体育祭の種目決めが行われた翌日の早朝、僕は新たなタスクである朝練に参加していた。
部室で着替えてピッチに出ると、すでに多くの部員がボールを蹴っていた。かなりの人数だが、これでも全員が揃っているわけではない。
栄成サッカー部は大所帯ゆえ、朝練もチームごとに実施曜日が分けられている。さすがに130人以上が一同にプレーするスペースは存在しない。
また指導陣とマネージャーも不参加で、上級生のチームリーダーが全体の監督役を務めている。メニューは、ボールコーディネーションと『1対1』などの対人系がメイン。個人技の向上にフォーカスしている。
実施に際してはチームの垣根なく行われるため、上級生との貴重なコミュニケーション機会としても機能している。
僕はだいたい玲音や陰キャ同盟のメンバーと行動しているけれど、白石くん派閥のメンバーなどは積極的に先輩たちと絡んでいた。
以降、全体を通して1時間ちょっとで朝練は終了となる。短時間ながら集中して体を動かすので、トレーニング自体はわりとハードだ。
着替えるため部室にもどるや、僕は鼻をつまむ。ボディシートや制汗スプレーを皆が一斉に使うものだから、とんでもない臭いが室内に充満するのはもはや恒例である。
「だんだん暑くなってきたな。パンツまでべっちょりだ。仕方ない、フルチンで授業を受けるか」
「いや、それは倫理的にどうなの……?」
危ない発言をする玲音は、いつもと違う爽快系フレーバーのボディシートを使っていた。こんな些細な変化からも、徐々に迫る夏の気配を感じ取れる。
雑談に興じつつ制服に着替え、遅刻しないよう早足で教室へ向かう。続いて僕は、どうにか眠気と戦いながら授業を受けた。
そうして、迎えた昼休み。
「兎和くん、授業中ほとんど寝てるみたいね? ダメよ、ちゃんと先生のお話を聞かないと」
「あ、その……朝練に体がまだ慣れなくて」
お弁当を手にD組へやってきた美月と顔を合わせるなり、僕はやわらかい口調でたしなめられる。
以前は早朝ランニングを日課としていたので、早起きは苦にならなかった。しかし高校に入ってからはしばらくご無沙汰で、どうにも睡眠不足が否めない。だから、朝練に慣れるまでは大目に見てください……。
それはさておき、近頃は美月もお昼に同席するのが当たり前になった。今も定位置である僕の隣に座り、慎や三浦(千紗)さんと雑談に興じながらお弁当を食べている。
勉強会の開催が決定したあたりから、彼女はこうして週の半分くらいの頻度でD組を訪れている。もう半分はクラスの友人たちと過ごしているらしい。
相変わらず周囲は騒がしいものの、注目度は以前よりはいくらか低下している。勇気あるクラスメイトが探りをいれてきたとき、美月が「千紗ちゃんと仲良しなの」と答えてとりあえず納得させたのだ。
そのため、この場にいる『四人組』は今や珍しい組み合わせではなくなっている。
個人的にも楽しい時間を送れている。ただし美月への情報ホットラインが強化された点については、なんとも困った問題だ……今回はたしかに僕の授業態度が悪かったので、甘んじてお叱りを受けるのだが。
そんなこんなであっという間に放課後となり、僕は再びトレーニングウェアに着替えて人工芝のピッチに立つ。
部活サイドでは、トレーニングプランの更新が行われた。より実戦を意識したメニューが多く盛り込まれ、最近は新たな『チーム戦術』の習得に重点が置かれている。
「まずは『ハイプレスの基本』を再確認するぞ!」
練習中盤に差し掛かり、永瀬コーチがホイッスルを吹く。次いでピッチに立つDチームメンバーの注目を集めながら解説を行う。
「みんな約束事は覚えているな? ディフェンスに切り替わって最前線がボールを追いかけ始めたら、それを合図に全体が連動してプレスを開始すること! ディフェンスラインも高めに設定しろよ。でないと間延びして中を取られるからな」
ベースフォーメーションは、依然として『4-2-3-1』を採用している。だが相手のビルドアップ時にはハイプレスを実行すべく、2列目のトップ下(OMF)とCFが横並びになり、一時的に『4-4-2』へと可変する。それを合図に、全体で連動して網を張っていくのだ。
実際の手法は、こう――起点として、OMFとCFが連携して相手ボールホルダーにプレスを開始。その際、上手くポジションを取ってパスコースを限定しながら任意のサイドへ追い込む。そこで連動するSHなどが加勢して相手を囲み、一気にボールを奪取する。
パスやドリブルなどでプレスを回避された場合、すかさずリトリート(自陣へ引く)してきっちり守備ブロックを形成する。
「次は、うちがビルドアップ時に行うシステム変更についての復習だ。いま集中的に取り組んでいる『偽SB』の概要は、皆しっかり頭に入っているな?」
現代サッカーでは守備が高度化しており、単純なマッチアップだけでは相手を崩すのが難しい。ゆえに、数的および位置的な優位性を確保する手段として、様々な攻撃のメカニズムが考案されている。
そして現在の栄成サッカー部では、永瀬コーチの発言にもあった『偽SB』というビルドアップ戦術が導入されている。
端的に表すと、『DMFのどちらかが1列前に上がり、その空いたスペースにSBが絞ってきて中盤化する』といった可変システムである。
いくつかパターンはあるが、基本的にはボールを持たない方が中盤へ入る。逆に中へ絞らなかった方のSBは最終ラインに吸収されるので、上空から俯瞰すると『3-2-2-3』のフォーメーションが形成される。
この可変式ビルドアップが、現代サッカーのハイプレスに対する回避策として有効に機能する。
最終ラインから中盤にかけて数的優位を演出し、ボールホルダーは複数のパスコースを維持できる。これにより、相手のプレスをかいくぐることが容易となる。
さらに、後方から縦パス一本でアイソレーション(孤立)気味のSHへと繋がるラインが開通するため、サイドかつファジーゾーンで『1対1』の局面を多く迎えられる。ここでドリブル突破に成功すれば、すかさずビッグチャンス到来だ。
ただし、一朝一夕に習得できるような戦術ではない。
ポジションチェンジのタイミングを見極める戦術眼や全体の連動性、素早いボール回しの技術など、いくつもの能力を高い水準で求められる。特にディフェンスラインの足元のテクニックは重要だ。
もちろん栄成サッカー部のトレーニングは、必要なスキルを磨くためにオーガナイズされている。中でもボールコーディネーションなど最たるもので、うちの部員はGKですらドリブルやパスが上手い。
翻って考えるに、高度な戦術を実践可能となるよう逆算したトレーニングが組まれているのだ。
つまるところ、栄成サッカー部のチームカラーは『優れた個人技を中心に据えたポジショナルプレー』となる。
不足している能力も多く、僕たちDチームメンバーはまだまだ発展途上の段階にある。しかし新戦術を習得しつつスキルアップしていけば、いずれ先輩たちのように全国の名門チームとも互角に渡り合えるだろう。
ところが現在、Dチームは肝心要のチームワークに致命的な問題を抱えていた。
攻守両面においてメンバー全員の連携が必要不可欠だというのに、各所で内紛が絶賛発生中なのである。
「だからさ、俺のためにスペース作る動きをしろよ! あと大桑の方が身長高いんだから、そっちが下に降りてポストプレーをやるべきだろ!」
「でもこっちはCFだし、颯太くんが下がるべきなんじゃ……」
ゲーム形式のトレーニングに取り組んでいる最中、最前線でプレーする二名が揉めだす。原因は、どっちが相手ペナルティボックス内でプレーするか。
白石(鷹昌)くんがCチームに昇格した影響で、ポジションに若干の変更があった。新たにD1へ加わった大桑くんがワントップ(CF)、颯太くんがトップ下(OMF)を務めることになったのだ。
それにもかかわらず、颯太くんはやたらゴール前に陣取ろうとする。当然、大桑くんとポジションが被って双方とも機能していない。それで、どちらが譲るか口論しているのだ。
ハッキリ言って不毛である。状況にあわせてポジションチェンジすればいいのに……と僕が思うが早いか、今度は中盤で諍いが発生する。
「左の玲音を『偽SB』のメインとして考えるべきだ。その場合、2列目に上がるのは俺が優先される」
「いいや、右SBを優先するべきだね! ひとつ前でプレーする右SHの航平くんは、うちのストロングポイントなんだから」
お次は中盤の底、DMFの二人が反目しあう。
優等生連合の中心人物、かつ左よりでプレーする里中拓海(さとなか・たくみ)くんは、同サイドの玲音との連携に主眼を置く。対して右よりでプレーする中岡弘斗くんは、同じ派閥のメンバーが揃っている右サイドでの連携を重視する。
結果、プレーエリアに関する目線が揃わず、全体の舵取り役たる中盤の動きはチグハグ。ビルドアップに支障をきたしているのは言うまでもない。
本末転倒であり、やはり状況によって臨機応変に判断すべきでは……と僕が仲裁に乗り出すか悩んでいると、挙句の果てには自分まで難癖をつけられてしまう。
「つーかさ、なんで兎和ごときがD1の左SHなわけ? さっきからプレーも微妙だし、俺がD2っておかしいだろ」
「え、あの……そういうのは永瀬コーチに……」
「言えるわけねーだろが、ボケッ! ナメた口聞いてんじゃねーよ、クソ陰キャ」
わざわざこちらへ歩み寄ってきて暴言を浴びせてくれたのは、悪縁を築きつつある松村くん。
彼はユーティリティなプレーヤーで、ここのところD2の右SHを担当している。そのせいでD1の左SHを務める僕とマッチアップする機会が多く、接近する度にダル絡みされていた。
「お前ら、トレーニングに集中しろ! 今年の1年はどんだけ仲悪いんだよ……」
僕たちDチームの言い争いは、呆れ顔の永瀬コーチが怒鳴るまで止まらない。
もっとも、確執の原因は明白だ。白石くんの昇格に触発され、皆が少しでも活躍をアピールしようと必死なのである。
大所帯だからこそ発生する『チーム内サバイバル』の負の側面であり、厄介なことにその苛烈さはとどまることを知らないらしい。
正直なところ、まったく意思統一されておらず戦術どころの話じゃない。次回の公式戦まで形になるのかも怪しい――しかもこの争いは、体育祭の方面にまで波及してしまう。
そのうえ騒動は、この僕を中心にして巻き起こるのだった。