「美月の母、神園結月(かみぞの・ゆづき)と申します」
神園母、我が家に降臨す――それは、最高のサマーレジャーから帰還して少し経ったある日のこと。
以前より美月は、『母がご挨拶に伺いたがっている』と話していた。僕もいずれ顔を合わせて筋を通すつもりでいたが、例のごとく自分の知らないうちに予定が決まり、本日の昼下がりにとうとう実現したのである。
そして我が家のリビングのテーブルに招かれ、すっと背筋を伸ばして椅子に腰掛ける神園母を前にした瞬間、僕は度肝を抜かれた……あまりに美しかったから。
うちの母と同年代らしいが、ずっと若々しい。
煌めく青い瞳、明るく艶やかなロングヘア、加えて西洋的な顔立ちを持つ奥様だ。とりわけ印象的なのは、その並外れた美貌と気品……どこかの国の『女王様』と紹介されても信じてしまうぞ、僕は。
正直、美月を初めて見かけたとき以来の衝撃だ。涼香さんも色々な意味で強烈だったけれど。しかもこの二人が神園母の両隣に控えているものだから、一般家庭のリビングとは思えぬほど場が華やいでいる。
僕は母の隣に座り、対面に並ぶビジュアルつよつよトリオを眺めて至福のひとときを味わう。
妹が前に『美しいものを見ると心が健康になる』とか言っていたが、どうやら嘘じゃなかったみたい――だが次の瞬間、思いもよらぬ光景を目撃する。
「日頃より貴家の大切な御子息にご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。我が家のバカ娘たちときたら、いくら注意しても聞く耳を持たず手を焼いておりまして……何をぼんやりしているのです! ほら、アナタたちも頭をお下げなさい!」
『ぐへっ!?』
神園母は深々と頭を下げた。次いで『バカ娘たち』と叱責した二人の後頭部に手をやり、ぐいっと顔をテーブルに押し付ける。
美月の口から愉快な悲鳴が漏れたので、僕は吹き出しそうになった。
涼香さんならともかく、彼女が怒られる姿なんてそうそう見られるもんじゃない。動画に撮っておけなかったのが悔やまれる。
「ちょっ……ママ! 恥ずかしいからやめて!」
「何が恥ずかしいものですか! それに、外では『お母さま』と呼びなさい!」
後頭部に添えられた手から逃れた美月がむっとして不満を示すものの、すかさず強烈なカウンターを食らう。その反対側では、涼香さんが顔面をテーブルにつけたまま「うへ~」と力なく呻いている。神園母、強し。
「あらあら。お世話になっているのはこちらの方ですから、美月ちゃんと涼香ちゃんを許してあげてくださいな」
「いいえ、いいえ! きっと美月が、兎和くんを振り回しているに違いありません。涼香に至っては、図々しくも先日お酒をご馳走になったとか。重ね重ね、申し訳なく思っております」
うちの母が見かねた様子で宥めに入る。しかし神園母は簡単には納得せず、自分の娘たちの振る舞いを詫び続けた。
完全な誤解なので、こちらの方こそ申し訳なくなってきた……というか、かなり意外だ。美月は親に『問題児』と思われているらしい。涼香さんは言わずもがなである。
「とんでもございません。愚息の活動をいつも温かくサポートしてくださって、心からありがたく思っています。うちの下の娘も、お二人をまるで姉のように慕っているんですよ」
「本当でしょうか? 我が家の者は無遠慮なところがありますので、困らせてばかりいるのではないかと心配していたんです。特に美月は、サッカーの事となると見境がなくて……」
「うちもそんな感じですよ。同じ年頃の子どもを持つ親同士ですし、神園さんももっと気軽に接していただけると嬉しいわ」
「ありがとうございます。そうしていただけると、私も嬉しいです。まったく、うちの娘ったら――」
やっと落ち着いたかと思えば、今度は同年代の子どもを持つママ友トークが飛び交い始める。
度々話題にされる僕と美月は、白目をむきかけた……が、余計な口を挟めば火の粉が飛んできそうなので、ここはじっと堪えるしかない。
涼香さんは早くも飽きたようで、スマホを取り出してソシャゲをしていた。怖いもの知らずにもほどがある。
僕たちが解放されたのは、至極プライベートな情報をたっぷり暴露された末のこと。
「兎和。これから大事な話をするから、美月ちゃんを連れてお部屋に行っていなさい」
「美月、兎和くんに迷惑をかけてはいけませんよ」
ようやくお役御免か……大事な話とは、すなわちお金の話である。
うちの両親は常々、『何でもかんでも費用を負担してもらうのは申し訳ない』との考えを口にしていた。
僕は美月たちと一緒に車で移動する機会が多いけれど、それにもガソリン代などがかかっているわけで。思い返せば、他にもずいぶんとお世話になっている。そこで今回、大人だけでその辺りの事情について話し合うそうだ。
「じゃあ美月、2階にいこうか」
「そうね。では優卯奈(ゆうな)さん、いったん失礼しますね」
僕と美月は連れ立ってリビングをあとにする。すかさず涼香さんも、「若い二人が間違いを犯さないように見張ります!」と志願してついてくる。逃げ上手のニートである。
ちなみに、優卯奈とは僕の母の名だ。名前で呼び合うとか仲良しすぎんだろ。
「ふう……なんかどっと疲れたな」
「兎和くん。私の母から聞いた話は決して口外しないように」
あ、うん……部屋に入った途端、美月がドスのきいた声で釘をぶっ刺してくる。
子どもの頃の恥ずかしい話などを暴露された者同士なのだ。言いふらしたりしないって。なんだかもったいない気もするし。
「ならいいわ。あ、ぬいぐるみはちゃんと枕元に置いてあるのね……ちょっとヘコんでない?」
回答に満足したらしい美月は、ぽすりとベッドに腰掛ける。次いで枕元に置いてあった『三日月のぬいぐるみ』をそっと胸に抱く。以前プレゼントしてくれたやつだ。ちょっと横になるときにピッタリなので重宝している。
「そういえば、今日は兎唯ちゃんお出かけしてるんだっけ? 会いたかったなぁ」
間を置かず、同じくベッドに腰を下ろした涼香さんが尋ねてくる。
僕もデスクチェアに腰掛け、「今日は朝から友だちと遊びに行っている」と返事をした。こちらの部活の日程に合わせてもらった結果、妹の予定とかぶってしまったのだ。
「兎唯も二人に会えなくて残念がっていたから、こんど遊んであげてよ」
「もちろん。この涼香お姉さまが、またどこかへ連れて行ってあげよう」
あれ、『お姉さま』と呼ばれていたのは美月だけだったような……まあ、野暮なツッコミはいらないか。
その後、またもソシャゲに集中し始めた涼香さんを放置し、僕たちは会話を楽しむ――だが、しばらくすると美月が不意に表情を引き締め、「ねえ兎和くん」と大きく話題を変える。
「トラウマの件、まだご両親には打ち明けていないの?」
「……うん」
僕は軽くうなずき、言葉少なめに肯定する。
相変わらず打ち明けられていない……否、打ち明けるつもりがないというべきか。
話せば、両親は絶対に優しく受け入れてくれる。それで、きっと責任を感じさせてしまう。だから、ひた隠す。温かな期待を裏切り続けてきたからこそ、これ以上余計な心配をかけたくないのだ。
「でも、うちの両親は勘づいていると思う」
トラウマの種を植え付けられた当時、僕は心を折られて大きく調子を落とした。そしてあからさまに塞ぎ込んでいたせいか、両親は『無理してサッカーを続けなくていいよ』と何度も声をかけてくれた。
その際、なぜか激しく反発した覚えがある……あれ以来、うちの家族は優しく見守るスタイルに変わった。
それにしても、あのとき辞めないでよかった。今になってしみじみ思う。自分の選択が正解になったのも美月のおかげだ。
「本当にありがとう」
「いきなりどうしたの? まあトラウマ克服トレーニングは順調だし、ムリに話す必要もないか。青春スタンプカードは我ながら名案だったわ」
ニコニコと自画自賛する美月。
僕も激しく同意する。おかげで、周囲の環境はガラッと変わった。かけがえのない仲間もできた。嫌なこともあるけれど、それ以上に毎日が楽しい。
「でも、そうね……そろそろ、ご家族を試合に招待しても問題ない頃合いかしら」
続く美月の言葉を聞き、ひゅっと息を呑む。
僕がトラウマによってまともにプレーできなくなってから、家族は引退試合などのメモリアルマッチ以外は観戦に来なくなった。言葉にはしていないが、空気を読んで配慮してくれているのだろう。
「もちろん、今すぐにって話じゃないわよ。けれど、近いうちに兎和くんの勇姿を見せてあげたいの。ご家族が多大な努力を重ねてきたからこそ、こんなにも鮮やかに才能が開花している――そう伝えたくて」
確かに、最近はそれなりにプレーできている。体感では、常に『50パーセント以上』くらいの力を発揮できていると思う。さらに美月の助けがあれば、リミッター解除すら可能だ。
もし得点を決める姿を両親に披露することができたなら……僕は不意に、体の奥底が震えるような感覚を抱く。
「…………美月、いつ頃がいいかな?」
「兎和くん……!」
返答を受け、美月が少し声を震わせた。それから彼女は跳ねるように立ち上がり、僕の頬を両手で挟みながら笑顔を咲かせる。
「よくできました! 100点ハナマルです!」
美月の冷たい手のひらに、僕の頬の温度がじんわり伝わっていく。その境界が曖昧になったところで彼女はふっと距離を取り、物寂しさが胸に広がる――その代わり、二人して微笑みあう。
ベッドの方から、涼香さんの「青春だね~」という呑気な声が飛んでくる。
この日、僕に新たな目標ができた。
――それからしばらく経ち、8月も半ばを過ぎようとしていた頃。
「フッざけんな! グダグダ文句たれやがって、このクソ雑魚ども! ちょっと早く生まれたからってえらそーに指図すんじゃねえッ!」
部活の休憩中、ついに白石(鷹昌)くんが大爆発した。
相手は、3年生の林先輩が率いる『拗らせ勢』。場は瞬く間に騒然となり、新たな波乱の予感が立ち込める。
どうやら、夏休みはタダじゃ終わらないらしい。