語りかけてくる。

 賢者たちの熱い議論、古代の戦士が神々に拝して勇敢さを誓う姿が生き生きと描かれていた。

 思わず、見入るメッツァ。


「この壁画、研究ノートに記録できたら、学術的に大きな意味があるだろうな」

「研究者さん、今そんな余裕あるの?」


 マフェットが肩越しにからかうように声を投げかける。

 後ろを歩くダムが小さく鼻で笑った。


「確かに。生きて帰れるかわからないのに、記録なんて」


 ディーは冷静に、「でも、ダムとディーは生きて帰るわ」とだけ返した。


 一方で、リューファスは相変わらず冷静だった。

 扉の向こうをじっと見据え、その顔には次なる試練を迎える覚悟のようなものが漂っている。彼のその態度に、メッツァは妙な苛立ちを覚えた。


「ねえ、リューファス」


 思わず声をかけると、リューファスが振り返った。深い蒼の瞳が静かにこちらを射抜く。


「どうして、あのとき助け舟を出さなかった? キミなら最初から正解を知っていたんだろう?」


 リューファスはしばらく何も言わず、考え込むように視線を落とした。そして、口を開く。


「余が告げた答えで先に進み、居心地の悪さを感じながら、次の試練に進むか。それが、次なる戦いに影響しなかったと言えるか?」

「それは……」

「貴殿は己の価値を知るべきだ。民衆や他者からの評価ではなく、己自身の評価を得るべきだ」


 返答に詰まる。

 リューファスの言葉には、妙に説得力があった。

 それでも、自分一人に全責任を押し付けられるような状況は、正直なところ不満でしかなかった。


「僕、キミの家臣にだけはなりたくないよ」


 メッツァは思わず反発する。


「600年前に生まれなくて本当に良かった。こんな無茶振りを延々と押し付けられるのは、正直たまらない」

「フフ、そう思うか?」


 会話は不自然なまでに中断し、リューファスは迷いなく前に進み続ける。


 メッツァの頭の中で、リューファスの言葉が反芻される。


 己の価値を知り、自らを評価する――それは、これまでの研究者としての彼には全く新しい視点だった。

 成果や論文、他人の評価ばかりを気にしてきた自分。しかし、それがこの旅では通用しない。


「メッツァさん?」


 マルシャの不安げな声に我に返る。


「ごめん。行くよ」


 回廊の先に広がったのは、広大な空間。


 高い天井は闇に溶け込み、壁には燃え尽きた松明や彫像が等間隔に並ぶ。巨大な闘技場のような円形構造だ。


「ム? いない、な」


 リューファスが眉を顰める。

 かつて存在したはずの守護者の姿がない。600年前とは明らかに異なる状況だった。


「かつては炎で形作られた巨人がいたのだがな」


 周囲を警戒しながら進み出るリューファス。


 ダムとディーの姉妹は槍を構え、リューファスの後ろに身を寄せる。彼女らは既に、リューファスを盾にするのが最も安全な戦略だと理解していた。


 他のメンバーも、離れすぎない程度に後を追う。


 最初に気付いたのはマルシャだった。兎人の耳が急激に立ち、背筋に冷たい悪寒が走る。


「待って! なにか、上から……!」


 全員が一斉に上を見上げる。


 天井から、白い毛皮に覆われた巨大な影が、まるで重力を無視するかのように舞い降りてきた。爪が石を掻く音、反射する光、鋭く曲がる首、無骨な肉体。


 マルシャは震える声で叫んだ。


「あれは、兎人の英雄の辿った末路……俊敏で伸縮する首を持つ、恐ろしい怪物! 燻り狂える白獣バンダースナッチ! 」


 巨大な白い獣は低い唸り声を上げ、一行を獲物のように見据えていた。眼差しには、野生の凶暴さと殺意が宿っていた。

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