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第81話

 妹の兎唯(うい)を連れて南青山のヘアサロンへ行った、その夜。

 寝る準備を整えてベッドでダラダラしていると、不意にスマホが振動した。画面を見れば、美月からの着信だった。


『兎和くん、こんばんは』


「美月、こんばんは。こんな時間に珍しいな」


 画面をタップしてスマホを耳にあてると、凛とした声が僕の名を呼ぶ。

 美月が夜遅くに連絡してくるのは稀だ。成長ホルモンの分泌や肉体の回復力を考慮し、たっぷり睡眠を取るよういつも注意されている。夏合宿のときも珍しく思っていた。


 つまり、どうしても話したいことがあるっていう証拠だ。


「何か気になることでもあった?」


『うん。兎唯ちゃん、どうしてる?』


 ああ、そのことか……本日のお出かけの際にトラブル(白石鷹昌くんとの遭遇)が発生し、妹が泣き出すというハプニングが起きた。しかし最終的にはパンケーキを食べる希望が叶い、すっかり機嫌を直していた。加えて、僕が貸したお金も帳消しになりニコニコである。


 しかも妹は『アイツ(白石くん)つぎ会ったらぶっ飛ばす』と息巻いており、帰宅した父にボクシングを習いたいとおねだりしていた。あっさり却下されていたが。


「本人も『つい感情が高ぶって泣いちゃった』とか言っていたし、あまり重く受け止める必要はないよ」


『ならよかった。でも、ボクシングを習うのはいいわね。それで、ムカつく人みんなパンチするの』


「……やめてくれ。美月はただでさえ血の気が多いんだから」


『ふふふ。それ、本当に面白い冗談よね』


 マジで、美月には自分の性格をきちんと把握できていないフシがある。アレだけ頭がいいのに不思議で仕方がない。おまけに、周囲も穏やかな人物判定を下している……こうなると、事実を伝え続けるのは僕の使命だ。


『そういえば、兎和くんがあんなに怒るなんてちょっと意外だったわ』


「あー……自分で言うのも何だけど、僕、怒るの苦手なんだよなあ」


 すごいエネルギー使うし、正気に戻ると相手に申し訳なく感じてしまう。それで、謝るべきかどうかグズグズと悩んで倍疲れるのだ。

 実際、明日の終業式で白石くんに会ったら謝ろうかと考えていた。だけど、それが別の問題に発展したら嫌だな……なんて迷っている。


『私は、別に気にする必要ないと思うけど。あんな面倒な絡みをしてくる方が悪いでしょ。でも、安心した』


「……今の話のどこに安心できる要素あった?」


『怒らない人って、自分にも周りにも無関心なことが多いの。でも、兎和くんは違った。兎唯ちゃんのために、あれだけ感情を剥き出しにした。自分より大切な人を優先する性格なのだと、改めて実感したわ』


 僕は自分のことが世界一キライ……最近は少し改善してきたが、根本に変わりはない。だから、他者を優先しがちなのは普通の感覚だ。まして相手が家族なら選択の余地などない。


 正直、美月の性格診断にはイマイチぴんとこないが、不安にさせるよりは断然マシか。というか、涼香さんはどう思ったかな。嫌われてないといいのだけど。

 そう考えると、僕の方こそ不安に襲われる……しかし、すぐに杞憂だと判明する。


『涼香さんなら、「青春だね~」って。それに、兎和くんのこと見直したって。あれは相当なシスコンだね、と笑っていたわ』


「違う。妹がブラコンなんだ」


 妙な誤解はやめてくれ……ともかく、あんな取り乱した姿を見せたのに、変わらず接してくれる美月と涼香さんには感謝しかない。最悪の場合、怖がられて関係が変わってしまう可能性もあったのだ。以後、気をつけます。


「……美月、ありがとう。涼香さんにも、今度またお礼を言わないと」


『急にどうしたの? あ、そうだ。私のあげた「三日月のぬいぐるみ」は、部屋のどこに置いているの?』


「今ちょうど枕にしてる。フワモコでいい感じだよ」


『ちょっと!? 頭を乗せるんじゃなくて、枕元とかに飾っておいて! よかったらクリーニングに出してあげようと思ったけど、それはナシね』


 なぜか美月はプンスカしていた。しかし僕としては、『ぬいぐるみのクリーニング』の方が気になる。無論、家で洗うとかの話ではないのだろう。


 詳細を尋ねると、衣服のクリーニングとあまり変わらない、との返答を得られた。

 ホコリやダニの対策らしい。僕が以前あげたぬいぐるみも、一度キレイにしてから枕元に置いてあるみたい。宅配対応で、だいたい2週間ほどで戻ってくるという。


「ちょっと神経質なんじゃない?」


『だって、寝具には清潔なモノしか置きたくないんだもん』


 そんなもんか、と思いつつ枕代わりにしていたぬいぐるみの匂いを嗅いでみる。特に異常はない。これなら、ホコリやダニの心配はしなくても良さそうだ。

 僕は安心して再び頭をのせた。フワモコで、ちょっと横になるときにピッタリなのだ。


『まあ、いいけど。そろそろ寝ましょうか。兎和くん、また明日ね』


「うん。美月、また明日」


 通話を切ると、満ち足りた気持ちが不思議と胸に込み上げてくる。程よい疲労感も相まって、僕が眠りに落ちるまで数秒もかからなかった。


 翌日、栄成高校では終業式がつつがなく執り行われた。

 騒がしくも楽しかったスクールライフの1学期が、無事に幕を閉じたのだ……対してサッカーライフの方は、夏のピークに合わせて活動がますます盛んになっていく。


 まず終業式が終わり次第、栄成サッカー部で2回目の『フィジカル測定』が実施された。


 前回は白石(鷹昌)くんとペアを組まされ、ストレスフルの状況で各種目にトライするハメになった。そのうえデータ整理を請け負った美月に、トラウマに起因する手抜きがバレたんだっけ。


 考えてみれば、僕の環境を激変させる出来事となった。

 一方で、今回は平穏に乗り切れそう――なぜなら、株式会社カームが提供する『フィジカルフィットネスプログラム』の受講者のデータが、栄成サッカー部にフィードバックされているから。


 期末テスト後に新宿のカームラボで測定したデータは、すでに永瀬コーチたちの手元に届いている。しかもより詳細な情報が提供されているため、部のフィジカル測定にわざわざ参加する必要がなくなった。


 これは、実に画期的なブレークスルーだ。僕はついに、トラウマの影響がない『本来の運動能力』を栄成サッカー部に伝える手段を得たのである。きっと美月は、このあたりの結果まで見越していたに違いない。マジ女神。


 他にも玲音や里中くんをはじめ、大桑くんやGKの池谷晃成(いけたに・こうせい)くんなど、カームのプログラム受講者は測定を免除されていた。その代わりに、計測のお手伝いを任された。


 実は、美月主催の説明会に参加したメンバーのほとんどが、すでにプログラムに申し込んでいる。しかも希望者は増え続けており、定員を超える勢いのため現在は受付を一時中止しているらしい。大盛況でなによりである。


 ちなみに、プログラム受講に伴って僕の自主トレにも改善が加えられた。


 現在は父とカームの担当者が共同でメニューを決めており、それを美月に通達するシステムが構築されている。当然、トラウマ克服トレーニングへ組み込まれることになる。


 食事メニューに関しても、アスリートフード系の資格を多数持つ母の意見が大いに取り入れられている。聞くところによれば、カームに依頼されて逆にレシピの販売などを行っているそうだ。


 さらにスポーツビジョン強化のために『専用ヘッドマウントデバイス』が送付されてきたりと、我が家の『Jリーガー育成計画』は最先端スポーツ科学の恩恵を受け、かなりのグレードアップを果たしていた。


 余談だが、栄成サッカー部・1年生の勢力図にも変化が起きていた。


 カームの説明会を開催して以降、陰キャ同盟と優等生連合がゆるやかに融合していった。今ではほぼ垣根が存在せず、数の上では白石くん派閥を凌駕している。

 おかげで、部室の雰囲気もだいぶ改善された。


 ともあれ、フィジカル測定が終わると本格的な長期休暇へ突入する。ついに、高校に入って初めての『夏休み』がやってきた。


 夢の青春スクールライフと似ても似つかぬ汗だくサッカーライフ――そのどちらにも大きな影響を与える灼熱のシーズン到来だ。


 この夏、僕はどんな思い出を作れるのだろう。おもちゃ箱を受け取ったときのようなワクワクを胸に抱き、燦々と輝く太陽に目を細めた。

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