「交換日記を始めます」
「……誰と誰が?」
「もちろん私と兎和くんが」
高校生活で初めての文化祭が幕を閉じ、いつの間にか今週も折り返し地点を過ぎていた。
そんな何気ない平日の昼休み。いつものようにお弁当を携えて1年D組を訪れた美月は、仲間内で最も遅く食事を終えると唐突にアホなことを言い出した。
賑わう教室内は、間近に迫る中間テストに関する話題が頻繁に飛び交っている。その喧騒のただ中で、前置きもなく提示された『交換日記』という懐かしワード……明らかに浮いている。
僕を含め、ランチタイムを共にしていた慎と三浦(千紗)さんが思わず首をかしげてしまったのも無理はない。
しかし美月は、こちらのリアクションに構うことなく話を続けた。
「兎和くんって、変に意固地なところあるでしょ? 相馬先輩とのフットサル対決でも、それで余計なフラストレーションを溜め込んでいたし」
あれは、色々あったんだ。ただでさえ相馬先輩絡みのモヤモヤが大量発生していたところに、加賀さんとの会話がキッカケで思考が迷走を始め……しまいにはちっぽけなプライドまで顔をのぞかせ、『自分だけの力で勝てばまるっと解決』みたいな誤った答えに行き着いた。
もちろん美月にはある程度は説明済みだ。あのとき抱いた『モヤモヤの色合いが一致しない感覚』は依然として未解決であり秘密だが、栄成祭をもって大抵の問題はひとまず収束したはず。
「そもそも兎和くんは、切羽詰まると奇行に走りがちよね。そして、意思決定のプロセスに謎が多い――そこが問題なの。原因はおおよそ見当がついてるけど、聞く?」
「い、一応聞いておこうかなあ……」
あまり気は進まないけれど、ここで真実を知っておかなければ僕はまた同じループにはまってしまう可能性が高い。
伴う痛みも受け入れる。自己の輪郭へ触れるのだから、我慢しなければ……あれ、似たようなことを前にも考えたような気がする。
「では、なるべく簡潔に……兎和くんは一般的な同年代の男子に比べて、人生経験が不足しているぶん情緒面の発展も未熟なのだと思う」
もともと内気な性格で、コミュニケーションに対する苦手意識や不安感を持っていた。
そのうえ所属していたクラブチーム内で陰湿なイジメを受け、周囲の人間に対して強い警戒心を抱くようになる。
こうなれば、成長過程で一般的な人生経験を積むことは難しい。自己防衛本能が働き、コミュニケーションどころではなくなる――ユニークな思考ロジックや極端に低い自己肯定感も、この問題に起因する。
情緒が未熟だと、感情が上手くコントロールできなかったり、結果を十分に予測できなかったりする。そのため、物事の捉え方や行動パターンに違いが生じ、周囲の人間の目には『奇行』や『突飛な振る舞い』として映ることが多くなる。
「人の行動は学習と経験によって形成される。けれど、その過程で得られる情報が普通より少ないから、導かれる答えが『常識』から外れるのは当然よね」
ただし奇行が情緒の未発達によるものとは限らないので、原因や背景を考慮する必要がある――と、美月は注意点を付け加えた。さらに彼女は、一呼吸おいてから衝撃的な要約を言い放つ。
「単純に、内面がまだ幼いの。まるで、気弱でとびっきり泣き虫の子どもみたいにね」
「気弱で、泣き虫の、子ども……」
美月が導いた結論を僕が唖然と復唱すると、慎が「ぶふっ」と吹き出す。お隣の三浦さんは両手で顔をおおい、明らかに笑いを堪えていた。
とんでもない赤っ恥をかかされた……が、妙に説得力があるから困る。確かに僕は、人より圧倒的に経験が少ないみたい。高校入学以前の人生を振り返ってみても、家族以外との思い出はほとんど浮かんでこない。それが何よりの証明だ。
「でもさ、美月ちゃん。お子ちゃまメンタルが、どうして交換日記につながるの?」
ちょうど僕の口から出かかっていた疑問を、三浦さんが興味津々に代弁してくれた。
自分が色々と未熟なのは理解したし、納得もできた。だが、交換日記を始めたところで根本的な改善には繋がらないだろう。
「会話やスマホを介したコミュニケーションって、直感的に返事をすることが多いでしょ? テンポやレスポンスが重視されがちで、言葉を選ぶ暇がなかったりするのよね。その点、交換日記は時間をかけて文字を書く。自分の心境をじっくりと整理しながら綴れる。つまり、思考のプロセスまでしっかり可視化できるの」
加えて、実際に書くという行為自体は思考を深める手助けにもなるので、素直に感情を表現しやすくなるそうだ。また相手にも深く考えた言葉を伝えられるため、思いやりのあるやり取りができる。
「なるほどね。交換日記だと、感情や考えがより整理された状態で表現されるわけだ」
美月の話を聞き、大いに感心した様子の慎が口を挟む。
僕もだんだん理解が深まってきた。日記だから脈絡や形式にこだわらず、その日に起こった出来事や思ったことを自由に綴ればいい。ただし丁寧に、心を込めて。
「正直、私は今のままの兎和くんでもいいと思っているわ。けれど、本心や精神状態をより深く把握したい。もっと効果的なサポートが可能になるだろうし、少なくともフットサル対決のときのようなすれ違いは避けられるはず」
嘘を書かないことが条件だけどね、と美月は念を押す。
話を聞く限り、それほど手間が掛かるものでもなさそうだ。幼い頃からサッカーノートを書いているせいか、日記にも抵抗がない。
むしろ望むところだ。相互理解が深まり、美月の負担が少しでも軽くなるなら異論などあるはずもない。
「いいじゃん兎和、交換日記。あと、これからは俺たちがついているからな。いっぱい人生経験を積もうな」
「ありがたい……けど、半笑いで言うんじゃない!」
おのれ、慎のヤツ他人事だから楽しそうにしやがって……そうだ。どうせなら巻き込んでしまおう。僕をからかったことを後悔するがいい。
さっそく閃いた企みを実行すべく、美月に問いかける。
「なあ、美月。交換日記って、恋人同士にとってもいい効果だらけじゃないか?」
「もちろんよ。お互いの気持ちや考えをより深く理解できるし、普段言えないことや伝えきれない思いを共有できる。二人の絆を育むのにピッタリね!」
美月は微笑み、対面の椅子に腰掛ける三浦さんに意味ありげな視線を送る。
仲良しな女子同士のコミュニケーションはとてもスムーズに行われた。すぐさま意図を汲み取ったようで、一瞬にして慎へと話題の標的が切り替わる。
「慎、今日の帰りに交換日記ノートを買いに行くからね。素敵なのがあったらいいなぁ~。あ、そうだ。かわいいシールも買わないと!」
「いいわね。私もシール欲しくなってきちゃった」
じゃあシールは今度一緒に買いに行こう、と女子二人は大変仲睦まじい様子。
対象的に男子二人は、机の下で互いの足をゲシゲシ蹴り合っていた。この醜い争いは、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで続けられた。
***
美月と交換日記をすると決まった、その日の夜。
部活終わりに立ち寄った学校近くのコンビニで、僕はある人物と鉢合わせになった。
「あ、松村くん」
「あ、兎和」
水を取ろうと思ったら、飲料が並ぶリーチイン(冷蔵ショーケース)の前で松村くんとばったり顔を合わせた。先ほどC・Dチームの面々は一緒に部室でジャージに着替えたばかりなので、およそ10分ぶりの再開だ。
それぞれ買い物を済ませると、二人揃って何となく無言のまま駐車場の端にあるベンチへ移動した。
僕はこの後、日課のトラウマ克服トレーニング(自主トレ込み)を行う予定だ。しかし空気を読み、美月に『少し遅れる』とメッセージを送っておいた。
「文化祭でも大活躍したみたいだな」
「いや、あれは活躍というか……」
外灯が照らすベンチに並んで腰掛けると、松村くんがペットボトルのフタを開けながら話を切り出した。
僕は楽しかった栄成祭の思い出を語る。もちろん無難な内容に絞って。時折こぼれる笑い声に、関係がずいぶん良くなったと実感する。
それから、また少し経ち。
会話に一区切りつくと、不意に松村くんが姿勢を正す。
「兎和、悪かったな」
「え? 急にどうしたの?」
「けっこう前に、お前を部室に呼び出してゴン詰めしたろ? あれは、完全に俺の勘違いだった。ずっと謝ろうと思ってたんだ……ごめんなさい」
言って、頭を下げる松村くん。
思い返すと、確かにそんなこともあったな……あれは、Dチームが初めて挑むリーグ戦のメンバー発表が行われた日だったか。もうずっと昔のことのように感じる。
あの時はめちゃシンドかったけど、今となればもう何でもない。ついでに、個人的にはとっくに解決したつもりでいたから、返事はすでに決まっている。
「もう過ぎたことだし、気にしないで。これからもチームメイトとして仲良くしてくれたら嬉しい」
「……許してくれてありがとう。やっと気持ちにケリをつけられた」
憑き物が落ちたような顔、とでも言うべきだろうか。再び頭を上げた松村くんは、どこかすっきりとした表情を浮かべていた。外灯の差し具合のせいか、ぐっと大人びて見える。
一方、僕は逆に申し訳ない気持ちになってきた。
こちらはほぼ忘れかけていたほどなのに……というか、またボウズにしたのも今の謝罪に関係しているのだろうか?
「ああ、これな。酒井のバカがちょっとやらかしてさ。しゃーねえから、反省ボウズに付き合ってやったんだ」
松村くんは自分の頭をひと撫でし、シャリリと音を立ててから事情を明かしてくれた。
反省ボウズ……いったい何をしでかしたのだろうか。それに、酒井くんはボウズ通り越して五厘だったけど。しかも長さをキープしているとのウワサである。
「アイツは反省中だからそっとしといてやれ。ていうか、お前は気にせずサッカーに集中しとけ。そんで『栄成生の主張』で宣言した通り、まっすぐ全国の頂点でも目指してろ。もし部内で問題がおこりそうなら、今度から俺が味方してやる」
まったくもって予期せぬ発言だった。
初めてパス交換に誘ってくれたときの松村くんの顔がふと重なる――いっときは酷く険悪な態度をとられ、すごく怖かった。それでも、こうして友だちと呼べるほどの関係を築けたんだ。
「……ありがとう! また一緒に部活がんばろう!」
「うおっ、やめろアホ!?」
気を緩めると、僕は泣いてしまいそうだった。だから、目についたボウズ頭をシャリシャリやってごまかそうとしたのだが、本気でウザがられた。
そして跳ねるようにベンチから距離を取った松村くんは、チッとひとつ舌打ちをしてから改めて口を開く。
「つい恥ずかしい話をしちまった。俺はもう行くぜ。じゃあな、兎和――また明日、部活で」
「あ、うん! また明日、部活で!」
手を振り、去っていく松村くんの背中を見送った。
ふっと涼やかな風が吹き、深まる秋の気配を運んでくる。
季節の移ろいと共に、段々と気温は下がっている。だが、反対に僕の情熱の炎は燃え上がるばかり――もう間もなく、高校サッカーのトップシーズンが到来する。