――それから、2週間後。
メッツァは、滞在先のホテルで研究論文の執筆に没頭していた。
カリカリとペンを走らせる音が響き、時折、資料を捲る音が混じる。鼻眼鏡の奥の瞳には疲れが滲んでいた。
フィンダール共和国北部、エミーロヴァの朝は穏やかだった。
開けた窓の外からは、初夏の柔らかな光に満ちている。空気は澄み渡り、ひんやりとした感触が心地よい。
此処は、首都よりさらに北、人気の避暑地であった。
窓の外には、街を割るミルケ川がゆったりと流れ、陽光をきらめかせていた。遠くにはアイアンウッドの森の暗緑が続く。
レンガ造りの重厚な建物が立ち並び、石畳の道が整然と走っている。
通りには、馬車と紫煙を吐き出すゴーレム車両が行き交っていた。
同室に、護衛でもあり、旅の相棒でもあるリューファスは、窓から差し込む朝の光を浴びながら、テーブルで朝食をとっている。
金髪を丁寧に梳きつけたリューファスは、彫刻のような端正な顔立ちながら、実直な男だ。その健啖ぶりは、既に良く知っていた。
テーブルの上には、パン、チーズ、ハム、卵、そして大きなマグカップに熱いお茶。食べ物が所狭しと並べられている。
リューファスは香ばしいパンを大きくかじり、塩気の効いたハムをゆっくりと咀嚼し、熱いお茶を静かに啜る。
時折、口いっぱいに頬張るものの、その所作にはどこか品格が漂っていた。
メッツァは思わず、ちらりと視線をやる。
(相変わらず、よく食べるな……)
内心で呆れながらも、メッツァは視線を原稿に戻した。
ヘカーティアの一件から二週間。リューファスは以前と変わらぬ様子で、旅を続けている。
リューファスは以前より落ち着きを取り戻したように見える。長く滞在しているこの街に、やや退屈さを滲ませているようにも見えた。
しかし、メッツァは、事件後と比べて、上手く言い表せない違いを覚えていた。
さて、メッツァが取り組んでいるのは、『ベスタルの炎の神殿』と『ベスタルの聖杯』に関する事実関係の論文だった。
しかし、建国者の一人が邪竜と化し、夫の蘇生のために呪詛汚染を操作していた過去は、公にできる話ではない。
(あるいは、さらに数百年先には……まあ、その頃には僕は死んでるけど)
大半は、書いただけで表に出せない論文になるだろう。
出せる部分は、怪物を倒して『聖なる火の神殿』を探索した事実と、『ベスタルの聖杯』を手に入れたことだ。
見聞きしたものを、選別しても、価値のある記録になるだろう。
とは言え、目立たぬために首都を離れたことを思えば、発表は本来の目的を損なうことにはなるのかもしれなかった。
(それでも埋もれさせたくない。事件の記録と、それに付随する論文の執筆。アレは本当にあったことなんだ)
ヘカーティアを倒した後、巫女たちの幻影はすべて消え去り、神殿は完全に力を失った。言ってしまえば、大きな墓地と何ら変わらなくなってしまったのだ。
トゥイードルの冒険者たちは、あっさりとたいした説明もなく事務的な話を終えると立ち去った。
兎人の娘マルシャは、名刀タリアエルバを受け取ると、丁寧に礼を述べてから、ハレを背負って里に帰っていった。
あまりにも、簡素な別れだった。
メッツァは思い返してため息を吐いた。
大学や知人の手紙と共に、決して安くはない金額が記された『トゥイードル冒険者事務所 ダミアナ&ディーラエ』からの請求書が届いていた。
実名を聞いた記憶は無かったが、ダムとディー、あの双子姉妹の名前なのだろう。
廃教会ペルホでの、トゥイードル一行との出会いが、メッツァを冒険へと巻き込んだ。
「……さすがに目が疲れたな」
窓の外に目をやり、メッツァはまたため息をつく。
「依頼を請けた経過を、ペラペラ話すのは確かにプロとは言えないかもしれないけどね」
つい、メッツァがぼやくと、咀嚼を終えたリューファスがマグカップをテーブルに置いた。
軽い金属音と共に、豊かな茶葉の香りが微かに漂う。
「何の話だ?」
リューファスは眉をひそめ、不思議そうに尋ねた。
「ああ、トゥイードルの冒険者たちのことだよ。彼女たちが、僕たちを見つけた経緯についてね。結局、何も教えてくれなかっただろう? 『奥方様からの依頼だ』としか。そもそも、マフェットが『聖なる炎の神殿』の最奥にヘカーティア様が待ってると言わなければ、あの冒険は無かった」
メッツァはペンを置き、背もたれに身体を預けた。鼻眼鏡の位置を指で軽く押し上げる。
「確かに、今となってはありえぬことにも感じる。しかし、実際に、ヘカーティアは神殿の奥にいたのだから、まるきり嘘と言うわけでもあるまい」
「納得できる話なの?」
「さてな。マフェットはアラクネであり、蜘蛛の女王『紡ぐ者クロト』の眷属。600年前に、ヘカーティアがアラクネのいずれかと面識があっても何もおかしくもない」
つまり、アラクネの女王『紡ぐ者クロト』が、本当にヘカーティアから依頼を請けて、600年越しに依頼を果たしたのではないか。と、リューファスは考えを述べた。
それは人間を基準にした時間感覚では、到底理解しがたいものだ。
「自分の奥さんのことなのに、なにも把握してないの……?」
「余はヘカーティアの保護者ではない。四六時中、妻を監視するつまらぬ男に見えるか?」
「……いや、そうではなく」
メッツァは、小さく肩を竦めた。
確かに、リューファスの
しかし、だからと言って、妻の過去や行動について何も知らない、というのはいささか無頓着すぎるのではないか、とメッツァは内心で思った。
「いや、そもそもきみは当時、王だったわけで。なら密かに――」
その時、控えめに扉をノックする音が響いた。