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第49話 果たされた約束

 静寂が訪れた。


 否、それは刹那的な錯覚に過ぎなかった。

 神殿に満ちた濃密な瘴気が、悲鳴のように蠢いている。


 ヘカーティアの穏やかな微笑みが、場の異様さを引き立てていた。


「陛下、私の愛しいお方。……今のあなたには私がどう映っていますか」


 その問いかけに、リューファスは思わず笑みを漏らした。


 かつて自らが投げかけた言葉が、今は逆となって響く。


 妻が異形の神となった事実を前にしても、自失のまま膝をつき続けることはできない。

 そう悟った時、自然と込み上げる感情があった。


 瓦礫を振り払い、ゆっくりと立ち上がる。

 身体は鉛のように重く、心は汚泥のようだ。


 ――それでも、リューファスは前を向いた。


(この女の前でだけは。余は、王であらねばならん。あの時と変わらぬ姿を見せねばならぬ)


 胸の奥で、何かが熱く昂る。


「久しぶりだな、ヘカーティア。……相変わらず美しい」


 無様に薄汚れて、手負いでありながらも、リューファスは誇り高く胸を張った。

 不敵な笑みを浮かべる。そう、自分はこういう男だった。


 すると、ヘカーティアは、呆然とした表情を浮かべた後、はっと我に返った。


「リューファス王、わざわざお越しいただき、光栄に存じます」


 その仕草には、昔日の気品が残されていた。

 距離を感じさせる返答に、リューファスは懐かしさを覚えて頷く。


「……まさか、余に怒ったか? わかっている。待たせすぎたのは、悪かった」

「おや、私の心を気にしていただけるのですか?」

「そなたに会えば、心を気にせずにはいられなかった。――何もかも。そうだ、何もかも、よくやってくれた」


 自分の死後の出来事など知る由もない。

 だが、妻が託されたものに全てを懸けて応えてくれたことだけは、確かだった。


 そこにあった苦悩も、許されざる行いも、全ては肯定されるべきものだと信じていた。


「街並みを見てきた。想像もつかないほど賑わう場所で、昼夜を問わず明るく、理解を超えた進歩の跡があった。列車とやらにも乗ったぞ、あれは驚いたな」

「……そうですか」

「すべて、そなたの成し遂げたことだな。方法など想像もつかぬ。……だが、食事はたいしたことがない。そなたと過ごした晩餐の方がよほど優れていた。茶も同じだ。品質はよくとも、味わいが足りぬ」

「ケチの付け方が理不尽すぎます。……茶と政治まつりごとを同列に並べないでください」


 冗談めいていたが、リューファスの明け透けな態度には本心が滲んでいた。

 もう二度と、共にお茶を楽しむ時は訪れない。


「どう成し遂げたか、とおっしゃいますか。ベスタルの地の周辺に呪いを集めたのです。東方の汚染が深すぎたため、全てをここへ。誰かが呪いを制御できれば、私の子たちが上手く采配してくれました」

「――そのために、兎人族の剣士に何度も殺されたのか」

「邪竜としての私は、世を滅ぼしかねませんでしたから、丁度よいことでした。長く健在であれば、私こそが第二の黒龍となっていたでしょう」


 代償として、敵対する諸侯の領地や、亜人たちの住む森と山々は呪詛に沈んだ。兎人たちは躍起になって、ヘカーティアを滅ぼそうとした。

 ヘカーティア自身、己が何度、ヴォーパルの兎人の殺されたかは数えきれていない。


「自身の弱体化を図り、ほとんどが夢見心地な時間でしたから。そうでなければ、精神も持たなかった。……陛下の石像を保管したのも私です」


 リューファスがペルホの廃教会に眠ることさえ、呪詛をヘカーティアが吸収するための必然だった。

 あまりに深すぎる呪詛は、蘇生可能になるまでに取り込む時間を要した。


 やがて、ベスタル家は呪詛研究の頂点に立ち、汚染除去と動力化の技術を極めた。


 首都とペルホを地脈で結び、都市発展の力となるよう魔力を送り込んだ。それが魔装列車の路線となることは、ヘカーティアの未来視でさえ捉えられぬ結果だったが。


「道を繋ぐことは、得意でしたから。でも、完全には癒えなかったのですね。お顔の傷が、左目も……。あれほど美しい青色だったのに」

「ほう、傷の醜い男は嫌いか?」

「あなたの、その……すぐに冗談めかしてしまうところは、嫌いかもしれません」


 リューファスが自信に満ちた銀眼を煌めかせると、ヘカーティアは言葉を詰まらせた。


「そなたが本当に嫌がるのなら、慎むこともできる。……嫌われたくは、ないからな」


 どこかリューファスは、すっかり安堵してしまっていた。


(余は、恨まれているとすら思っていた。身勝手さに巻き込み、放り出したようなものであったのに)


 それがさらにヘカーティアの心を揺らしたのか、彼女は僅かに目を伏せて呟いた。


「そんなに、軽く許せるものではありませんよ。私が何年待ったと思っていますか?」

「どんな『お願い事』でも聞こう。それを叶える覚悟は、既に決めてきた」


 その言葉に、ヘカーティアは静かに息を呑んだ。

 瘴気渦巻く神殿の空気が、一瞬だけ凍りついたかのようだった。


「覚悟、ですか……。ならば、王としての覚悟を見せていただけますか?」


 ヘカーティアが腕を広げると、周囲の影が再び蠢き始めた。

 それは単なる亡霊ではなく、かつてリューファスと共に戦場を駆けた将兵たち、東の地を守るために、ヘカーティアが犠牲にしてしまった民衆たちがあふれ出てきた姿だった。


 恨みと怒りの渦巻く瞳で、彼らは各々の武器を手に王に向かい合う。


「これが私が背負ってきたものです、リューファス王。それを超える覚悟があるのなら――その剣で示してください」


 ヘカーティアは透き通る大剣、石床に突き刺さるヴォーパルブレードを指し示した。


 リューファスは目を見開いた。

 未だに、王として立ち続けろと。もはや治める国すらないというのに。


「そなたが望むなら、余は――」


 ――ここで朽ち果てても構わない。共に深淵の中へ沈もう、と、そう続けようとした。


 600年待ち続けてくれた女に、返せるものがあるとすれば、それしかないと思えたから。

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