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第96話

「おい林――林雅紀ッ、なにぼけっとしてんだ! 相手のセットプレーだ、ブロック作るぞ!」


 長らくCBの相方を務めてきた味方から自分の名前を大声で呼ばれ、ハッと我に返る。

 確かに呆けている場合じゃない。今は大事な試合の最中で、相手にセットプレーを与えたところだ。直接得点を狙える位置なので、まずはきっちり攻撃を跳ね返さなければ。


「……集中だ! しっかりマークとボールを視界に入れろ!」


 味方が作るゴール前の守備ブロックに加わり、チームを鼓舞しようと声を張り上げる――皆に集中を要求する一方、俺はいまだに注意散漫な状態だった。


 先ほど兎和の謎オーラを幻視してから、炎天下のピッチに立っているというのに悪寒がとまらない……まるで相馬と対峙したときみたいに、心がざわついて仕方がないのだ。

 おまけに、夏合宿で目撃した『脅威のドリブル突破』のシーンが頭の中をぐるぐる巡っている。


「こんな重要な時に……クソったれ! ココきっちり守りきるぞ! そんで、点を取って勝つ!」


 虚勢でも、やせ我慢でも、空元気でもなんでもいい。どうにかメンタルを安定させ、この試合を乗り切る。そもそも、相手は相馬じゃない。過剰に恐れては、萎縮して本来のプレーができなくなる。


 俺は胸に渦巻く不安を無理やり薪にして、下火になりかけていた闘志を再燃させる。

 ちょうどそのタイミングで主審が短く笛を吹き、フリーキックを担当する鷹昌が右足を振り抜いてゲーム再開となる。


 青空を背景に、白いサッカーボールが緩いカーブを描いてペナルティボックスへと入ってくる。シュートではなく、ファー(遠い側)の選手に合わせるようなロングキックだ。が、これにいち早く触れたのは赤いビブスを着用する味方SBだった。


 誰をターゲットにしていたかは知らんが、危なげなくクリアできた。難を逃れ、俺はホッと息を吐く。


 しかし、まだ安全は確保できていない。大きく跳ね返ったボールは、カウンターをケアすべくミドルサード(中盤)にポジショニングしていた里中に拾われた。このままでは二次攻撃を許し、さらに押し込まれてしまう。

 そこで俺は、大げさに両手を振ってチーム全体の重心を押し上げる。


「前はプレスかけろッ! ライン上げるぞ!」


 前線の選手にプレスを仕掛けさせ、当初の予定通り高い位置でボールを回収してカウンターを狙う。攻撃は最大の防御なり。


 なにより、引いたままでいると不要なピンチを招く。ディフェンスラインが低ければ、それだけ相手がゴールに近づいているということだ。


「イケイケッ、前から追っかけろ! 中盤も遅れるな!」


 ベンチから豊原監督の指示が飛ぶ。おかげでチーム全体の意思が統一され、個人の判断に迷いがなくなる。するとたちまちインテンシティが高まり、失いかけていたペースを再び掌握した。

 相手も懸命に抵抗しているものの、形勢が目に見えて変わっていく。


「よし……大丈夫! 勝てるッ!」


 俺は一人で勝手に弱気になっていたけど、試合自体はこっちが押し気味に進めていたのだ。まして残り時間もそう多くない。ならば、このまま押し切ってケリをつけちまえ。


 勝利への道筋がはっきりと見えた気がして、思わず安堵した――ところが、数回瞬きをする間に状況は一変する。


「は……?」


 キッカケは、一本のロングフィード。

 自陣バイタルで味方がインターセプトに成功すると、ビルドアップの起点となる俺にボールが渡る。同時に、前線に張っていた味方CFが動き出してパスを要求してきた。


 俺は迷わず長いボールを蹴った。タイミングが良かったから、通ると思ったのだ。

 しかしこの奇襲は、きちんと警戒していたディフェンダーに妨害され、セカンドボールを玲音に回収されてしまう。


 ここで、当然こっちはカウンタープレスを仕掛ける。高い位置から激しくプレッシャーをかけ、ボールを回収して素早くゴールを目指そうとした。


 けれど、予想外の粘りを発揮した玲音に思惑を潰される。ヤツは体勢を崩しながらも辛うじてプレスを回避し、フォローに来ていた里中へとボールを繋いだ。


 さらにこの二人は巧みに連携し、颯爽と前線へ抜け出した。そしてこっちのDMFを釣りだした途端、鋭いグラウンダーパスをズバッと左サイド(相手から見て)へ通す。


 最終的に、アタッキングサード手前にポジショニングする兎和の足元へボールが収まる――ゾワリと、俺は本日最大級の悪寒に襲われる。


「そ、ソイツを抑えろ……!」


 噛みかけながらも、どうにか味方SBに指示を出す。

 状況が悪く、嫌な胸騒ぎが収まらない……チームが前掛かりになっていたせいで、ディフェンスの枚数がやや物足りなく感じる。フィールドプレーヤーの中で最後尾の俺がブチ抜かれたら、後はGKに命運が託される。


 カバーに入りつつも、マッチアップする味方SBの奮闘を願わずにはいられない――そこで不意に、視界の端に観戦エリアが映り込む。もっと言えば、最前列でブルーのタオル振りかぶる『神園美月』の姿を目が捉えた。


「兎和くんッ!」


 神園美月が通りのいい声で、もっとも気に入らない後輩の名前を叫ぶ。

 すると、兎和の動きが明確に変化した。


 これまでのスペースに運ぶドリブルから、インステップで小刻みにボールをコントロールするドリブルに切り替わる。さらにぴょんぴょんと独特なステップを踏み、ファーストディフェンダーとの間合いを詰めていく……ふと『跳ねる白ウサギ』のイメージが浮かんだ。


 次いで、ドクン、ドクン、と。

 やたら存在感を主張する自分の心臓が二回鼓動をうち、勝負の刻が訪れる。


 先に仕掛けたのは兎和だった。緩やかなリズムから一転して鋭さを増し、左足を大きくアウトサイドに踏み込む。連動してボールを転がし、あからさまに縦突破の態勢に入る。


 迎え撃つ味方SBは、静から動への急激な変化に慌てふためきながらも何とか食らいつく――次の瞬間、俺の視界の端に映る神園美月がブルーのタオルを閃かせて叫ぶ。


「――ゴォーッ!」


 彼女の凛とした声が響き渡るや否や、兎和は劇的な反応を示す。

 踏み込んだ左足を軸に、マッチアップする相手の重心の逆を取るようにインサイドへぐいっと切り返した。同時に、右足でボールを動かしてカットインを試みる。


 間髪入れず、一陣の青い風が鮮やかにピッチを吹き抜ける。

 思わず息を呑む――兎和がいま繰り出したのは、フェイントを交えたシンプルなチェンジオブペースだ。ただし、ゼロからトップまでの加速はまるで異次元。


 爆発的なアジリティだ……夏合宿のときより速いじゃねーか!

 マッチアップした味方SBはまったくついていけず、体どころかビブスにも触れないままブチ抜かれてしまった。


 さらに悪いことに、トップスピードでこちらへ迫ってきてやがる。対策を考える時間すら与えてくれない。


「クッソがあぁぁああ!」


 カバーポジションにいた俺は、衝動的にピッチを蹴って駆け出す。

 真っ当なディフェンスで対処できる状況じゃない、そう直感した。ならば、後はレッドカード覚悟で突撃するのみ。怪我をさせるかもしれないが、そんなの気にしちゃいられねえ。


「兎和くん――いッけえぇぇええ!」


 しかし再び神園美月の大声援が響き渡り、兎和がもう一段階ほど加速する。さらに俺と対峙するや、ボディフェイントを駆使してイナズマの如く鮮烈に脇を突破していく。


 その刹那、奇しくも相馬の姿が重なる――だが、『コネホ・ブランコ』の異名を持つ後輩はその面影すらも置き去りにしてピッチを切り裂いた。


 まさか、高校トップレベルのサイドアタッカーを凌駕する才能の持ち主だっていうのかよ!?

 驚愕で思考が真っ白に染まる。それがマズかった。気づけば、追走してきた味方SBのアホ面が目の前に迫っていた。


 直後、ガツン。

 顔面に激しい衝撃が走り、俺はピッチに倒れ込む。

 歪む視界には、強烈なシュートをゴールネットに突き刺す兎和の姿が映り続けていた。

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