僕がボールを持つと、永瀬コーチがこちらを指さしてなんか叫ぶ。そんな謎の行動が、幾度か繰り返された。
最初の試合を終えてベンチに戻った際、疑問を解消すべく尋ねてみる。
「あれ、何を伝えたかったんです?」
「……美月から、アレでスイッチが入ると聞いていたんだが?」
ああ、なるほど……合図をだしたのが美月であれば、まさに『スイッチ』として機能する。けれど僕の体は、誰かれ構わず反応する節操なしじゃない。むしろ貞淑なので、反応する対象は極めて限られる。
というか、いつもトラウマ克服トレーニングに付き合ってくれる涼香さんですら、場合によっては抵抗を感じるほどなのだ。したがって、永瀬コーチが相手なら無反応でも当然である。
「じゃあ何か? 俺の声ではダメってことか?」
「まあ、そうなりますね……」
なんだそれ、と不服そうに眉を寄せる永瀬コーチ。
申し訳ないが、今はご納得いただく他ない。これでも、かなり改善した方なのだ。
状況は選ぶとはいえ、それなりのコンディションでプレーできるようになってきた。部活で行われた試合でも、多少は結果を残せている。
そう考えると、美月の偉大な献身が生み出した影響の大きさに改めて驚かされる。
青春スタンプカードを導入し、僕が限定的に全力を発揮できる状況を作り上げた。さらに『東京ネクサスFCさん』のゲームトレーニングに参加することで、プレーに対する抵抗感がずいぶんと和らいだ。
美月への感謝は、一瞬たりとも忘れたことはない。しかし近頃は慣れが出て、その気持ちがちょっと薄れていたように感じる。
僕は明るい東の空を見上げ、膝をつく。続いてあの美しい顔を思い浮かべながら、胸の前で手を組んで祈りを捧げた。
「……おい、兎和。次の試合の邪魔になるからさっさとはけろ」
「あ、はい」
まだ祈りの途中だったけれど、永瀬コーチに促されて退場する。
その後も楽しく試合を観戦しつつ、巡ってきた自分の出番では無難にプレーしてやり過ごした。やがて時刻は昼に差し掛かり、僕たちのチームはその日最後の試合に臨む。
もう夏合宿も終わりか、と少し寂しい気持ちを抱く。が、次の瞬間にはあっさり吹き飛ぶ――指定のピッチへ到着すると、相手チームの中になぜか蓮くんの姿があった。
おかしい……対戦スケジュールは東帝で間違いないものの、彼を含むチームではなかったはず。
「よお、兎和。お前と戦うため、わざわざコウちゃんを説得してチーム交代したんだぜ。この試合で、ポコチンモンスターバトルの雪辱を果たす!」
「あ、そうなんだ。やる気マンマンだね」
僕と視線が合うなり、蓮くんは駆け寄ってきてすぐに謎を明かしてくれた。
各校は複数のチームを編成しているが、その振り分けは実力順だ。加えて、上位のチーム同士がぶつかるようマッチメイクされている。ゆえに、僕たちが試合で相まみえることは本来なかった。
ところが彼、またワガママを通したらしい……こんな調子では、再び先輩にゴン詰めされるんじゃないかと心配になる。
それはともかく、僕はいったん別れを告げて自分のチームに合流する。体を温め直し、改めて試合に臨む準備を整えた。次いで永瀬コーチから激励を受け、本日のラストマッチに向けてベンチ前で円陣を組む。皆を鼓舞するのは、もちろんリーダーの大木戸先輩。
「俺たちはまだ未勝利だ! ポコモンバトルの王者として、このまま終われるか?」
『終われないッ!』
「なら、最後は勝って気持ちよく東京に帰ろう! じゃあ皆、クソほど気合入れていくぞ!」
『――ヨシ行こうッ!』
大木戸先輩はアホだけど、本当に盛り上げるのが得意だ。明るく前向きで、まさに『ムードメーカー』の役割がピッタリ。ここ数日で、急速に尊敬の念が芽生えてきた。アホだけど。
ともあれ、青色のビブスを着た栄成イレブンはハイテンションのままピッチへ散っていく。
「兎和と戦うのを楽しみにしていたんだ。このゲーム、俺がガッツリとマンマークしてやる。だから、お前もそうしろ! さあ、サッカーしようぜ!」
僕はスタートポジションに立ち、キックオフの笛を待つ。するとハーフウェーライン越しに、黄色のビブスを着用した蓮くんが声をかけてくる。
せっかくのやる気に水を差すようで申し訳ないが、コンディション不良の僕はマンマークに値するような選手ではない。まして相手は世代別の日本代表に選出された経験を持つプレーヤーなので、対戦してもけちょんけちょんにされるのがオチだ。
とはいえ、彼と同じピッチに立てることは純粋に嬉しい。
「マンマークはしないけど、一緒にサッカーをしよう。蓮くん」
「おう。まあ、この俺が勝つけどな!」
言って、互いに笑みを交わす。
全力はムリだけど、可能な限り頑張ろう。少しでも蓮くんの期待に応えたい――僕にしては珍しく気合を入れて、夏合宿ラストマッチのキックオフを待ちわびた。
***
おそらく、白石兎和は実力を隠している――その真相を確かめるために俺、黒瀬蓮は、わざわざチームを変えてまで対戦の舞台を整えた。
スパイクの裏で天然芝の感触を確かめながら、違和感を抱くキッカケとなった『パス交換』を思い出す。
夏合宿初日の休憩時間に、兎和はいきなり俺の部屋へ押しかけて来た。それから意気投合し、合同トレーニングでペアを組む約束をした。
サッカーの実力なんて、正直どうでもよかった。俺から見れば、大半の連中は下手くそだ。ただいいヤツだから、一緒に行動しようと思った。
ところが、実際にパス交換をしてみると異様にしっくりきた。
加えて、抱いた奇妙な感覚の正体はすぐに明らかとなる――兎和のヤツ、俺のイメージをかなり正確に汲み取ってやがったのだ。
俺は天才で、努力もできるイケメンプレーヤーだ。ゆえに、トレーニングへの取り組み方も常人とは一線を画す。
具体的には、常に試合でのプレーを想定しながらメニューをこなすよう心がけている。単純なパス交換でさえも例外ではない。
そしてパスの受け手である兎和のリアクションは、俺の思い描くイメージと見事に合致していた。どうトラップして、どこにボールを置くか、言葉を交わさずともボールに込めたメッセージが伝わっていた。
これは、驚きに値する発見だ……世代別の日本代表に選出された経験を持つ俺とイメージを共有できたうえに、要求にも応えられる可能性を示したのだから。
しかもその後のトレーニングで、ボールコントロールが抜群に上手いことまで判明した。ここまでくれば、もはや違和感は確信へと変わる。
高い基礎値と、優れたテクニックを兼ね備えている。普通ならチームの中心として、エゴ丸出しのプレーを見せてもおかしくないレベルの選手だ。
それにもかかわらず、兎和のプレー選択は異常なほど控えめだった。
こうなれば、導かれる答えはたった一つ――余計な注目を集めないよう実力を隠しているのだ。
俺のように注目を集める選手は、どうしたって相手に警戒される。結果、ダブルチームなどの対策を打たれて苦戦を強いられる。
だから兎和は、周囲の目を欺いて油断を誘う選択をした。
要するに、『能ある鷹は爪を隠す』というやつだ……どうやら、栄成の指導陣の中にはとんでもない策士がいるらしい。どこで実力を明かすつもりだったかは知らないが、恐れ入ったぜ。
「だが、残念だったな。天才イケメンプレーヤーである俺の目をごまかせると思うなよ! ここでお前のポテンシャルを探らせてもらう!」
俺がズバッと隠された真実を言い当てると同時に、長いホイッスルが響き渡る。ここ菅平高原における夏合宿のラストマッチが始まった。
キックオフは栄成から。まずキッカーがボールを後方へ戻し、ショートパスを繋いでためを作る。その間に、兎和は東帝陣内の奥深くを目指してスプリントを開始する。独特のフォームながら、なかなかのスピードだ。無論、俺はその背中を追う。
するとタイミングを見計らい、栄成がロングフィードを放つ。
試合の入りとしてはお決まりのパターンだ。高い弾道を描くボールの落下地点で、両チームの選手が待ち構えている。
間を置かず、ヘディングでの競り合いが発生。勝敗はイーブン。しかし幸運にも、こぼれたボールがこちらへ向かって跳ねてきていた。
ポジション的に有利だった兎和が、首尾よくキープする――その寸前で俺は激しく体をぶつけ、強引にボールを奪取する。
審判は笛を吹かなかったが、ファウルになるか微妙なラインではある。当然、練習試合でやるようなプレーじゃない。けれど、俺はタイムアップまでこの『強度』を維持するつもりだ。
即座にオフェンスへ転じ、カウンターを仕掛ける。が、味方のしょーもないミスでボールはタッチラインを割ってしまった。
チッ、と舌打ちを漏らす。
あわよくば、先制点を奪ってしまいたかった――いきなりトップギアでプレーしている理由は、もちろん兎和の本気を引き出すためだ。
攻守両面でチンチンにやられたら死ぬほど腹が立ち、つい全力でやり返したくなる。だって、人間だもの。俺なら、確実に『一矢報いてやる』と奮い立つ。
つまり、この試合で圧倒的なプレーを見せつけてやるのだ。すると兎和はブチギレ、うっかり本気を出してしまう。我ながら完璧な策である。
ついでに言えば、今回はあえてサイドでプレーしている。俺は本来インサイドの選手だが、マンマークにつく都合でポジションを代わってもらったのだ。
「ここまでしてやったんだ。早くお前の本気を見せてみろ!」
俺の挑発を受け、兎和は困ったような表情を浮かべた……どうにも手応えがない。
いずれにせよ、試合は望み通りの展開が続いている。体を張った栄成ディフェンス陣の活躍でフィニッシュこそ凌がれているものの、東帝が得点するのは時間の問題だろう。
それはそうと、玲音のヤツも相当優秀なSB(サイドバック)だな。かなり堅実な守備をする。
プレーを重ねるうちにますます気分が乗ってきたので、こちらのコーナーキックの際に思わず声をかけてしまった。
「玲音、なかなかやるじゃん。タメに限れば、東帝でもスタメンでやれたかもな」
「……ずいぶん余裕だな、蓮よ。そんな調子では、うっかり足元をすくわれかねんぞ」
笑える冗談だ。もっとも、劣勢にもかかわらず闘志を失わないところは立派だが――そんな挑発を返す前に、俺は口をつぐむ。その代わり、味方が蹴ったコーナーキックの軌道を目で追った。
狙いはファー(遠い方のサイド)。しかしコースが甘く、集中してゴール前を固める栄成ディフェンス陣に跳ね返されてしまった。おまけに、セカンドボールまで拾われてしまう。
続けざまに相手は素早いトランジションからカウンターを発動し、サイドを駆け上がる兎和へパスをつなぐ。というか、なんで簡単にパスが通ってんだ?
「おい、フリーにしたヤツは誰だ!」
「いや、お前だろ」
「確かに! うっかりマーク外してたあぁぁあああ!」
玲音にツッコまれ、俺は即座にジョグから全力スプリントへ移行する。
カウンターをケアする味方CB(センターバック)が、ディレイに徹してくれたのは幸いだった。おかげで、どうにか兎和の背中を捉えられそうだ――と思った矢先、耳に衝撃的な音が飛び込んでくる。
『兎和くん!』
凛とした女の声がピッチに響く。否、気づいた者はほとんどいなかっただろう。それほど声量は大きくなかったから。だが、恋に飢える童貞の俺にはハッキリと聞こえた。周囲には男しかいないというのに。
同時に、兎和の変化に目を奪われた。驚くほどスムーズに、運ぶドリブルから仕掛けるドリブルにリズムを切り替えたのだ。急にボールタッチが細かくなる。
そして間を置かず、あの声が続く言葉を響かせる。
『――ゴーッ!』
直後、一陣の青い風が勢いよく吹き抜けていく――兎和はシザースフェイントを交え、センターよりに重心を傾ける。しかしディフェンダーが体勢を変えるや否や、爆発的なアジリティを発揮しつつ瞬時に縦へボールを持ち出して突破を図ったのだ。
東帝のCBはあっさりぶち抜かれ、ビブスを掴もうと伸ばした俺の腕は虚しく宙を空振った。
信じられない光景だった……リアルで見た、どの選手よりも俊敏な切り返しだった。あんなドリブルができる選手、日本代表にだっていない。つーか、どうしてアレで無名なんだ?
感動のあまり、気づけば足を止めていた。
視線の先で疾走する兎和は、そのまま快速ドリブルでペナルティボックス内に侵入し、鮮やかにシュートを放つ……かと思いきや、なぜか途中でガクッとペースダウンする。
それでも、半ば転がりながらもグラウンダーのクロスを送ることに成功し、後方から詰めていた栄成の選手がダイレクトで合わせて得点を決める。
謎の女の声に、原因不明のペースダウン……兎和のヤツ、ただ実力を隠していたわけではなさそうだ。いいね、ズキューンときた。
喜びを爆発させる栄成の選手たちを眺めながら、俺も自然と笑みを浮かべていた。
***
僕のクロスをゴールに押し込んでくれたのは、後方から猛追してきた大木戸先輩だった。そして得点が決まって間もなく、タイムアップの笛が鳴り響く。
試合時間が20分と短かったので、どうにか先制点を守りきって勝利できた。
それはともかく、僕は疑問の答えを求めて自陣ベンチへ向かう――試合中、なぜか美月の声が聞こえて条件反射のスイッチが入った。けれど、途中で『ここにいるはずがない』と我に返り、再び体がトラウマに侵食され急激なペースダウンを起こした。
あれはいったい何だったのか……ベンチを探してみても、美月の姿はやはり見つからない。その代わり、タブレット端末と小型のブルートゥーススピーカーを発見する。
「ま、まさか……!?」
「気づいたか、兎和――そう、先程の美月の声は動画だ。せっかくの機会だから、俺がいい感じのタイミングで再生してスイッチを入れてやったのだ! 実は昨晩、本人が送ってきてたんだよ」
永瀬コーチが、誇らしげに種明かしをしてくれる。
昨晩、美月から動画と使い方に関する説明メッセージが届いていた。しかし酒を飲んで酔っ払っていたせいで、ラストマッチの直前までその存在を忘れていたらしい。
ついでに、なぜか『自分の声でも兎和は反応する』と勘違いしていたそうだ。なお、撮影したのは涼香さんだという。
なるほどね……ちょっとショック!
僕の体は、肉声じゃなくても反応してしまう節操なしだった。動画だと、若干声質が違うはずなのに……あ、だから昨晩通話したのか?
ともあれ、僕は完全に美月の手のひらの上みたいだ……うん、ぜんぜん悪い気はしない。いっそこのまま、人生ごと預けてしまいたくなる。
「兎和、お疲れ。あのドリブル突破、マジ最高だったぞ!」
疑問が解消してスッキリした僕は、ベンチ脇で水分補給を行っていた。そこへ蓮くんがやってきて、ねぎらいの言葉をかけてくれる。
「ありがとう。マグレみたいなものだけど、褒めてもらえて嬉しいよ」
「あえて実力を隠していたクセに、よく言うぜ。今年の栄成は強敵だな」
どうやら彼、何か勘違いをしているっぽい。とはいえ、こちらの事情を打ち明けるのには抵抗がある。なので、曖昧な笑顔で誤魔化しておく。
それからまた、しばらく雑談を楽しむ。
すると不意に、握手を求めるように右手が差し出された。
「兎和、今度は同じチームでプレーしよう」
「え、それはムリじゃない? 高校が違うし」
「何言ってんだよ。高校選抜とかあるだろ――いや、どうせなら日本代表がいいな。世界を相手に、一緒に大暴れしようぜ」
僕が……日本代表?
絶対に叶うはずないってわかっているのに、なんだか心が高鳴って止まらない。
多分、そのせいだ――握手を交わしながら、白昼夢を見た。日の丸を背負う、突拍子もない未来の光景が頭を巡る。
こうして、栄成サッカー部・Cチームの夏合宿は幕を閉じた。