強烈な気配。殺気よりも静謐で、命の営みを忘れた何者かが這い寄ってきたような。
リューファスも気づいたのか、眉間の皺を深くし、朝食を残したまま静かに立ち上がる。
「失礼いたします。ライ・ユーファス・セレスティアヌス様、並びにメッツァ様にお会いするために参りました」
扉越しの声は、性別すら感じさせない無機質な響きだ。
「……入れ」
扉がゆっくりと開かれると、黒い装束に身を包んだ一団が現れる。整然と並び立つその姿は、まるで黒い壁だ。
空気が張り詰めたが、敵意は感じられない。
「失礼いたします」
隊列の一人が頭を下げる。
「ベスタル家当主、コレー様がお見えです」
影のように従わせるその中心に、現れたのは一人の少女。
傍らには、漆黒の毛並みを持つ堂々たる犬が付き従っている。
少女の年頃は、メッツァよりも幾つか年下に見えた。
絹のように滑らかな黒髪は、光を吸い込むように艶めき、顔立ちは無垢な陶器のような儚さを湛えている。
幼いながらも整った造作は、どこかヘカーティアを思わせた。
だが、繊細なレースとフリルをあしらった淡い水色のドレスに、黄色い水仙の髪飾り。愛らしい刺繍の手袋と飾り付きの革靴。その装いは、流行の最先端を行くものだった。
「……コレー様」
メッツァの声は硬く、隠しきれない苦手意識がにじんでいた。
「あら、久しぶりね、メッツァくん。元気にしていたかしら?」
少女、コレーの声は鈴の音のように澄んでいた。だがその響きには、見た目にそぐわない重みと凛とした力が宿る。
「陛下に置かれましては、ご機嫌麗しゅうございます。わたくしはベスタル家の現当主を務める、コレーと申します」
儚げな睫毛の奥に潜む瞳が、リューファスを吟味した。
「ベスタル家……ヘカーティアの残した家系の現当主か」
「はい。わたくしどもは、あの方によって創始された家柄でございます。同時に、あなた様の血筋を引く、正当な後継者でもあります。……あら、お食事中でしたか?」
「構わん。腹を満たしている間にも、敵は攻めてくるものだ」
「……それは、少々残念な物言いですね」
コレーは小さく肩を竦めた。幼さと大人びた落ち着きが、不気味な調和を醸し出す。
「わたくしどもは、あなた様を敵と見做してなどおりませんのに。むしろ、歓迎すべき再会かと」
「余が、ヘカーティアを討ったと知っての上か?」
リューファスの挑発的な声に、僅かな悲しみが混ざった。
「無論、承知しております。それどころか……」
コレーはわずかに首を傾けた。
「――あなた様がそこに至るよう、手を回したのは我々ベスタル家でございますから」
リューファスの表情が硬くなる。メッツァも顔をしかめたが、言葉を挟まなかった。
「どうぞ、お座りになってください。お話ししながらお茶でも……」
「いらぬ。毒が入ってるかもしれんだろう」
「まぁ、毒なんて……そんなことを、あなた様に言われるとは思ってませんでした」
そこでコレーは初めて感情らしい感情を見せた。傷ついたように瞳を揺らす。
従者たちが椅子を運び入れ、場を整えてからリューファスたちも椅子に座り直した。
コレーはその様子を見届けると、小さな手で丁寧に茶葉を扱い、湯を注ぎ始めた。静かな客室に、湯の音だけが響く。
「本日は、お話があって参りましたの」
「話、だと?」
「ええ。陛下をお目覚めさせるのは、我らの悲願でもありました。わたしの代でそれを為せたのは、幸運と言うべきなのでしょう。代々の当主は、ヘカーティア様から始まり、わたくしの代に至るまで欠かさず記憶の継承を行い、この日のために尽力してきたのです」
「つまり、そなたはヘカーティアの記憶を有している、と?」
「はい。ですが600年の月日を経た、この再会の感覚を言葉にするのは難しい。父親に会えた娘のようでもあり、夫に会えた妻のようでもある。あるいは、物語の憧れの人物に出会えたような、ああ、言葉とはなんともどかしい」
茶葉がお湯で解れ、
「ですが、お話せねばならないのは過去のことではなく、未来のことです。ところで、メッツァくん。あなたの論文と記録、どうするべきかはもう決まっていますよね? …ふふ、わたくしが適切に扱わせていただきますね」
「はは、やっぱり僕の口封じに来たのか」
「人聞きの悪い。メッツァくんは役目を果たしてくれました。聖杯を『虚数演算宝珠』で封じる任務には、数理魔術師が最適だったのです。きちんと正当な評価をお返ししましょう」
「へえ? コレー様でも、オリジナルには分が悪いのかい?」
「分が悪いなんて、レベルではありませんね。精神が触れあえば、自他境界が崩壊する可能性がありました」
メッツァは礼儀正しい態度を保ちながらも、その目は怒りを隠せていなかった。
最初から最後まで利用されていた事実は、耐え難いものだった。
「論文と記録は、修正を加えた上で発表しましょうね。これはきみの手柄ですから」
「昔から、僕を子供扱いする態度が好きじゃない」
「いえ、日頃から感心していますよ。普通の人間にしては、よくやっている」
コレーはメッツァにお茶を差し出し、そして感慨深そうに間を置いてから、リューファスへともう一杯を差し出した。
「どうか、飲んでいただけませんか?」
リューファスは差し出された茶碗をじっと見つめた。
立ち上る湯気は、甘く、どこか懐かしい香りを運んでくる。それはかつて、ヘカーティアが淹れてくれた茶に酷似していた。
――否、これは同じ香りだ。
「……これは」
リューファスの声は、僅かに震えていた。
「お気づきになりましたか? これは、わたくしがあなた様のために、あの頃、淹れていたお茶ですよ。色々なものを飲んでいただきましたが、一番気に入っていたのは、この」
「黙れ。そなたがヘカーティアのフリをするな」
リューファスの脳裏に、様々な記憶が蘇る。共に過ごした日々、交わした言葉、そして最期の別れ。その全てが、この茶の香りに乗って鮮やかに蘇る。
「あら、毒が怖いのですか? ふふ、ほらこの通り」
先に口を付け始めるコレー。悪戯めいた年相応の声でからかってくる。
リューファスは歯を食いしばった。抗うように目を伏せたが、手が自然と伸びた。
僅かに指先を震わせながら茶碗を持ち上げた。一口啜る。温かい液体が喉を通り過ぎ、体の中に染み渡っていく。甘く、懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。
瞼を閉じたままのリューファス。暫しの沈黙が必要だった、
「……確かに、美味い。だが、やはり毒が入っているな。郷愁と言う名の、心の毒が」
「それは、光栄です。と言っておきましょう」
コレーは満足げに微笑んだ。