夏休みに入り、はや数日。
生徒のいない校舎には、ひっそりとした静けさが漂っている。一方、栄成サッカー部の活動は熱気と賑やかさを増すばかり。
セミの大合唱が響き渡る中、灼熱の陽差しが降り注ぐ人工芝のピッチでひたすらボールを蹴る日々が続く……この時期になると、僕は毎年思う。日本の夏にサッカーなんてやるもんじゃない、と。
近年は記録的な猛暑日が続き、ただでさえシンドイ汗だくサッカーライフが軽く地獄と化している。しかも栄成サッカー部はプレースタイル的に運動量が多くなるので、夏場の苦しみも大盛りマシマシだ。
とりわけ走力向上に注力しているここ最近は、ヘロヘロ状態で部室を後にするのが定番となっていた。
そして皆の肌の色がすっかり夏めいた頃、Aチームが青森遠征へ旅立つ。ほぼ同時に、Bチームも茨城遠征へ出発した。残るC・Dチームは、試合などをこなしつつトレーニングに打ち込んだ。
その間……というか、今もなお僕は『トラウマ克服トレーニング』を継続中だ。
部活が終わったら三鷹総合スポーツセンターのグラウンドで美月と合流し、まずは彼女お手製の軽食でエネルギーを補給する。
以降は父とカームの担当者が共同で作成した自主トレメニューをこなしつつ、合図に連動してドリブル&シュートを実施。シュートが成功すれば、ご褒美として『青春スタンプカード』のマス目が埋まる。相変わらず脳汁出まくりだ。
時おり、気分転換のために涼香さんを加えた三人でバドミントンに興じたりもする。
また週に数回は、『東京ネクサスFCさん』のところへお邪魔している。
ゲームトレーニングに参加させてもらうたび、監督を務める『安藤さん』の勧誘が激しくなってきている以外は実に順調だ。何も考えずに楽しくサッカーができる貴重な時間なので、今後もぜひお世話になりたい。
正直、夏休みなのに休むヒマがない……そんな中、美月とほぼ毎日会えるのは大きな救いだ。
彼女の顔を見ると、なんだか気分がリフレッシュする。あと、涼香さんとアホな会話をするのも結構好きだ。
ともあれ、時は溶けるように流れ去り、気づけば今年の7月も終わりを迎えていた――代わりに、待ちに待ったこの日がいよいよ訪れる。
「……これで、ヨシ!」
本日は8月1日。
つまり、『グランピング』の開催日だ。
僕は太陽が昇るよりも早く起床し、美月が企画してくれたスペシャルイベントに向かう準備を整えた。そして現在は、自室の姿見の前で最終のファッションチェックを行っているところ。
今回はサマーレジャーということで、涼しげかつ軽快さを重視した『ゆったり目Tシャツとハーフパンツコーデ』をチョイス。美月が先日セレクトしてくれた組み合わせなので、かなりイケてる……はず!
服装に満足したら、荷物の詰まったボストンバッグを持って階下へ移動する。
この後、美月たちが車で迎えに来てくれる予定だ。しかしワクワクして待ち切れない僕は、ピンポンが鳴ったらすぐに出られるよう玄関でスタンバイする。
「あら、おはよう。こんなに早く準備するなんて、ずいぶん楽しみにしていたのね」
「おはよう、母さん。美月たちを待たせたら悪いから。あ、父さんもおはよう」
「おはよう、兎和。これを飲んでいきなさい」
玄関に座って時間を潰していると、リビングから姿を現した母に内心をあっさり見抜かれる。続いて、父がアイスコーヒーを注いだカップを手渡してくれた。二人とも見送りのために早起きし、わざわざ私服に着替えてくれたのだ。
お礼を告げてから、僕はゆっくりコーヒーを味わう。
そこで突然、キュートなデザインのボストンバッグが目の前に投げ置かれる。ついでに、ルンルンとハミングするほど上機嫌な妹が隣に腰を下ろした。
おかしいな……いつもの妹なら眠りこけている時間のはず。それに、まるでサマーレジャーにでも行くような服装じゃないか。
「……おやおや、兎唯ちゃん。そんなにオシャレして、いったいどこへお出かけで?」
「ん~? グランピングだよ~」
「そっかそっか、奇遇だな。兄妹でたまたまグランピングの予定がカブったのか……って、そんなわけあるかーい!」
また僕にしょーもないツッコミ入れさせやがって。しかも妹は、ノーリアクションでスマホをいじってやがる。リビングに戻った母から、「朝早いから大声ださないのよ」と注意が飛んでくる……くそ、いたたまれないぜ。
それに、この先の展開も読めているぞ。答えなんて聞くまでもない……だが、ここは様式美として尋ねておいてやるか。
「で、兎唯はどうしてグランピングへ?」
「美月お姉さまが誘ってくれたんだよ。お兄ちゃんが拒否るかもしれないから、内緒にしてもらってたの」
だと思った……つーか、拒否して当然だろ。せっかくのサマーレジャーに妹同伴とか、周囲にシスコン疑惑を振りまくだけだっての。
本気でまいったな。早いうちに兎唯と美月のホットラインを潰さねば。二人に結託されたら、僕の勝ち目はゼロに等しい。
しかしながら、今回はもはや手遅れ。
ちょうどインターホンが鳴り、妹が扉を開けて元気よく外へ飛び出していった。
やれやれ、仕方がない……僕も後を追い、玄関ポーチへと足を運ぶ。
「おはよう、兎和くん」
「おはよう、美月…………」
曙光を浴びながら玄関前で佇む美月を視界に捉えた瞬間、僕は思わずフリーズした。
本日のコーデは、動きやすそうなショートパンツスタイルだ。爽やかなカラーを基調としており、カジュアルな装いながらも清楚可憐な印象が際立っている。
たとえ兎唯が体にまとわりついていようとも、その超絶美少女っぷりには非の打ち所がない。大抵の思春期男子は、あまりの美貌に見とれてフリーズすること間違いナシだ――けれども、僕がいま硬直しているのには別の理由があった。
美月の隣に、見知らぬ青年が寄り添うように立っていた。
スタイル抜群で、超絶的なイケメンだ。カジュアルながらもスタイリッシュな衣服を見事に着こなしている……一体どこのトップモデル連れてきちゃったの?
「やあ、おはよう。キミが兎和くん? いつも妹と仲良くしてくれてありがとう。俺は『神園旭陽(かみぞの・あさひ)』、美月の兄です。グランピングに同行させてもらうことになったから、よろしくね。ぜひ仲良くしてほしいな」
言って、右手を差し出してくる超絶イケメンお兄さん。
僕は「ほへ」と気の抜けた返事をしながら握手に応える。すると、彼は元気よくブンブンと腕を上下に振った。たったそれだけの動作なのに、なんだかすごくいい香りが漂ってくる。
「いきなりごめんね、兎和くん。お兄ちゃ……兄も同行することになったの。車の運転だけを頼むつもりだったのに、本人が『絶対に行く』ってうるさくて。ほら、もう握手はいいでしょ!」
半ギレの美月が介入してくれたおかげで、ようやく僕の腕は解放された。
一方、超絶イケメンお兄さんはマイペースに爽やかな笑顔を浮かべていた。さらに「気軽に『旭陽くん』って呼んでね!」と声をかけてくる。
そっか、同行するのか……僕は人見知りを発症し、さっそく返事に詰まってしまう。
超絶イケメンお兄さんと一泊二日。最悪、彼の放つキラキラオーラに焼き尽くされるかも。それでチリとなった僕は、ひっそりと夏の風にさらわれていくのだ。
そうでなくても、気を使いまくって疲れてしまうだろう。せっかくのサマーレジャーなのに……他の参加者はみんな仲良しであるものの、全力で楽しめるか不安になってきた。ワクワク気分に冷水をぶっかけられたような心地だ。
とはいえ、今さらキャンセルなど不可能。
カジュアルなファッションに身を包んだ涼香さんも車から降りてきて、顔を見せたうちの両親と挨拶を交わす。その後、ついに出発のお時間がやってくる。
「今回は人数が多いから、車二台できたの。振り分けは、とりあえず男女別でいいわよね?」
美月の言った通り、我が家の前には二台の高級ワンボックスカーが並んで停まっていた。そして涼香さんが運転する方に女子が乗り、旭陽くんが運転する方には男子が乗るみたい。
いきなり試練が訪れた……次は、他の参加者たちをピックアップするために三鷹駅へ向かう予定だ。つまり、しばらくは男二人っきり。きっと車内には、気まずい沈黙が横たわるに違いない。ずんと気が重くなってきた。
ところが、僕の心配は車が進み出してからすぐに吹っ飛ぶ。
「いやあ、飛び入り参加しちゃってごめんね。涼香とレジャーに行ける機会だと思ったら、いても立ってもいられなくて」
「はあ……」
仕方なく助手席に座って前方を眺めていると、ハンドルを握る旭陽くんがあけすけに話を振ってきた……というか、今なんて?
「実は俺、涼香に婚約を申し込んでいるんだ。でもさ、『そういうのは大学を卒業してから』って親が許可してくれないんだよ。まいったよね」
「はぁぁああああっ!?」
あはは、と笑う旭陽くん。
対照的に、僕は久々に全力で取り乱した。
「涼香さんと婚約……」
失礼ながら、ちょっと驚きだ。なにせ彼女は、人柄は良くても本性は生粋のニートである。ゆえに、恋愛対象としては疑問が残る。
いや、しかし……外見で判断すれば完璧に釣り合いがとれている。超絶イケメンとスーパークールビューティーの二人は、並んで歩くだけで絵になる最高の組み合わせだ。
「ちなみに、これが初恋ね。だから、俺は20歳なのにまだ童貞なんだ。友だちには笑われるけど、こればっかりは仕方ないよね」
旭陽くん曰く、幼い頃に親戚の集まりで一目惚れして以来、涼香さんのことを一途に思い続けているらしい。幸い、結婚に支障がない程度に血のつながりは薄いそうだ。
「……あの、めちゃくちゃカッコイイっすね!」
「童貞でも?」
「そんなの関係ないです! 旭陽くんは、めっちゃイケメンです!」
「あはは、ありがとう。でも、今の話は俺たちだけの秘密ね。兎和くんと仲良くなりたいから特別に打ち明けたんだよ」
はい、と僕は笑顔で返事をした。
ひたすら一途に年上の女性を思い続ける超絶イケメン……まるで恋愛映画に登場する主人公みたいだ。
しかも秘密を共有したことで、心の距離がぐんと縮まった。おかげで、旭陽くんとはすぐに打ち解けられた。
この分なら、グランピングを全力で楽しむことができそうだ。
短いドライブタイムを経て三鷹駅に到着したとき、僕のテンションはすっかり復調していた――こうして、待望のサマーレジャーが始まった。