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第102話

 なんで逃げるのか――そんな美月の問いを受け、僕は壁に背をつけながら頭の中を急ピッチで整理する。


 演劇の主役を引き受けた後、しばらくして休み時間に入った。

 そこで僕は、トイレに向かうことにした。しかし途中で、A組の教室前の廊下で女子が集まってはしゃいでいるのに気づく。


 きっと美月絡みの騒動に違いない、とすぐにピンときた。

 なので、興味を惹かれてついフラフラと歩み寄ってしまった。


 ちょっとワクワクしながら、女子集団の背後までたどり着く……すると廊下の端で、何やら話し込む美月と相馬先輩の姿が目に飛び込んできた。


 その刹那、直視しがたい気持ちが猛烈に込み上げてきた。理由は不明。さっきまでのワクワクもさっぱり消え去り、ただ一刻も早くその場から立ち去りたくてたまらなくなった。


 直後、僕は即座にUターンをかまして自分の教室へ戻ろうとしていた。

 ところが、うっかり近くにいたA組の女子に名前を呼ばれる――それを合図に振り向いた美月と視線がぶつかり、続けて追いかけられる展開へとなだれ込む。


 そして勃発した謎のチェイスの最中、廊下を走るなと注意され、競歩でどうにか抵抗した。しかし階段の踊り場に差し掛かったところでとうとう確保され、現在に至る……のだが、その現在がかなり問題だ。


 僕は壁に背をつけ、頭の両サイドに手を置かれて拘束されている。いわゆる『壁ドン』というやつだ。妹に借りた少女マンガでみた。けれど、これって普通は男女逆だよね?


 とにかく、美月との距離が非常に近く……美しすぎる顔が間近に迫り、漂ってくるいい香りに鼻腔を蹂躙され、なんだか頭がクラクラしてきた。結局、思考はますますぐちゃぐちゃだ。


 だから、多分それが原因だろう。

 先ほどの『なんで逃げるのか』という問いに対し、僕は思わずこの場でもっとも不適切な言葉を口にしていた。


「ぱ、パンツ見えたかも……ジャンプしたとき……」


 実は、美月が階段の中腹からジャンプする姿をチラッと視界に収めていた。唐突に『待ちなさい』と声が飛んできたので、一瞬振り返っていたのだ。

 間髪入れず、豪快にスカートを翻しながら舞い降りる彼女を目撃した。その色は……。


「――ショートパンツ履いてるから」


 美月の刺すような声が、衝撃シーンを想起しようとする僕の意識を今に縫い止めた。

 ショートパンツ……それって、やっぱりパンツなのでは?


 またも不適切な疑問が頭の中で渦巻く。が、送られる氷河のような青い視線により、いくらか冷静さを取り戻すことができた。


「オーケー、ショートパンツなのは理解した。だから、ちょっと――」


 離れてほしい、と僕が続けて口にしかけたそのとき。

 予期しない第三者が現れ、せっかく落ち着きを取り戻そうとしていた事態を引っ掻き回してくれる。


「あーっ、チューしてる! 美月が襲ってるー!」


 見覚えのある女子生徒が階段の上からこちらを指差し、楽しげに笑う。

 確か、さっき僕の名前を呼んだのも彼女だったな……名前は、木幡さんだったと思う。A組のキラキラ女子で、わりと同級生男子から人気があるみたい(慎から聞いた)。


 それはそうと、木幡さんは「きゃー!」と叫びながら教室の方へ走り去っていった。

 僕と美月は、階段の上へ向けていた顔を揃って正面に戻す。それから無言で数秒見つめ合い、距離を取る。


「……さっきの女子は、木幡咲希ちゃん。私の友だちだけど、恋愛脳でそっち系の噂が大好きなの」


「なるほど……だいぶマズくない!?」


 美月が言うには、一番見られてはいけない人物に見られてしまったらしい。

 早急に誤解を解き、口止めしないと……一緒に小走りで階段をのぼり、木幡さんの行方を追う。


 再び目にした廊下は、やけに混み合っていた。知り合いもちらほら見える。さっき僕たちが駆け抜けたせいだろう。それでも、わりと近くで探し人の姿を見つけることができた。


「よかった、そこにいた……あ、ダメだ。さっそく噂ばらまいてない?」


「兎和くん……とりあえず、また後で話をしましょう。私は咲希ちゃんを口止めしてくる」


 木幡さんは、意外と近くで友人らしき女子たちと立ち話をしていた。ジェスチャーを交え、ちょっと興奮気味のご様子。


 それを見た美月は、「待ちなさい、咲希ちゃん!」と叫んで駆け出す。名前を呼ばれた相手もイタズラがバレたみたいな顔をして走り出し、謎のチェイスが再び開始された。


 廊下は歩きましょう、と遠ざかる二人の背を眺めて呟く。

 その後、すぐに授業開始を告げるチャイムが響く。


 廊下は騒然としたままで、生徒の数がなかなか減らない。そんな中、僕は好奇の視線を集めつつ教室へ足を向ける――誰かに噂されようが、指をさされようが、まったく意識が向かなかった。


 ある程度落ち着きを取り戻した途端、先ほどの『なぜ美月から逃げたのか』という疑問がたちまち僕の思考を支配し始めたのだ。


 いったいなぜ……D組へ戻り、疑問を巡らせながら窓際最後方にある自分の席に着く。

 何となく、残暑が色濃く影を落とす外の景色へ目を向けた。窓ガラスにぼんやり映る覇気のない顔に、ふと目が留まる。


 その瞬間、天啓の如き閃きが全身を貫いた。

 もしかしたら僕は、相馬先輩にビビったんじゃないか……?

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