「兎和、そろそろ引き上げるぞ。準備が遅れると、また先輩たちにどやされる」
「あ、うん。じゃあ二人とも、また後でね」
僕と玲音は、新たに縁を結んだ蓮くんと晴彦くんに見送られて部屋を後にする。
雑談が楽しくて、気づけば昼休憩が終わりかけていた。部屋に戻ったら大急ぎでトレーニングウェアに着替え、ボールやウォータージャグなどの準備を整える。
相変わらず、僕たちは雑用でこき使われている。しかもCチームの夏合宿には女子マネさんたちが帯同していないため、普段より仕事が多い。
大木戸先輩たちも手伝ってくれるとはいえ、白石(鷹昌)くんはサボるし、ちょっとしたミスでも上級生の一部からお叱りを受ける……正直、チーム昇格して以降ストレスの種だ。
「つーか、タコ昌(鷹昌)にいい加減ガツンと言ったほうがいいかもな。あいつ雑用サボりすぎだろ」
「まあね……でも、一緒に行動すると何かとウルサイからなあ」
僕も玲音に同意ではあるが、とても難しい問題だ……人手かメンタル、どちらを優先するべきか。
口を動かしつつも手は止めない。途中からは効率を重視し、別々に作業を進める。その結果、どうにかトレーニング開始までに準備を終えることができた。
大量の荷物を抱えた僕は、ホテルを出て指定のピッチへ向かう。
カラッとした夏空の下を歩きながら、緑鮮やかな自然を眺めて楽しむ――同時に、合宿地についての情報を頭の中で整理する。ジュニア及びジュニアユース時代に何度か訪れた経験があり、わりと詳しいのだ。
ここ菅平高原は、サッカーをはじめとしたスポーツ合宿の聖地として知られている。
標高1200メートル付近に位置するため、夏でも平均気温は20℃前後と過ごしやすく、湿気も少ない。スポーツをするには理想的な気候だ。
加えて、高地トレーニングによる心肺機能の向上が見込める。プロ・アマチュア問わず、多くのアスリートが同地を訪れる理由の一つでもある。
地域内には100面以上のグラウンド(サッカー・ラグビー共用)が整備されており、質の高いピッチでトレーニングできる点も魅力的。特に夏の間は交通量が少なく、街全体がスポーツ施設と化す。
おまけに、豊かな自然によるリフレッシュ効果も期待できる。菅平高原はスイスの美しい風景を連想させることから『日本のダボス』と称され、季節ごとに多彩な景色やレジャーを楽しめると評判だ。
そんなわけで、栄成を含む4校は今回の夏合宿の期間中、ホテル近くにある隣接した5面のピッチを貸し切っていた。しかも天然芝。
ちょうど思考に一区切りついたところで、僕は目指していたピッチに到着した。ここまで、およそ5分の道のりだ。
「おせーぞ、1年! ヤル気あんのか!」
「あ、すんません……」
先に到着していた先輩から、遅刻しているわけじゃないのに叱責を受ける。
理不尽に怒鳴られるなんてもはや日常茶飯事。上級生の一部は、僕たち新入りが気に入らなくて仕方がないみたい。
怖いし、まともに相手するとキリがないので、僕は作業しているフリでやり過ごす。
以降は同じように怒鳴られた玲音と合流して時間を潰す。しばらくしてアップ開始の掛け声がかかったので、大木戸先輩たちのグループにまざって体を温めた。
次いで、ボールを使ったトレーニングが開始された。
なお、本日は東帝と合同だが、明日は徳洋高校(神奈川県)、明後日は常岡橘高校(静岡県)、というスケジュールになっている。
「兎和、やろうぜ」
「うん。よろしく」
コーチの指示で両校のメンバーがピッチに散る。そのタイミングで蓮くんが声をかけてくれたので、僕は約束通りペアを組んでトレーニングに励む。
すると、わずかな時間プレーしただけでも彼の非凡さを感じ取れた。
簡単なパス一つとっても、回転やコース、強弱でメッセージを伝えてくる。トラップした僕は、次のプレーイメージを自然と掻き立てられるほどだ。
これが、年代別の代表に選出されたプレーヤーの『トレーニング密度』……他にも多数の見習うべき発見を重ねつつ汗を流す。
ポゼッション(4対4+3フリーマン)やコンビネーション系のメニューへ突入すると、蓮くんのボールさばきはより際立つ。
「兎和、ナイスリターン! トラップめちゃウマじゃん!」
「もうほんとギリ! ちょっと手加減してね……」
もちろん僕はトラウマのせいでコンディション低下中。それにもかかわらず、蓮くんが矢継ぎ早に人の限界を探るようなパスを送ってくる。
プレー強度はバク上がりし、どうにかトラップして弱気な言葉と共にボールを返すだけで精一杯。トレーニングが終盤に差し掛かるころには、涼しい菅平高原にきた意味を感じられないほど汗だくになっていた。
仕上げのミニゲームは、両校のチームに別れて対戦する形式となった。そこで僕は、ようやく一息つくことができた。
こうして、夏合宿初日のトレーニングが終了する……はずもなく。
小休憩を挟み、両校のメンバーはスパイクからランニングシューズに履き替える。それから向かったのは、宿舎裏手にある『ダボスの丘』。
ダボスの丘は、菅平高原でもとりわけ有名な場所だ。自然の地形を活かしたアップダウンの激しいランニングコースが整備されており、フィジカルを鍛えるのにうってつけ。無論、高地トレーニングならではの心肺機能の向上も期待できる。
要するに、これからキツイ走り込みを行う予定なのだ。
菅平高原といえばダボスの丘なので、別に驚くような展開ではない――むしろ、蓮くんたちと現地へ向かう道中に交わす会話の方にこそ、驚くべき内容が詰まっていた。
キッカケは、玲音の持ち出した話題だった。
「ふと思ったのだが、蓮はジュニアユース時代にJ下部とバチバチにやり合っていたわけだろ? だったら、うちの白石鷹昌を知ってるんじゃないのか?」
「白石? それは兎和の苗字だろ」
「いや、栄成サッカー部にはもう一人の白石くんが所属しているんだ」
ジュニアユースのスター選手である蓮くんは、J下部との対戦経験が豊富だ。
一方、白石くんは『東京FCむさし(U15)』の出身で、しかも以前スタメンだと豪語していた。したがって、大会などで顔を合わせている可能性が高い。
僕もジュニアユース時代に、蓮くんのチームと対戦した経験がある、っぽい……けれど当時は試合に出ていないし、とにかく自分のことに必死だったのでまったく記憶になかったりする。
「あー、俺は雑魚どもの顔は覚えないタイプだから」
「蓮はすぐイキがる……ていうか、皆ともどっかの会場ですれ違っていそうだけど。ただ覚えてないだけでさ」
ウォータージャグを持って歩く晴彦くんが意見を述べる。同じく荷物を持つ僕と玲音は、揃って『確かに』と肯定した。
幼い頃から東京都内でサッカーを続けてきた者同士であれば、どこかで偶然すれ違っていても不思議ではない。
「あれ、うちのタメに『深川』の出身いなかった?」
「あ、コウちゃんがそうかも。何か知っているかもね」
蓮くんの質問を受け、晴彦くんが思い出したような口調で返す。
東京FCのアカデミーは、『むさし』と『深川』にわかれている。共にU15のチームではあるものの、活動エリアが都内の西部と東部で異なる。
当然ながら交流はあるそうなので、同学年で深川の出身なら当時の白石くんの様子を知っているはず……かなり興味あるな。
「おーい、コウちゃんいる? あ、ちょっとこっちにカモン」
「……なんだよ、蓮。つーかお前、少しは雑用を手伝え」
「イヤだね。それはサッカーが下手なヤツの仕事なのだ」
蓮くんは振り返り、背後を歩く集団の中からお目当ての『コウちゃん』を呼びつける。その際、色々と荷物を運ぶ相手から手伝いを求められたが、大口を叩いてはねつけていた。
「蓮、またションベン漏らしたいみてーだな。あとで先輩たちにチクってやるから楽しみにしとけ」
「……そのボトルキャリー重いだろ? 俺が持つよ。やっぱみんなで協力しなきゃね。ね?」
コウちゃんの脅しにあっさり屈する蓮くん……息を吐くようにイキがるクセ、本当に直した方がいいと思うよ。
そんな二人のやり取りが落ち着いたところを見計らい、玲音が本題を切り出す。
「コウちゃんとやら、白石鷹昌を知っているか?」
「……知ってるけど、関わりたくない。だから、俺にその話をふらないでくれ」
こちらがドン引きするくらい、コウちゃんの反応は悪かった。そのうえ「挨拶すらしたくないから、合同トレーニング中もひたすら距離を取っていた」と、強い拒絶反応を示す。
白石くんは、僕みたいな陰キャにはかなり辛辣な態度で接する。逆に、自分と同種のタイプには気さくに応じる傾向がある。そしてコウちゃんはわりと陽キャよりの外見だ……なのに、ここまで嫌われるなんてちょっと普通じゃない。
深くツッコまない方が良さそうな雰囲気だったので、僕は別の話題を求めた。だが、コミュ力モンスターの玲音が黙っているはずもなく。
「コウちゃん、秘密にすると誓うから事情を聞かせてくれないか? もし話してくれたら、俺の秘蔵のエロ動画を贈呈しよう」
「…………ジャンルは?」
「時間停止モノだ」
玲音とコウちゃんは、歩きながらガシッと握手した。どうやら交渉成立らしい……思ったより簡単にオチたな。僕は一応、「この世に現存する時間停止モノのエロ動画は9割がヤラセだよ」と補足しておいた。
ともあれ、少しの間をあけて秘めたる事情が語られる。
「俺がヤツを避ける理由は主に二つ……まず、白石鷹昌の親がかなり厄介でさ。とんでもないクレーマーなんだよ」
コウちゃん曰く、白石くんのご両親は相当な『モンスターペアレント』のようだ。
息子を優遇するようクラブチームに何度も求めたり、ポジション争いをするメンバーの自宅に怒鳴り込んだこともあるそうだ。
「そして、本人にも大きな問題がある……アイツは、中2のときに『暴力事件』を起こしたんだ」
暴力事件――そのフレーズを耳が捉えた瞬間、僕は無意識に「ひゅっ」と息を吐いていた。次いで、得も言われぬ冷たい感覚がジワッと胸に広がる。
「俺はチームが違うから、詳細は知らない。でも、白石鷹昌がクラブスタッフを殴り倒して骨折させたのは確かだ。それが原因で、進路が栄成しかなくなったと聞いている」
結局、内々で処理されたのでチームをクビになることはなかったが、けっこうな騒動に発展したという。
なるほど……だからJ下部のスタメンだったにもかかわらず、栄成に進学したのか。高校へ入ってから抱いていた疑問が氷解した。
それと本日のトレーニング中、彼がやけに静かだった理由に察しがついた。おそらく、自分の過去を知るコウちゃんを避けていたのだろう。
ちょうどその時、目的地であるダボスの丘の麓にたどり着く。
僕は足を止め、斜面の上方へ視線を向ける――渦中の同級生は先に出発していたので、今ごろ到着しているはずだ。
なんだか、胸がざわついて仕方ない。
白石くんに対しては、前々から暴力事件を起こしそうな性格の持ち主だと思っていた。しかし実際に起こしているとなると、重みがまるで違う……禁じられたフタを開けてしまったような心地だ。
「兎和、今の話は俺たちの胸に秘めておこう。余計な騒動に発展しかねない」
「うん。そうしよう……」
あえてヤブをつついてトラブルを招くつもりはない。
同じように立ち止まっていた玲音と当面の対応方針を決め、改めて斜面へ足を踏み出す。
その後、予定通りハードな走り込みが行われた。そして僕は、もう一人の白石くんとの距離感を考え直しつつ足を動かすのだった。