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第119話

「からだ冷えてない? コーヒーを持ってきたの。まだ温かいわよ」


 池の中央付近まで繰り出したところでオールから手を離し、一息つく。すると美月が、自分のバッグから小ぶりな保温ボトルを取り出した。


 トクトクトク、と。フタをひっくり返したコップに、中身の液体が注がれる。立ち上る湯気とコーヒーのいい香りが、ふんわり辺りに広がった。


「家を出る前、兎和くんのお父さんが準備してくれたの」


「そうなんだ。サーバーに入っていたやつかな」


 おそらく、淹れたコーヒーを温め直してくれたのだろう。

 コップを受け取り、そっと口をつける……ああ、美味しい。


 澄んだ秋空のもと、ゆったり揺れるボートの上でホットコーヒーを飲む。うーん、とても贅沢なひと時だ。


 なんだかふっと肩が軽くなり、脱力したような感覚を抱く。ここしばらくは、文化祭関連を含め何かと騒がしかったから、無意識のうちに神経が張り詰めていたのかも。


「よかった。リラックスできたみたいね」


「うん。ありがとう、美月」


「お礼はお父さんにね。それにしても、わかってはいたけどサッカー部は本当に忙しいわよね。文化祭と中間テストが終わったと思ったら、すぐに冬の選手権の予選だなんて」


 美月の言うように、サッカー部は飛び抜けて忙しい。

 休み自体、月に2・3回しかない。そのうえ、トップチームは現在も並行して『T1リーグ』で奮戦中。最終節は12月アタマに予定されている。


 引退まで週末はほぼ試合が入っており、トレーニングと合わせてスケジュールは過密ぎみ。怪我人も相応に発生しているようで、フィジカルコーチや豊原監督が頭を抱えていた。


 そもそも、一般的な部活の引退時期は夏のインターハイだ。対してサッカー部は、リーグ戦や冬の選手権の終了時点まで気の抜けない戦いが続く。もし全国に出場したら、年始以降もめでたく活動継続となる。


 推薦で大学へ進学する予定であればまだマシだが、受験と部活を両立すべく奮闘している先輩も多い……僕もいずれその道を辿るかもと思うと、ちょっとゲンナリするな。


「そうだ。先月のセレクションの話きいた?」


「ああ、なんか有名な子が受けに来たってやつね。でも、わざわざ栄成は選ばないでしょ」


 実は先月、来年度の入部希望者を対象にしたセレクションが行われていた。そして参加者に有望なプレーヤーがいたらしく、一時話題になった。今夏の『全国中学校サッカー大会』で準優勝を収めたチームの中心メンバーだとか。


 しかし、注目株は名門校に進学するのが常道なので、ウワサも一瞬で忘れ去られた。どうせ滑り止め感覚でセレクションを受けに来たのだろう、と。


「都内の中学の子だし、名門校が放っておかないって」


「そうかなぁ。栄成を選んでくれたら、来年度以降の戦力アップに期待できたのに」


 来年、か……いずれ僕にも後輩ができるんだよな。

 ジュニアユース時代はふさぎ込んでいたから、年下との交流はほぼなかった。ちゃんと先輩として振る舞えるだろうか。今からすでに不安だ。


「コップもうカラになった? 私もコーヒー飲みたいから貸して」


「あ、うん……えっ!? ダメじゃない? 間接キス的な……」


「ずいぶん前にも似たような心配をしていたわね。初めてのリーグ戦のときだっけ? ちゃんとウエットティッシュでふくから大丈夫よ」


 僕が近い将来のことを考えていると、いつの間にか空になっていたコップに美月が手を伸ばしてきた。おとなしく渡せば、彼女は取り出したウエットティッシュで飲み口を拭き、ゆっくりコーヒーを飲み始める。


 こちらは思春期丸出しのリアクションをとってしまったというのに、相手はいつも通りの態度を崩さず……やっぱり、僕が異性だという認識が薄いみたい。


 なんか悔しいので、首に手を当てる痛メンポーズをとりつつじっと見つめる。妹から借りた少女マンガにあったやつだ。君に届け、僕の男性フェロモン!


「その変なポーズやめなさい。怪我したのかと思ってビックリするから。ところで、この池の周りの木は桜よね?」


「あ、うん……ここ、春になると桜がすごくキレイなんだ」


 美月の言う通り、この池の周囲には200本以上の桜があり、春の満開時期にはうっとりするような光景が広がる。その美しさは、『日本さくら名所100選』に認定されるほどだ。


「じゃあ、お花見に来なくちゃね」


「あー……エグい混むんだよな。散策とかならまだマシだけど」


 井の頭公園は、春になるとお花見客でごった返す。その間、地元の人間は避けて通ることが多い。それに、ゴミがひどくて毎年問題になっている。

 けれど、美月が見たいと言うなら……まあ、やぶさかじゃない。


「春になったら、また来てみよう」


「急な心変わりね。でも、楽しみ」


 それからまた、穏やかに会話を交わす。オチなんてなくてもすごく楽しめた。なにより、美月の柔らかい声を聞くだけで心が休まる。きっとヒーリング効果があるに違いない。周囲の自然豊かな環境と相まって、効果も倍増中だ。


 時間いっぱいボートを楽しんだら、今度は井の頭公園と隣接する吉祥寺の繁華街へ移動する。美月がサッカー用品を見たいと言い出したのだ。


 目的地もすでに決めているようで、スマホの地図を確認しながら歩いて向かう――十数分ほどして到着したのは、とあるデパートの3階にあるスポーツショップ。


「何か買うの?」


「ううん。兎和くんに最新のスパイクをいくつかフィッティングしてもらって、感想を聞きたいの」


 謎のリクエストに訝しんでいると、カーム社関連の案件だと教えてくれた。どうやら、履き心地をチェックしたいらしい。


 さっそく美月は店員さんに声をかけ、テキパキと数種類のスパイクを用意してもらう。もちろん、どれも僕の足に合うサイズだ。


「兎和くんは、どんなスパイクが好み?」


「うーん……いろいろあるけど、やっぱ足に合うのが一番かな」


 フィッティングをしながら、僕は持論を語る。

 スパイク選びは奥が深い。各モデルには独自のコンセプトがあり、スタッドの形状や配置、アッパーの素材や加工など、それぞれの特徴はまったく異なる。


 ソールもピッチ環境ごとに複数のタイプが用意されており、選ぶ際は注意が必要だ。さらに、天候によっても適宜使い分けが求められる。


 最優先は自分の足の形に合うかどうかだが、ポジションやプレースタイルで選び方が変わってくる。

 それこそ、トッププロであればスポンサーに依頼してオーダーメイドも可能だろうが……いいなあ。いろいろカスタマイズできたら楽しそうだ。


「――お、これいいな」 


 何足目かを試した瞬間、ふとピンとくる感触があった。

 ネコ科の動物をモチーフにしたロゴが特徴的なメーカーのスパイクだ。イングランドで輝きを放つ日本人サイドアタッカーが同シリーズを愛用しており、これはその最新モデル。


「それ、気に入ったの?」


「うん。かなりフィット感がいい……普段買わないメーカーだから盲点だった」


 僕はこれまで、スリーラインが特徴的なメーカーを一途に愛用してきた。理由は、なんとなくカッコいいから。なので、他メーカーのスパイクの試し履きをあまりしてこなかった。しかしこのフィット感は、乗り換えを真剣に検討するレベルだ。


 軽いし、踵の収まりがいい。アッパーのグリップもよさそう。スタイリッシュなデザインに、ブルーを基調とした配色もかなり好み。ただ、お値段がイカツイ。最新のトップモデルなだけに、僕の手持ちじゃまるで足りない。


 貯金を崩せば買えるけど……いま履いているスパイクもまだ十分使えるし、無駄遣いするみたいで踏ん切りがつかない。


「兎和くん、もしかして欲しくなっちゃった?」


「……別に欲しくない」


 今回は泣く泣く購入を諦め、僕はちょっと強がりながらフィッティングを継続する。

 ほどなくして、全種類を制覇した。すると美月が正面に腰をおろし、何を思ったかスパイクを脱いだばかりの両足をまじまじと触り始める。まるで確かめるように、執拗に。


「あの、何してんの……? ていうか、汚いし臭くない?」


「ニオイは別に大丈夫。汚れも、ウエットティッシュ持ってるから」 


 熱心に足を触られると、なんか変な気分になってくるからやめてほしい……けれど、結局みっちり弄られたうえ、なぜか複数の角度からスマホで写真まで撮られた。


 それで満足してくれたらしく、僕はようやく解放された……かと思えば、今度はショップが提供する『3D足型測定』を受けさせられた。しかも、プリントアウトされた個人データを「ちょうだい」とストレートに要求される。


 測定の料金を支払ったのは美月なので、別に構わないけど……何に使うのか謎だ。


「カームのトレーナーさんとちょっとね。変なことには使わないから安心して」


 単に少し気になっただけで、もとより心配はしていない。美月が、僕に不利益を与えるはずもない。きっとそのうち教えてもらえるだろう、とここは一旦納得しておく。


 これで、スポーツショップでの用事は終わり。デパートを後にして、目的を定めず周囲を巡る。

 ふらりと立ち寄った雑貨店で美月が『フォトスタンド』を購入したり、歩き疲れたら喫茶店で休憩したり、気の向くままに散策を楽しんだ。


 やがて、夕暮れ時を迎える。 

 僕たちは繁華街を離れ、再び井の頭公園の敷地に足を踏み入れた。いい頃合いになったので、ジ◯リ美術館を眺めてから帰宅するつもりだ。


 しばらく歩くと、周囲の森と調和した温かみのある建物が姿を現す。色鮮やかながら、趣のある外壁がいつ見ても印象的だ。


「わっ、ト◯ロいる! 見て、兎和くん!」


 僕の袖を引いて、美月がはしゃぎだす。


 暖色系の灯りに彩られ、ファンタジックな雰囲気を一層豊かにした建物をぐるっと見て回る。すると、『ニセの受付』と呼ばれる丸い小部屋の前にたどり着く――そこで、ライトアップされた大きなト◯ロと窓ガラス越しに対面した。


 来場者をお出迎えしてくれているのだ。ただし、施設の正式な入口はもう少し奥にある。チケットがない場合、ここより先へは進めない。


 周囲には見物客がたくさんいたので、人の良さそうな二人組の女性に写真を撮ってもらった。もちろんト◯ロも一緒だ。


「可愛かったぁ。でも、美術館の中をじっくり鑑賞したくなっちゃった。今度は予約を取って行きましょう」


 美月は、ジ◯リアニメも好きみたい。特に『バルス』って滅びの呪文を唱えるやつ。うちの妹も大好きなので、ちゃんと予約を取って皆で美術館を堪能する約束を交わした。


 その後、帰宅して一緒に夕飯を食べた。

 ごちそうさまを言ってからしばし雑談に興じていると、不意にインターホンが鳴り響く。モニターを確認した妹の兎唯(うい)が「涼香ちゃんだ!」と嬉しそうに声を上げ、玄関へすっ飛んでいった。


 もうお迎えか……振り返れば、あっという間だったな。

 僕は物足りなさを覚えつつ、荷物をまとめた美月と一緒に玄関へ向かう。うちの両親も見送りに出てきた。


「こんばんは。夜分にすみませんね」


「いいえ。どうせならまた泊まっていってくれたらいいのに」


 涼香さんは、まとわりつく兎唯をあやしながら両親と会話を始めた。

 一方、僕と美月は家の敷地沿いに止まる見慣れた高級車の脇に移動し、向かい合って別れの挨拶を交わす。


「今日もめちゃ楽しかった。青春スペシャルイベント最高。本当にありがとう」


「私もすっごく楽しかった。4冊目のスタンプカードもすぐに貯まりそうだから、次のプランを考えておかないとね」


「うん。またトレーニング頑張るよ」


「ふふ、今後も一緒に頑張りましょう。じゃあ、また明日ね」


 改めて別れの挨拶とお礼を告げ、美月は車の後部座席に乗り込んだ。続いて涼香さんが運転席に座り、車は静かに走り出す。


 家族と一緒に手を振り、遠ざかるテールランプを見送る――こうして3回目の青春スペシャルイベントが終わりを迎え、僕は消えゆくロウソクの灯りを惜しむような寂寥感に包まれるのだった。

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