瘴気が霧散し、次第に怨嗟の声が遠ざかる中、ヘカーティアの上半身は力なく倒れ、裂けた紫蛇の群体に半ば埋もれていった。
血肉で汚れながらも、ヘカーティアの唇には安堵の微笑が浮かんでいた。
「よかった……あなたは変わらないのですね、リューファス王」
使命を果たせたことへの心の緩みを、ヘカーティアは漏らした。
――元通りのリューファスと再会は出来るのか、きちんと元に戻せたのか。
「わたしが変わり果ててしまったように、あなたもそうならないかなんて、わからなかった。ふふ、だって、わたしは人の心が見えないんだもの」
本当に重荷を下ろし、終えた。
晴れ晴れとしていて、今にも消えてしまいそうなほど、満足げな笑顔だった。
ふわりと、闘技場の外縁に黒衣の巫女たちが現れる。
彼女たちは水晶剣セレスティンと同質のオーラ、即ち魂の炎で形作られた幻影だった。大勢の巫女の幻影が、リューファスとヘカーティアを見下ろしていた。
「これは?」
トゥイードル冒険者のパーティらが驚愕して、辺りを見渡す。
ダムとディーの目の前に、佇んだのは双子姉妹とそっくりな女性だった。
慈愛に満ちた柔和な佇まいの婦人は、眩しいくらいの満面の笑みを見せる。嬉しそうに、婦人は口にした。
《あら、わたしの夢は叶っていたんだわ》
「……あんた、誰よ」
ダムは不機嫌そうに言い返した。
混乱したディーは姉に、ぎゅっと寄り添う。
蘇生を繰り返してきた双子姉妹に、もはや過去の記憶は残っていない。
双子姉妹は記憶を互いに
が、元の自分と呼べる連続性は薄れ、確かなのは『大事な姉妹』という認識だけだ。
「よくわからないけど、ディーに近づかないで」
素っ気なく、ダムは突き放した態度をとった。
見ず知らずの婦人が、クスクスと笑ってから、今度はメッツァに向き直る。
《お願いね》
頼まれたメッツァは、切なげに目を伏せた。
鼻眼鏡をスッと直すと、高台から降りてヘカーティアの元へと向かっていく。
外縁の朽ちた造形物が魂の炎に包まれ、大きな鏡として形を取り戻す。
四方に現れた鏡が中央へ光を放ち、ヘカーティアを照らし出しす。すると、胸の奥に核となる『ベスタルの聖杯』が、浮かび上がった。
聖杯とは名ばかりの黒曜石のように艶めく歪な結晶。金色のメッキで覆われていたそれは、600年の月日で本来の姿を取り戻している。
最奥で封じられていた歪みの神器そのものだった。
駆け寄ったメッツァは、息も絶え絶えのヘカーティアを見下ろすが、何も口にしない。
言葉を唾と共に呑み込んでから、続いてリューファスへと目を向けた。
そこにあったのは、メッツァの知らない顔だった。
いつも嬉々として戦う、自分勝手な英雄の姿は、もうそこにはなかった。それでも、メッツァは言わねばならなかった。
「このままではヘカーティア様へのトドメが叶わない。呪詛を無尽蔵に貯めこんだ聖杯を、彼女から切り離さねばならないんだ」
「なぜ、そんなことがわかる」
妻を更に痛めつけろというのか、声に押し殺した怒りが滲んでいた。
「今、この聖杯は呪いを力へと変換している。それを流し込み、ヘカーティア様を邪竜へ戻そうとしている。彼女はそれを必死に抑えているけど、耐え難い苦痛のはずだ」
「だから! なぜ、そんなことがわかるッ!」
「虚数演算宝珠は『ベスタルの聖杯』を元に創られた『安定した廉価版』――そして、僕がベスタルの子孫だから、だよ」
思わず、リューファスは息を呑んだ。
己の石化を解き、共に冒険をしたこの若者が、自分の血を引いている、と。
暗い表情のメッツァは、それでも決意に満ちていた。理不尽な宿命への覚悟を、既に固めていたように。
「きみの水晶剣でなら、多分それが出来る。わかるでしょ」
これをしなければ、ヘカーティアは永遠に死ねず苦しみ続ける。それがメッツァの結論だった。
「やってくれ、リューファス。僕が
苦しげな喘ぎが聞こえる。
ヘカーティアは自らの死のために、不死性を抑え込もうとしていた。
なんという強さか。心の制御を緩めれば、いつでも楽になれるというのに。
「あなたに消えない
「ヘカーティア。余は、お前のことを、お前と共にッ」
「やめて、揺らがないで。ごめんなさい、私が見たくないの。……そんなあなたを見たくないの。お願いだから、言わないで」
ヘカーティアは、何度も首を振った。
自らの決意が揺らぐのを、防ごうとするように。
その想いが本音ではないと指摘できれば、どれほど楽だったことか。
だが、それこそがヘカーティアの決意を踏みにじる行為だった。
「もう、本当はかつての自分の姿も思い出せない。今の私は、巫女たちの記憶からの再構成にすぎないの。……お願い、わずかでも美しいと思ってくれたのなら、そのままの私を心に」
邪竜となった彼女の本質は、もはや人ではない。
最期には必ず、世に禍をもたらす存在となる。
たとえ、リューファスと共に眠りにつこうとしても、必ず肉体と魂を貪る。リューファスへの想いという枷を失えば、世界を食い尽くす怪物と化すだろう。
だからこそ、跡形もなく滅するしかない。
喉の奥から絞り出すように、リューファスは囁いた。
「ならば、なぜ余を蘇生させた。これでは、そなたに何も返せていないではないか」
「もう、十分よ。……あなたと再会したら、どんな言葉をくれるのかなって」
未来に再会の可能性を見たからこそ、ヘカーティアは耐えられた。
だが、その先は怖くて覗けなかった。
声が震え、纏っていた神の威厳が崩れ、人としての儚い哀しみが溢れ出す。
「色んな事を想像したわ。罵られるの? 恐れられる? それとも交わす言葉もなく殺されるの? 邪竜だもの、当然よね。醜いと思われるかしら、あなたの目にどう映るのかしら? ああ、会いたいのに、全てが怖かった!」
瘴気さえも、動きを止めたかのように凪いでいた。
「それでも、ただ会いたくて。会いたくて、数えきれない命を踏みにじり、この地を呪いの中心にした。託されたものを繋いだことを、ただ、褒めて欲しかった」
その告白に、リューファスの胸は締め付けられた。
怒りでも悲しみでもない。胸の奥から溢れたのは、深い喪失感と愛惜だった。
「だから、欲しかった言葉は、もうすべて貰ったわ」
そんなことを言われてしまえば、もう贈れる言葉はリューファスにはない。
目を瞑り、ヘカーティアは見た夢を思い出す。永い永い夢。
また、巡り会いたい。燃え尽きることはわかっている。
でも、どんな未来が見えてもきっと同じことをする。愚かだと思った有様の、その生き方を何度でも、ヘカーティアは選びたいと思った。
確かに、未来は目に映ることが全てじゃなかった。
「もう一度、やり直せても、あなたと会いたいわ。……ライ、あなたの妻に」
リューファスは微笑んだ。
今、その名を呼ぶのはあまりにも、
「余の……生涯、忘れられない女となれ。ヘカーティア」
そして、『
――確かな手ごたえが、そこにあった。
灰のように消えゆく、異形の女神。世界に禍をもたらす邪竜。
美しく、いつも意地を張っていた愛しき妻。
それを見つめることしかできず、目を離すこともできないまま。
力なく立ち尽くすリューファスの耳に、かすかな声が届いた気がした。
(生涯消えない
それは錯覚か。
気まぐれな風のように、何も残らない。香りすらも。
「ひどく、残酷なことを言う。だが、許そう。そなたが600年も想い続けてくれたならば、余の一生など安いものだ。余は……そなたの『お願い事』を一度だって――」
それ以上、言葉を紡げなかった。
ただ、深い嗚咽が漏れた