スマホのアラームが響く。その拍子にベッドの上で目覚めた僕は、自室の湿度の高さに不快感を覚えた。
衝撃のインターハイ予選(東帝戦)からはや数日。夏も間近に迫り、ぐっと気温も上昇している。体もじっとりと汗をかいていた……こうなるとわかっていたら、クーラーをタイマーで切ったりしなかったのに。
だが、時刻はまだ午前7時前。幸い朝練もなく、時間にはゆとりがある。
軽くシャワーでも浴びるかな、と僕は上半身を覆っていたタオルケットをどけて部屋を後にする。
シャワータイムは10分ほど。ささっと汗を流し、制服に着替えたらリビングへ移動する。
「おはよー、お兄ちゃん」
「おはよう、兎唯(うい)」
ダイニングテーブルでは、中学の制服を着た妹の兎唯が先に朝食をとっていた。
お行儀悪く、横に置いたティーンズファッション誌を眺めながら箸を動かしている。母の言いつけを完全に無視しているな。もちろんお兄ちゃんも許しませんよ。
「兎唯、食事中に雑誌を見るのやめなさい」
「はーい。お兄ちゃんって案外口うるさいよね。お姑さんなの?」
僕が自分の席に座って注意すると、兎唯は雑誌を閉じながらもへらず口を返してくる。
いつものことなので、もはや気にもならない。というか、母がリビングに戻ってくる前で良かったな。見つかったらよっぽど厳しく言われていたぞ。
「おはよう、兎和。はい、今日もいっぱい食べてね」
「おはよう、母さん。いただきまーす」
しばらくして、母が朝食のお皿を持ってきてくれる。
本日もなかなかボリューミーだが、どれも好みの料理ばかり。朝からこれだけの量を作るのは、さぞ手間がかかったに違いない。心から感謝していただかねば。
カケラも残さず完食するぞ、と意気込んで両手を合わせた僕はさっそく箸に手を付けた――ところで、動きを止めた。
『周りから好かれる人はしゃべり方が違う! 気になるアノ人の好感度UP間違いなしのトーク術を大公開!』
そんな文字が、妹が閉じた雑誌の表紙に大きく躍っていた。
気になりすぎんだろ……近頃、『じゃない方の白石くんは蛮族出身のモブ王』などと意味不明なあだ名で呼ばれる僕である。もしコミュ力が高かったら、こんなアホなあだ名とうに払拭できていたはず。
なにより、好感度は非常に大事なステータスだ。夢の青春スクールライフに直結する大切な要素だ。収入とコミュ力は、低いより高いほうが断然いいに決まっている。
「兎唯ちゃん……いや、兎唯様。この愚兄、コミュニケーションの作法についておうかがいしたき儀がございます」
「ほむ、申してみよ。天才美少女コミュニケーションアドバイザーたる兎唯様が答えてしんぜよう」
おや、なんか前と肩書が変わっているね。相変わらず一瞬でスイッチの入る妹は、ノリがよくておバカ可愛いと僕の中で評判だ。
いつもの微笑ましい反応に便乗し、朝食を食べ進めながら問いかける。『好感度UP間違いなしのトーク術』とはどのようなもので、その効果やいかに。
「まあ色々あるけど、お兄ちゃんに使いこなせるのは『イエスバット法』くらいじゃない?」
妹は当然の知識を披露するみたいに語った。
イエスバット法とは、相手の意見を一旦受け入れてから自分の意見を述べるテクニックだ。
具体的には、『そうだね、確かにそういう意見もあるね。けれど、こういう視点もあるんじゃない?』という形で自己主張を展開する。
相手の意見を尊重しつつも自分の考えを伝えることができるため、円滑に対話を進めることが可能となるそうだ。使いこなせれば好感度UP間違いなしのトーク術である。
「これもさっきの雑誌にのっていた情報だよ。いい? 人生の質はコミュニケーションの質で決まるの。そして、その重要なヒントをいつでも見つけられる――そう、最近のティーンズファッション誌ならね」
妹はキメ顔でそう締めくくった。
なるほど……人生の質とやらはさておき、確かに僕は語頭に『いや』をつけがちだ。冷静になって考えると、相手にネガティブなイメージを抱かれてもおかしくない。
むしろ肯定から入るだけで好感度アップが図れるのなら、試さない理由なんてない。
それと、最近のティーンズファッション誌って絶対に心理学の教本だろ。
「ともかく、『イエスなトーク術』ってことは理解できた! 今日から僕は全肯定マンに生まれ変わる! 高感度バク上げして、新しい友だちを10人くらい作ってやる!」
「目標がクソ低いし、やっぱりよく理解できてないみたいだね。相変わらずおバカ可愛いお兄ちゃん」
ソファに座ってテレビを見ていた母の「兎和に変なこと吹き込まないの」という注意と、妹の戯言を聞き流しながら、ついでの補足説明だけはきちんと耳に入れる。その後、僕は朝食を大急ぎで胃に収めて登校準備を整えた。
イエスなトーク術を試すにも相手がいなければ始まらない。そして僕が他人と接点を持つ場所といえば、学校をおいて他にない。そうだ、まずは親しい友の『須藤慎(すどう・まこと)』を相手に実践してみよう。
荷物を抱え、「いってきます」と家族に告げる。
返事を聞き終わる前に、僕は家を飛びだした。
自転車にまたがったらペダルをぶん回し、薄曇りの通学路を走破する。昇降口で履き替えたスクールシューズのかかとを踏んだまま、早足で1年D組の教室へ入る。
お目当ての人物の姿は見当たらない。残念ながら、まだ登校していないようだ。
「おっす、キング兎和」
「お、キング。おはよー」
「うんうん、おはよう。二人とも早いね」
騎馬戦を共に戦い抜いたクラスメイト、健太郎くんと大輔くんに挨拶を交わし、窓際最後方の自席に座る。二人はあの激戦以降、僕をキングと呼ぶようになった。
それから、スマホで動画を眺めること約5分。
「はよー、兎和。ちょっと早いじゃん。つか、めっちゃ暑くなってきたよな」
きたきた。待ち望んでいた友の慎が、自分の席に荷物を置いてからこちらへやって来る。
本日は爽やかなカラーのTシャツを制服に合わせている彼に対し、僕もカラッとした笑顔で返事をする。
「うんうん、本当にそうだよね。もうじき夏だね」
「……なんだよ、そのしゃべり方。あれだ、少し前に『ティクトク』でバズった戦場カメラマンみたいな口調だな」
「うんうん、そうかもね。でもね、僕はこれからこれでやっていくつもりなんだ」
ティクトクとは、ショート動画をシェアできるSNSアプリだ。ティーンエイジャーに絶大な人気を誇る。言うまでもなく僕には縁がない。加えて、話題の戦場カメラマンさんは独特なテンポの口調でバズった人物らしい。
……というか、イエスなトーク術を実践すべく肯定から入ると、スローテンポなうえに妙な抑揚がついてしまう。何故だ。
「またアホなことを思いついたんだな。神園に報告しねーと」
「うん、そうだね。確かにアホかもね……だれがアホだ。これはイエスなトーク術なんだよ」
微妙な反応を示す慎に、僕は自分の考えを懇切丁寧に説明する。一言でまとめると『高感度(好感度)命』で済むところを、あえて長々と語った。しかし、力説しても共感は得られなかった。
どうやら、好感度の重要性を伝えるには語彙がたりないようだ……と頭を悩ませていたら、珍しい人物の姿が視界に飛び込んでくる。
「悪い兎和、ちょっと邪魔するぞ」
雑談をする僕たちのもとへやって来たのは、A組にいるはずの里中拓海(さとなか・たくみ)くん。サッカー部に所属する同級生にして、優等生連合の中心メンバーだ。
何の用かは知らないが、好機到来。イエスなトーク術を実践して見せることで、慎にその重要性を理解してもらおう。
「うんうん、ぜんぜん邪魔なんかじゃないよ。それで里中くん、僕にどんな用事があるのかな?」
「なんだ、そのしゃべり方。おちょくってるのか? それより、玲音からチラッと聞いたぞ。兎和は、神園に潜在能力を解放してもらってあのプレーが出来るようになったらしいな」
「そうだね。でも、それは……」
「じゃあ、俺たちも協力を頼めないか? サッカーに詳しい第三者の意見にも興味あるし」
玲音が以前、『神園美月が兎和の潜在能力を解放する鍵だ』と呟いていたという。そして里中くんは、真相を確かめようとした。
ところが、美月はスクールカースト最上位に君臨する女子グループの中心にいるため、クラスメイトの彼であろうと容易に声をかけられなかった。華やかすぎて気後れするそうだ。
そこで、直接つながりのある僕のもとへ頼みに来た――そう、里中くんは追加で説明してくれた。
まったく、玲音のやつ余計なことを……それはともかく、こちらで勝手に引き受けていい案件じゃないのは明白。ならば当然、答えは否である。
「うんうん、言いたいことはわかったよ。けれど……」
「おお、わかってくれたか。じゃあ頼んだぞ」
用事は済んだとばかりに、颯爽とその場を去っていく里中くん。
あれ、おかしいな……なんか承諾した流れになってない?
「兎和、その話し方やめたほうがいいんじゃないか?」
経緯を見守っていた慎が呆れ顔で言う。
僕もそう思う……とりあえず美月に連絡いれとこ。
***
『潜在能力の解放を頼む』
そんな謎めいたメッセージが私、神園美月のスマホに届いた。
休み時間を迎え、にぎわう教室の中で画面を眺めながら、思わず自席で『潜在能力?』と首を傾げてしまったわ。
メッセージの差出人は、同級生でクライアントの兎和くん――私は個人マネージャーとして、彼のJリーガーへの道をサポートしている。ついでに青春スクールライフも。
それにしても、相変わらずね……兎和くんは、斜め上の言動が目立つ少年だ。ちょっと目を離すと妙な騒動に巻き込まれたり、見当違いの方向へ走り出そうとしたりする。
私としては、一緒にいて飽きない稀有な存在でもある。
「どうしたの、美月? ぼーっとスマホ眺めて。あ、もしかして彼氏とか?」
「ううん、なんでもない。彼氏でもないからね。絶対に誤解しないように」
友人の一人、木幡咲希(こはた・さき)ちゃんに言葉を返す。彼女はかなりの恋愛脳だから、しっかり注意しておかないと。
それに今は1時間目の授業が終わり、私の席の周りに友人たちが集まってきている最中。変なウワサが広まりかねないので、不用意な発言はぜひ控えていただきたいところね。
ともあれ、今は兎和くんのメッセージの方が気になる……もしかして、ゲームの話かな?
涼香さんが以前、『能力開放の女神』がどうのと彼に語っていた記憶がある。だとすると、私をゲームキャラに見立ててごっこ遊びでもしている可能性が高い。肝心の動機は不明だけれど。
「美月ちゃん、お客さんだよ。2年生の先輩が呼んできてって。いつものアレだね」
兎和くんのメッセージに関して推測を深めていると、友人の一人が来客を知らせてくれた。
男子の先輩が私を呼んでいるみたい……最近、上級生から連絡先の交換をよく求められる。しかも授業の合間に訪ねてくることが多く、非常に迷惑している。
おかしいよね? こういうのって、普通は昼休みとか放課後に起きるイベントじゃないの?
まあ、文句を言っても始まらない。面倒事はさっさと処理するに限る。
私は友人たちに一声かけ、席を離れた。
「一目惚れしたので、お付き合いを前提に連絡先を教えてくれないか? あ、神園さんが『キッズスマホしか持っていない』って話は聞いてるよ。だから、文通から始めよう! とりあえず今日は、俺の思いを綴ったこのラブレターを受け取ってほしい!」
廊下の端で待っていたのは、初めて顔を見る男子上級生だった。もちろん名前も知らない。にもかかわらず、かなりクセが強いアプローチを受ける。
今どきラブレター……文通の連絡先って、住所でも聞くつもり?
少し驚かされたわ。だからといって、答えが変わるわけでもないけれど。
「ごめんなさい、お付き合いできません。手紙も受け取れません」
「そんなこと言わないでくれ! 君は、俺の女神なんだ!」
「いえ、私は能力開放の女神みたいです。なので、お断りします。ごめんなさい」
ぽかんとする男子上級生に再度断りを入れる。それから私は、はしゃぎながらこちらの様子をうかがっていた友人たちのもとへ戻る。
というか、能力解放の女神ってどんなキャラクターなのかしら?
ノリが悪いとがっかりされ、兎和くんのモチベーションが下がってしまうのは問題よね。サッカーにも悪影響が出るかもしれないから、なるべく早めに確認しないと。
何となく、間近に迫った夏の足音に浮かれる男の子を相手にしているような気分になった。そして私は、教室に戻りながら自然と口角を持ち上げていた。