静寂が訪れた。
否、それは刹那的な錯覚に過ぎなかった。
神殿に満ちた濃密な瘴気が、悲鳴のように蠢いている。
ヘカーティアの穏やかな微笑みが、場の異様さを引き立てていた。
「陛下、私の愛しいお方。……今のあなたには私がどう映っていますか」
その問いかけに、リューファスは思わず笑みを漏らした。
かつて自らが投げかけた言葉が、今は逆となって響く。
妻が異形の神となった事実を前にしても、自失のまま膝をつき続けることはできない。
そう悟った時、自然と込み上げる感情があった。
瓦礫を振り払い、ゆっくりと立ち上がる。
身体は鉛のように重く、心は汚泥のようだ。
――それでも、リューファスは前を向いた。
(この女の前でだけは。余は、王であらねばならん。あの時と変わらぬ姿を見せねばならぬ)
胸の奥で、何かが熱く昂る。
「久しぶりだな、ヘカーティア。……相変わらず美しい」
無様に薄汚れて、手負いでありながらも、リューファスは誇り高く胸を張った。
不敵な笑みを浮かべる。そう、自分はこういう男だった。
すると、ヘカーティアは、呆然とした表情を浮かべた後、はっと我に返った。
「リューファス王、わざわざお越しいただき、光栄に存じます」
その仕草には、昔日の気品が残されていた。
距離を感じさせる返答に、リューファスは懐かしさを覚えて頷く。
「……まさか、余に怒ったか? わかっている。待たせすぎたのは、悪かった」
「おや、私の心を気にしていただけるのですか?」
「そなたに会えば、心を気にせずにはいられなかった。――何もかも。そうだ、何もかも、よくやってくれた」
自分の死後の出来事など知る由もない。
だが、妻が託されたものに全てを懸けて応えてくれたことだけは、確かだった。
そこにあった苦悩も、許されざる行いも、全ては肯定されるべきものだと信じていた。
「街並みを見てきた。想像もつかないほど賑わう場所で、昼夜を問わず明るく、理解を超えた進歩の跡があった。列車とやらにも乗ったぞ、あれは驚いたな」
「……そうですか」
「すべて、そなたの成し遂げたことだな。方法など想像もつかぬ。……だが、食事はたいしたことがない。そなたと過ごした晩餐の方がよほど優れていた。茶も同じだ。品質はよくとも、味わいが足りぬ」
「ケチの付け方が理不尽すぎます。……茶と
冗談めいていたが、リューファスの明け透けな態度には本心が滲んでいた。
もう二度と、共にお茶を楽しむ時は訪れない。
「どう成し遂げたか、とおっしゃいますか。ベスタルの地の周辺に呪いを集めたのです。東方の汚染が深すぎたため、全てをここへ。誰かが呪いを制御できれば、私の子たちが上手く采配してくれました」
「――そのために、兎人族の剣士に何度も殺されたのか」
「邪竜としての私は、世を滅ぼしかねませんでしたから、丁度よいことでした。長く健在であれば、私こそが第二の黒龍となっていたでしょう」
代償として、敵対する諸侯の領地や、亜人たちの住む森と山々は呪詛に沈んだ。兎人たちは躍起になって、ヘカーティアを滅ぼそうとした。
ヘカーティア自身、己が何度、ヴォーパルの兎人の殺されたかは数えきれていない。
「自身の弱体化を図り、ほとんどが夢見心地な時間でしたから。そうでなければ、精神も持たなかった。……陛下の石像を保管したのも私です」
リューファスがペルホの廃教会に眠ることさえ、呪詛をヘカーティアが吸収するための必然だった。
あまりに深すぎる呪詛は、蘇生可能になるまでに取り込む時間を要した。
やがて、ベスタル家は呪詛研究の頂点に立ち、汚染除去と動力化の技術を極めた。
首都とペルホを地脈で結び、都市発展の力となるよう魔力を送り込んだ。それが魔装列車の路線となることは、ヘカーティアの未来視でさえ捉えられぬ結果だったが。
「道を繋ぐことは、得意でしたから。でも、完全には癒えなかったのですね。お顔の傷が、左目も……。あれほど美しい青色だったのに」
「ほう、傷の醜い男は嫌いか?」
「あなたの、その……すぐに冗談めかしてしまうところは、嫌いかもしれません」
リューファスが自信に満ちた銀眼を煌めかせると、ヘカーティアは言葉を詰まらせた。
「そなたが本当に嫌がるのなら、慎むこともできる。……嫌われたくは、ないからな」
どこかリューファスは、すっかり安堵してしまっていた。
(余は、恨まれているとすら思っていた。身勝手さに巻き込み、放り出したようなものであったのに)
それがさらにヘカーティアの心を揺らしたのか、彼女は僅かに目を伏せて呟いた。
「そんなに、軽く許せるものではありませんよ。私が何年待ったと思っていますか?」
「どんな『お願い事』でも聞こう。それを叶える覚悟は、既に決めてきた」
その言葉に、ヘカーティアは静かに息を呑んだ。
瘴気渦巻く神殿の空気が、一瞬だけ凍りついたかのようだった。
「覚悟、ですか……。ならば、王としての覚悟を見せていただけますか?」
ヘカーティアが腕を広げると、周囲の影が再び蠢き始めた。
それは単なる亡霊ではなく、かつてリューファスと共に戦場を駆けた将兵たち、東の地を守るために、ヘカーティアが犠牲にしてしまった民衆たちがあふれ出てきた姿だった。
恨みと怒りの渦巻く瞳で、彼らは各々の武器を手に王に向かい合う。
「これが私が背負ってきたものです、リューファス王。それを超える覚悟があるのなら――その剣で示してください」
ヘカーティアは透き通る大剣、石床に突き刺さるヴォーパルブレードを指し示した。
リューファスは目を見開いた。
未だに、王として立ち続けろと。もはや治める国すらないというのに。
「そなたが望むなら、余は――」
――ここで朽ち果てても構わない。共に深淵の中へ沈もう、と、そう続けようとした。
600年待ち続けてくれた女に、返せるものがあるとすれば、それしかないと思えたから。